「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)
- 2019年 3月 3日
- カルチャー
- 内野光子
- 元号が変わるというけれど、―73年の意味(6)敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)(2018年10月 8日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html
「戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか
大辻の冒頭の一文を繰り返せば、「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。」とある。この時評の前提になっているので、やはり、こだわらざるを得ない。私は、すでに、「歌人は敗戦をどう受けとめたか」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)において、第二芸術論出現以前の論調を中心に分析を試みている。また、それと重なる部分もあるが、昨年の10月に当ブログで以下のテーマで連載をしている。下記の3件だけでも、見ていただきたい。ここでは、重複する部分もあるが、当時の短歌作品や歌人の執筆した文章をたどりたい。
② 元号が変わるというけれど、―73年の意味(7)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制> (3) 2018/(2018年10月11日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html
③ 元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)(2018年10月29日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html
たとえば、1945年8月15日直後の『朝日新聞』には「大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす(釈迢空)」(8月16日)「聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる(斎藤茂吉)」(8月20日)などが大家たちの作品が発表されている。のちの「第二芸術論」において、1941年12月8日の開戦を受けての作品とどこが違うのかと、批判の対象にもなる種類の作品であった。ちなみに、髙村光太郎の「一億の号泣」が同じようなコラムで発表されたのが8月17日であった。
また、つぎの短歌は、いずれも、1945年10月号の『短歌研究』に発表されたものだが、まだ、GHQの検閲も軌道には乗っていなかった時期でもあったのだろう。続く、11月号では、翌年の歌会始の「勅題」は「松上雪」と発表されたことを報じている。
・天皇ぞわれにまします天つ日ぞわれを照らさすこの和ぎを(吉植庄亮) ・大君のみためぞ吾ら生ける身もはてなむ身も捧げまつるらむ(高田浪吉) ・ひたふるに胸肝あつき詔やうつつの御声ききたてまつる(佐藤佐太郎)
翌年、1946年になると、GHQの検閲が始まったことを、つぎのように伝える。
「聯合軍最高司令部の事前検閲に就いて」と題して、歌集歌書短歌雑誌等一切の出版物は印刷前にゲラ刷りを日本放送協会内の聯合軍最高司令部検閲部宛に提出し検閲を受けることになった、旨の記事がある(「歌界記事」『短歌研究』1946年1・2月)。その後の天皇制にかかる作品の検閲状況は、上記の記事③を見ていただければわかるだろう。 1947年1月23日開催の「歌会始」に際して、御歌所の千葉胤明、鳥野幸次に加えて、民間歌人として、斎藤茂吉と窪田空穂とともに選者となった佐佐木信綱は、『日本短歌』1946年11月号に「詠進歌に就いて」、1947年4月には「詠進歌を選して」を寄せ、後者では、「十五名の豫選歌が、御前に於いて、崇厳なる御式のもとに披講せられるのを承ってまことに感激に堪へなかつた次第である」として、時代を反映した、新憲法、祖国の再建、戦災地の復興について、生活を歌った作品の多かったことを特色としてあげている。
民間歌人が、歌会始の選者になったことに対しては、つぎのように評価も分かれていること自体、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」とはいえない例証ではないか。むしろ、皇室との積極的な関与を歓迎する考え方がかなり蔓延していたことにもなるだろう。
岡野直七郎(1896~1986)は、「ひとたび聖断が下った以上、押しなべての国民は、今までの緊張がにわかに弛んで涙を流しつつ大詔を奉承したのである。(中略)国民詩である短歌の作者が、この日の感動を詠嘆したことは、極めて自然の勢であつた」と冒頭部分で述べた後、末尾では、川田順の皇太子殿下の作歌指導役に就いたこと、翌年1947年の歌会始の選者に、御歌所の歌人に佐佐木信綱、斎藤茂吉、窪田空穂が加えられたことを「特筆すべきとして、歌界の範囲が如何に広いかを示唆するものである」と結んでいる(「(昭和二十一年における短歌)終戦一年間の展開」『短歌研究』1946年12月)。
新短歌運動の推進者であったが、当時は、短歌ジャーナリストとして活動していた柳田新太郎(1903~1948) は、「御題『あけぼの』歌会始(一月二十三日)の詠進歌一三八二六首、選歌『天地にひかりみなぎりあけてゆくこのあけぼのの大きしづけさ(塩沢定)』一五首。今年から民間歌人三名(信綱、茂吉、空穂)が選者に加つたその結果に一応の期待がつながれたが、蓋を開けてみれば相も変らぬ御歌所短歌。在米羅府の高柳勝平(橄欖同人高柳沙水)の『あけぼのの大地しつかと踏みしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ起てと』だけが異色、述べている(「短歌紀要」『短歌往来』1947年4月創刊号)。
窪田空穂(1877~1967)は、後に、つぎのような三一首の連作を寄稿している(「吹上御苑を拝観して」『短歌研究』1948年7・8月合併)。皇室と距離を置くどころではない。
御研究室に通はせたまふ路と聞き心ただならず踏みゆく朽葉
見るはただ薄原なり焼け残る小き御文庫ぞ御住まひどころ
吹上の御苑拝せしこの方や偲ぶに畏くわがこころ重し
川田順は、1946年年頭より皇太子の作歌指導にあたり(「歌界記事」『短歌研究』1946年4月)、吉井勇は「すめろぎ」と題して5首を寄せている(『短歌往来』1947年7月)。
おのづから胸ぬち熱し親しげに若き侍従の仕ふる見れば
浪速津の市井のことも逡巡はずもうしてかしこすめろぎのまへ
神にあらぬすめろぎたればわれ等また一布衣として御前にゐむ
吉井、川田は、谷崎潤一郎と新村出とともに、天皇に招かれ文芸について語っているし(「座談会・天皇陛下の御前に文芸を語る」『小説新潮』1947年9月(創刊号)、二人はともども1948年に「歌会始」選者になっている。吉井は1960年までつとめ、木俣修に譲ったかたちである。川田は「老いらくの恋」事件で、一年で降板するのだが。
1951年の「歌会始」の豫選者の中には、春日井瀇、五島茂、高尾亮一、中西悟堂という、すでに歌人としてメディアで活躍している著名人たちもいた。これも、中堅の歌人たちを含めて、皇室との関係を持ちたいとする願望の強いことの証ということができよう。
その後の、歌人と皇室との関係については、これまでの拙著で繰り返し述べていることなのだが、ざっくり言えば、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」というより、歌人たちは、むしろ、積極的な皇室へのアプローチを躊躇しなかったともいえる。
なぜ、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省」もないままに、皇室との関係を深めようとした歌人たち、彼らにも寛容であり、抵抗なく受容した歌人たち、そして、今、現在の歌人たちにも、そのまま引き継がれ、さらにその関係は強化されようとしている、真っ只中にいる。
その要因は、直接的には、各歌人たちが天皇とつながりたいという名誉欲や自己顕示欲につながるのだが、大局的にとらえると、GHQが日本の占領政策のために編み出された「象徴天皇制」というかたちで天皇制を残したこと、日本政府はつねに天皇、皇室を政治的に利用しようと目論んでいること、天皇及び周辺も象徴天皇制のもとで天皇家の繁栄持続を願い続けていたことを、マス・メディアが全面的に支えることによって、天皇制は「天皇家の物語」として深く、国民の間に浸透していた、考えられる。
そうした流れの中で、たしかに、1960年前後、岡井隆による「歌会始」批判などが歌壇をにぎわしたこともあったが、それも一過性で、その岡井も1993年から2014年まで選者、その後は御用掛を務めるに至った。その間には、1979年には、いわゆる「戦中派」と称される世代の岡野弘彦(1924~)と上田三四二(1923~1989)がそろって選者入りしたときも、その意外性を指摘する声もあったが、岡野は、2008年まで務め、その後は御用掛を務めていたが、今は、篠弘に譲ったようである。
本記事の前半のような作業の中では、戦後短歌のスタートにおいて「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」という事実は見出しがたかった。
昭和天皇の時代が終わり、平成に入ってからの「短歌と天皇制」、いかなる変貌遂げたのか、遂げなかったのか、について報告できればと思う。
私は、ツイッターというのは苦手で、参加?はしていないのだけれど、大辻の、この「時評」には、子安宣邦が直後に反応して、それをめぐりにぎわっているのを知った。その件とあわせて、つぎは、「天皇制アレルギー」について触れたい。(つづく)
初出:「内野光子のブログ」2019.03.01より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0769月:190303]
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