本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(219)
- 2019年 3月 21日
- 評論・紹介・意見
- 本間宗究本間裕金融
金融界のパイピング現象
現在では、すでに「金融界のパイピング現象」が発生し始めたものと思われるが、「パイピング現象」とは、「ダム」や「堤防」などの決壊時に起こる、いわゆる「蟻の一穴」と呼ばれる状況のことである。つまり、「堤防」の外と内とで、大きな「水圧の差」が発生し、その結果として、小さな「パイプ状の穴」が開くことを意味しているが、この点を、現在の「金融界」に当てはめると、「大膨張したマネー経済」と「小さな実体経済」との間に、「小さな穴」が開いた状況のようにも感じられるのである。
具体的には、「パラジウムの価格」が、現在、史上最高値を更新中、また、「アルゼンチンの株価」も、スパイラル的な価格上昇を見せており、また、「ベネズエラ」についても、「制御不能なハイパーインフレ」の状態となっている。そのために、これらの出来事は、「今後、先進各国が、どのような状態に見舞われるのか?」を考えるうえで、決して、見逃すことのできない現象とも思われるのである。
つまり、過去10年間に起こったことは、いわゆる「金融のメルトダウン」と呼ばれる「金融システムの崩壊現象」であり、実際には、「仮想現実の世界」において、「コンピューターマネー」が急減する状況でもあった。そして、「国民の預金が、日銀の内部で国債に投資された」というような状況でありながら、ほとんどの人々は、「アベノミクス」や「異次元の量的緩和」などの言葉を信用した結果として、「どのようなことが起こっていたのか?」に気づかなかったものと想定されるのである。
別の言葉では、「ゼロ金利」や「マイナス金利」などの状況下で、「国民が貰うべき金利」が「政府」や「日銀」に留まっていた状況のことでもあるが、この点については、「諸行無常」という言葉のとおりに、「時間の経過とともに、必ず、変化が発生する」ということが「歴史の真理」とも言えるようである。つまり、現在では、世界的に「マネー経済」と「実体経済」との「境界線」が消滅しかかっており、我々の実生活にも、「金融メルトダウンの影響」が及び始めたものと想定されるのである。
具体的には、前述のとおりに、「世界各国で、本格的なインフレ現象が始まった可能性」のことだが、このことを決定付ける現象は、世界的な「国債価格の暴落」だと考えている。そして、現在は、まさに、その前夜の状況、すなわち、「日米欧の中央銀行が、再び、量的緩和を実施するのではないか?」というような「口先介入」により、「国債価格の暴落」が、かろうじて、抑え込まれている状況のようにも感じられるのである。(2019.2.12)
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尊敬される人々
「芹沢光治良先生」の「神シリーズ」などを参考にすると、「この世を創造したのは神であり、人間が自由にできるのは心だけである」ということが、間違いのない「真理」のようにも思われる。つまり、「人間の正体」としては、「神が創った世の中において、自分の身体などを、神から借りた存在」とも思われるが、このことは、私自身も含めた「科学万能主義の現代人」にとっては、理解が難しい点の一つとも言えるようである。
別の言葉では、「西暦1200年前後」から始まったものは「唯物論が、徐々に信じ込まれていった時代」であり、この時に「成功者」と呼ばれた人々は、「時代の流れに乗った人々」だったものと想定されるのである。つまり、「海外との貿易などにより、富を蓄積した人々」であり、また、「勤勉な労働や卓越した知識などにより、事業を成功させた人々」のことだが、当然のことながら、この時には、「世界全体の富」が増えた結果として、「他人が望む商品を販売した人々に、大きな利潤が生まれた状況」でもあった。
しかし、「西暦2000年前後」に始まった変化は、「1600年前の西ローマ時代の末期」と同様に、「唯心論が徐々に信じ込まれる時代が、再び始まった可能性」とも想定されるのである。つまり、この世の中心は「神」であり、「人間」は「神の子」、そして、「心以外の全ては、神からの借り物である」というような認識が広まる可能性のことだが、この観点から、「これからの成功者」を考えると、やはり、「精神的なレベルの高い人々」、あるいは、「天の位が高い人々」とも言えるようである。
別の言葉では、「他人から尊敬される人々」のことだがが、この時の注目点は「人々の価値基準」が変化することにより、「尊敬される人々の種類」も同様に変化する可能性である。つまり、「唯物論」が中心的な価値観となった時代においては、「事業を成功させて、多額の利益を得た人々」や「政界や大企業などで地位の高くなった人々」が「尊敬の対象」となったことも理解できるのである。
しかし、今後は、「唯心論」が中心的な価値観となり、「尊敬される人々」も変化するものと思われるが、「西暦400年から1200年」という期間において「どのような人々が尊敬の対象となったのか?」を考えると、やはり、「空海」や「最澄」、そして、「法然」や「親鸞」などが、「日本」において、大きな「尊敬の念」を集めたものと思われる。つまり、「人々の悩みや苦しみを救おうとした人々」であり、「決して、自己の利益だけを求めて行動した人々ではなかった」ものと思われるのである。(2019.2.15)
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一切皆空
「般若心経」などの「仏教の経典」については、「預言者が語った真理」、あるいは、「天や神から人間に与えられたメッセージ」だと考えているが、この時の問題点は、「受け取った人々が、どこまで真理を理解できたのか?」ということでもあるようだ。具体的には、「一切皆空」という言葉についても、「人間は、天や神の意志を、正確に理解できていないのではないか?」とも思われるが、実際のところ、「誰が天地を創造したのか?」、そして、「人間は、この世で、どのような役割を果たすべきなのか?」という点などに関して、現代人は、大きな誤解をしているようにも感じられるのである。
より具体的に申し上げると、人間は、「キリスト教」が教える「神が創造した天地」において、「仏教」が教える「成仏」、すなわち、「精神的なレベルを向上させる役割」を背負っているようにも思われるのである。そして、この時に、「心が、どのような役割を果たしているのか?」という点が、最も重要だと思われるが、「物質の誕生」については、「物理学」が、すでに解明したとおりに、「見える粒子」と「見えない粒子」がぶつかり合った結果の産物とも言われているのである。
つまり、このことから理解できることは、「物理学の初心者」である「私自身」においても、「現実世界は、神の産物ではないか?」ということである。また、「人間が所有する物は心だけである」、すなわち、「神が創造した社会において、人間が保有するものは、実質的にゼロである」ということが、実は、「一切皆空」が意味することのようにも思われるのである。より具体的には、「この世で、どのように考え、どのような行動を取ったのか?」という「体験」だけが、「人間の所有する財産」であり、実際には、「目に見えないもの」とも理解できるのである。
換言すると、「自分の身体」も「神様からの借り物」でありながら、「借りたことを忘れている状況」となっているために、さまざまな「欲望」、あるいは、「悩み」や「苦しみ」が発生するようにも思われるのである。つまり、「人生の目的」は、前述のとおりに、「成仏」という「天や神に近付くこと」であり、この時の方法論が、「あらゆる経験をしながら、天や神の智慧に到達すること」でありながら、現在では、この点が理解されていない状況のようにも思われるのである。より具体的には、「99%の努力と1%のインスピレーション」という「エジソンの言葉」のとおりに、「目の前に存在する問題」に対して真剣に考え、その結果として、「無尽蔵に存在する神の智慧」に到達することが、「人生において、最も重要なことではないか?」とも思われるのである。(2019.2.16)
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