テンニースのマルクス・エンゲルス像
- 2019年 4月 6日
- 評論・紹介・意見
- テンニース岩田昌征片桐幸雄
3月30日(土)、ある研究会にて片桐幸雄氏による同氏訳のF・テンニース『社会学者の見たマルクス』(社会評論社、2019年)に関する研究報告を拝聴した。
片桐氏は、その報告要旨で「テンニースはマルクスとエンゲルスの違いを執拗に主張する。……。マルクスの本来的な特質(冷静さ)がエンゲルスの激情により『混乱した』と言いたいのか」と、テンニースのマルクス・エンゲルス論の特徴を指摘している。
マルクス主義の哲学・思想・理論における両者の役割と持分の差を指摘する諸議論は、日本の論者達も熱心に行ったように思われる。ところが、テンニースが見る両者の差は、そんな理論上・文献解釈上の次元ではない。以下、この論点にしぼって、本書から若干引用しよう。
――彼らは二人ともヘーゲル哲学を通り抜けた。ただし、エンゲルスはさっさと軽やかな足取りでもって通り抜けたが、マルクスはこれに対して、ゆっくりそして深淵から目をそむけることなく丹念に見通して通り抜けていった。――p.41
――エンゲルスはひたすら大胆かつ直線的で、革命志向を具現化したような男であった。この点においてはマルクス以上であった。この時以降エンゲルスはマルクスのことを同志としたが、エンゲルスは同志マルクスが自分とは違った方向で社会主義革命の問題の解明に取り掛かろうとするのを見ることになった。――p.45(強調:岩田)
――ただエンゲルスは、イギリスには既に発展したプロレタリア意識があり、「社会」革命は目前に迫っていると確信していた。エンゲルス自身は、老年になってから、当時のこの予言は自分の若い情熱がいわしめたのだと語っている。一方、マルクスは当時から既にこのような幻想にはためらいがちに興味を寄せていただけだったといってよい。――p.51
――エンゲルスにあってはその決意(共産主義の立場に立つという:岩田)は始めから行動上のものだったが、マルクスの決意は当時はまだ行動上のものというよりは、思考方法上のものにとどまっていた。――p.64
――エンゲルスは、……、1845年から47年にかけて、暴力的なプロレタリア革命……とそれに続く所有の廃絶と共産主義への移行を期待していた。そして期待するだけではなく、それを求め追求していた。……。エンゲルスの燃えるような気質が、慎重なマルクスを揺さぶり、この方向への関心を持たせることになったのは、当然である。――p.75
――エンゲルスはマンチェスターで「悪徳商売」に専念しなければならなかった。彼はこれを強いられながらも、マルクスの研究活動を促し、プロレタリア革命の準備をした。エンゲルスは、そのこと以外には人生の目的を知らなかった。世界の出来事や日常の政治をたえず観測すること自体は、学究肌のマルクスよりはエンゲルス方が向いていた。――p.99(強調:岩田)
一読瞭然、テンニースによれば、暴力的なプロレタリア革命を志向する事以外に「人生の目的を知らなかった男」、エンゲルスがそれとは「違った方向で社会主義革命の問題の解明に取り掛かろうとする男」、マルクスを誤導する。このような質のマルクス・エンゲルス対比論を私=岩田はこれまで読んだことがなかった。片桐幸雄氏の努力のおかげで知ることが出来た。感謝!!マルクス本来の社会主義論は、革命論ではなく、改良論であったはずなのに、エンゲルスの介入によって混乱させられた、とテンニースは主張したいようである。ところで、マルクス本来の社会主義論は、以下の如しとする。
――マルクスによって基礎を作られた批判的社会主義を……検討するならば、極めて明確な根拠もって次のように理解できる。マルクスは、資本家的生産様式が法則性を持って次第に社会主義的ないし協同組合的生産様式へ変化していくことや改良されていくことを、望ましいものであり、ヒューマニズム的・倫理的な意味において追求するに値するとした。――p.204
――それにとどまらず、この変化・改良が、完全に実現可能だとまで言わなかったにせよ、その可能性があるともした。――p.205
――ただ、マルクスが、恐怖政治としての独裁、無自覚な大衆の先頭に立った少数の一団(エンゲルスのいうところの)暴力的支配としての独裁を思い描き、それを夢見て満足したのは、ある瞬間だけだったように思われる。つまりマルクスが、国外追放やひどい困窮のなかでは逃れることのできない、この上なく暗い憤激や厭世観に襲われた瞬間である。この意味において、マルクスが1781年のパリ・コミューン蜂起を深刻に受け止め、そこに……自分の夢の最初の実現を見て取ったということは、たしかに人間マルクスと思想家マルクスについての心理学、それも異常心理学とでもいうべきものに属する。しかしこれは、彼のライフワークである『資本論』を、事実に即し、論理的に理解することとは別のことだ。――p.205
テンニース(1855-1936年)が『マルクス その生涯と学説』を刊行したのは、1921年であった。すでに1917年10月のレーニン・トロツキーによるボリシェヴィキのソヴェト革命は成功していた。ドイツでは1918年11月のドイツ・レーテ(ソヴェトのドイツ語訳)革命は、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの虐殺でもって敗北していた。マックス・ウェーバー(1864-1920年)は、1918年6月に敗戦を予感しつつあるオーストリー・ハンガリー将校団の前で迫り来る社会主義革命にそなえる講演を行っていた。テンニースは、そんなウェーバーがドイツ民主党の活動家として反レーテ革命・反社会主義の論陣を張っていたのは当然知っていたであろう。しかしながら、本書にはゾンバルトは言及されるが、ウェーバーは全く触れられない。何故なのだろう。ウェーバーの社会主義批判講演にはトロツキー、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキが登場するが、テンニースの本書には全く触れられていない。私=岩田の勝手読みによるならば、トロツキー、レーニン、ボリシェヴィキを明記せずとも、暴力革命志向のエンゲルス像の中に彼等の原像をテンニースは開示していた。同時代の冷静なドイツ教養知識人層は、そう読みとってくれる。そんな想定がテンニースにあったのではなかろうか。自分より11歳若いウェーバーに真似して、時局講演のスタイルをとる必要なし、と。
――マルクスは……ハノーバーの女医クーゲルマン博士を訪問した。彼女はマルクスを尊敬していて、彼を強く誘ったのである。マルクスは彼(とエンゲルス)が与えた影響は、労働者よりも高学歴の官僚層に対してのほうが大きいことをそこで知った。――p.118
上記の訪問は、1867年4月頃だと推測されるが、本書より数倍詳細なマルクス伝、2018年・平成30年11月出版の『アナザー・マルクス』(マルチェロ・ムスト著、江原/結城 訳、堀之内出版)でさえ言及されていない。テンニースは、自分の主著『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』第2章「ゲゼルシャフトの理論」でマルクス資本主義社会論を批判的にだが受容・継承していた事が如実に示すようにマルクスを尊敬していた。そんなマルクスの名をかかげて、東方ロシアではじまって、中欧ドイツにおいても暴力革命の恐怖が去らない。そのような恐怖のマルクス像をドイツの教養知識人層・高学歴官僚層から除く、すくなくとも弱める事、その為に本書のエンゲルスが形象されたのではなかろうか。
平成31年4月3日(水)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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