「今だけ、金だけ、自分だけ」に傾斜した社会 - 平成とはどんな時代だったか -
- 2019年 4月 20日
- 時代をみる
- 岩垂 弘平成
あとわずかで「平成」時代が終わり、「令和」時代となる。平成は30年で幕を閉じるわけだが、平成とは結局、どんな時代だったのだろうか。そうした設問に答えるには、多面的な角度から総合的に分析すべきだろうが、そうした作業は専門家に任せて、ここでは、平成の世の巷の一角で生きてきた1人の人間として、過ぎ去りゆく時代への表層的な印象を書いておきたい。
「平成」末期にある日本の世相を一言でいうとどうなるか。私には、「『今だけ、金だけ、自分だけ』という『3だけ主義』がまんえんする社会」という表現が一番ぴったりするのではないか、と思えてならない。
私が「今だけ、金だけ、自分だけ」というフレーズを耳にしたり、メディアで散見するようになったのは、ここ2、3年のことのような気がする。日本農業新聞によれば、「今だけ、金だけ、自分だけ」というフレーズは、東京大学大学院の鈴木宣弘教授が『食の戦争』(文春新書、2013年)の中で使ってから広まったという。
ともあれ、「今だけ」とは、将来のことは考えず、目先のことだけしか見ない、考えないという刹那的、近視眼的な思考・行動のことであり、「金だけ」とは、全てを金銭面だけからとらえるという拝金主義的な生き方のことだろう。そして、「自分だけ」とは、自分のことしか考えず、他人や社会のことには目もくれない、つまり、自分ファースト的な生き方のことを指すとみていいだろう。
こうした「3だけ主義」が人びとの間で次第に強くなっていったのが「平成」という時代の主要な一側面だったんではないか、というのが私の実感だ。これには、さまざまな要因があったと思われる。
まず「今だけ」という行動パターンが人びとの間に浸透していったのには、その背景に経済的要因があったからではないか。
世界でも稀にみる連続的な高度成長を続けてきた日本経済が失速したのは、平成3年(1991年)のことだ。いわゆる「バブル崩壊」である。これを境に日本経済は停滞期に突入する。しかも、それは予想を超えた長期のものとなり、その後「失われた20年」と呼ばれるようになる。安倍政権によるアベノミクスも日本経済が低迷から脱出する決定打とならず、最近では「日本経済は今や“失われた30年”に向かいつつある」と述べる経済学者も現れる始末だ。
この間、日本経済の沈滞を強烈に印象づける出来事があった。それまで世界2位の地位を維持してきた日本のGDP(国内総生産)が、中国に抜かれて世界3位になってしまったことだ。平成23年(2011年)のことである。
省みると、バブルの崩壊までは、すなわち昭和の時代までは、人びとは「経済は無限に右肩上がりの成長を続ける」と信じ込んでいた。このため、将来に明るい展望を持つことができた。ところが、平成時代に入って経済の停滞が長期にわたるようになると、未来に明るい展望を持てなくなった。むしろ、不安に襲われるようになった。これでは、人びとが「将来のことを考えてあくせくするよりも今の今を大切にしよう」という生き方に傾いていったのも当然というものだろう。
平成に入ってまもなく起きた世界的な出来事もこの傾向に拍車をかけた。平成3年(1991年)のソ連消滅である。
第2次世界大戦後、世界を支配してきたのは、2大超大国の米国とソ連だった。米国は資本主義陣営の、ソ連は社会主義陣営のリーダー。両国は「東西冷戦」で対決し、時には核戦争の危機さえ到来した。が、ソ連の消滅により、世界は一つ、それも米国一極の体制に変わった。地球はグローバルな世界となり、人と物が国境を越えて移可能動になったから、巨大な経済力で世界経済を支配するようになったのは多国籍企業だった。日本の企業もグローバル化に対応するための効率化を迫られ、合理化が進んだ。
それまでの日本企業の成長を支えてきたのは終身雇用・定年退職・企業内組合の三つだった。グローバル化で効率化を迫られた企業は終身雇用と定年退職をやめた。この結果、労働者の身分と生活は不安定になった。なぜなら、終身雇用制度と定年制があったからこそ、労働者の暮らしは安定し、将来を見越して生活設計ができたからである。
労働形態も「正規」と「非正規」に分断された。非正規社員は非正規社員より労働条件が悪いから、その日暮らしに精一杯で、とても将来に向けて生活設計をする余裕などない。
こうした労働環境の変化も、人びとを「今だけ」にこだわらざるを得ない状況に追い込んでいったと言える。
「金だけ」がはびこるようになったのはなぜか。私の見方はこうだ。
第2次大戦後の日本が高度な経済成長を遂げるようになったのは、私の感覚では昭和35年(1960年)以降のような気がする。この年、60年安保闘争(日米安保条約の改定に反対する運動)があり、闘争直後に発足した池田勇人内閣が「高度経済成長・所得倍増」の実現を掲げたことが、高度経済成長に向けて突進するきっかけとなった。その後、日本経済は年々、平均10%以上の経済成長を達成する。まさに「奇跡」だった。
これに伴い、人びとの価値観も変わった。「金があれば何でも手に入る」「金がすべて」といった、金に至上の価値を置く考え方が人びとの心をとらえ、拝金主義が広がった。高度経済成長が始まる前の日本社会では、金品への崇拝はあったものの、その一方で、学識とかモラルにも高い価値を認める規範みたようなものが存在していたように思う。
拝金主義の横行は、人びとの心をすさんだものにした。金をめぐる犯罪は平成になって増えたように思う。
社会保障が十分でないことも、人びとを金に執着させるようになった一因だろう。
では、「自分だけ」をモットーとする人がなぜ増えたのか。私は、連帯感が国民の間で次第に薄れていったからではないか、と考える。
昭和時代は、さまざまな分野で大規模な社会運動が発生し、高揚した。1945年の敗戦直後から70年代半ばにかけては、労働運動、学生運動、原水爆禁止運動、日米安保条約反対運動、ベトナム反戦運動、沖縄返還運動、公害反対・環境保護運動などといった運動が連続的に展開され、国民的な関心を集めた。
この時期、さまざまな問題が国民の生活を脅かした。これに対し、国民は1人ひとりでこれに立ち向かうのでなく、同じ要求、願いをもつ者同士が手を携え、団結してこれらの問題を解決しようと立ち上がったのだった。問題は1人では解決できない。だから、連帯の力で解決しようと、人びとは考えたのである。
しかし、1980年代後半から、社会運動は沈滞し、平成に入ると、さらに勢いを失った。なぜか。一つには、問題のいくつかが解決に向かったということがあった。が、それよりも、それまでの社会運動の中核にあって運動を先導し、広範な人びとの結集軸となっていた労働組合が力を失ったことが大きかった。そのことを象徴するのが、労組の全国センターであった総評(日本労働組合総評議会)の解散である。平成元年(1989年)のことだ。
なぜ、労組は力を失ったか。それは、労組の力を削ぐことに全力を傾けてきた自民党政府・資本との闘いに敗れたからである。
総評が消滅し、労組の組織率も低下したことから、労働者の結集軸がなくなり、労働者はパラバラになった。経済のグローバル化で労働者が正規社員と非正規社員に分断されたことも、労働者の結集を難しくした。
学生運動も姿を消した。だから、政治的課題や経済的要求で学生たちが共同して行動を起こすようなことは、もうみられない。そればかりでない。学生たちは幼いころから受験競争などの生存競争を強いられてきたから、同世代の仲間たちへの連帯感は希薄だ。むしろ、競争社会の申し子だから、共同行動には拒否感を示す。
地域でも、自治組織の町内会に加入する住民は年々減る一方だ。住民同士の連帯感は薄れ、今や、町内会は存続できるかどうかの危機を迎えている。
これでは、人びとの間で「頼りになるのは自分だけ」「自分の利益だけを考えていればいいんだ」という内向きの心情が強まっていったのも当然というものだ。
それに、通信手段の発達が、人びとの生き方に革命的変化をもたらした。とくに「スマホ」の普及が、人びとの内向き指向に拍車をかけた。今や、「スマホ」でほとんどあらゆる情報を入手することが可能となり、情報を得るために他の人や組織に依存しなくても済むようになったから、「自分だけ」の世界に没頭して生きてゆけるのだ
「自分だけ」の深化は、選挙の投票率に端的に現れている。国政選挙の投票率は戦後ずっと低落傾向にあり、最新の投票率は、衆院選だと平成29年の53・68%、参院選だと平成28年の54・70%である。今や、国民の半数近くが投票所に足を運ばないのだ。民主主義の根幹が揺らいでいると思えてならない。
バラバラの国民。孤立化を深める国民。なのに、平成末期の政治は「ますます結束を固める保守政党対ますます細分化する野党プラス大同団結にほど遠い大衆団体」といった構図である。令和時代になってもこの構図が続くのか、それとも別の構図に変わるのか。少なくとも人びとが他者との連帯感を取り戻すよう願わずにはいられない。
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