第5次救援活動隊報告 「放射能を浴びての山超え」など
- 2011年 5月 4日
- 評論・紹介・意見
- 9条改憲阻止の会
2011年4月26日 第110号
第5次救援活動隊報告《その二》 放射能を浴びての山超え
■ 僕らは、凹凸、起伏激しく、降りたと思えば、又登りの続く、その繰り返しの山道、見下ろしても街の灯など認められない、山又山の真っ暗な泥道、路端はそのまま崩れ去っている山道をロシナンテとともに、2時間余、「行軍」しました。雨も降って来ます。12号線、これは国道とはとても思われないような全く舗装やガードレールなどお呼びでない山道なのです。ライトのみが頼りです。その間、ガイガーカウンター鳴り続けです。 それにして、このような中国山水画のごとき世界、もう少し優雅に言えば、深山の竹林で琴を弾ずるような世界、その山中を放射能が覆っている、この組み合わせ、構図とは何だろうか、と僕らは首をかしげたわけです。僕は、これは、現代への強烈な皮肉、辛らつな風刺と捉えました。
■ 放射能という「悪霊」が、深山の生あるものすべてを、音も立てず、静かに静かに、しかも強烈に腐食して行っているわけです。 とあるところで、僕らは、ここだけに芝生が植えられ、十数本の桜の樹と思しき空間に出くわしました。 そこで休憩を取りました。梅なのか、と思われましたがやはり、7分咲きの桜の樹でした。 頭をしっかりと覆い、厚めのマスクを付け、懐中電灯を持ち出し、外に出て、計測器でしっかりと確認したところ、確実に3300ナノグレイで、地表にそれを下ろしてゆくと3500ナノグレイ以上でした。気のせいか頭ががんがんする感じでした。それにしても、<深山幽谷>の桜の花の下で、3本の懐中電灯の下、計測器に見入る3人の人々、と言う美的構図とは、実に鬼気怪々なるかな、と僕ら3人は共通の想いに駆られたのでした。 サブロウさんが、たんぽぽ舎の研究会で学んだ認識で、事態を説明しました。放射能は、遮るものが無ければ、どんどん風に乗って拡散してゆくが、山やそこでの樹木に遮られれば、それに引っかかり、滞留してしまい、それが山間部の盆地状の地形の所に沈んでゆくこと。だから、やや高い山間部の地形の方が計測値は高くなる傾向があること。 実際、帰途の際、山間部を登り、東北道に出た際、このような現象を僕らははっきりと体験しました。このような事態として20キロ圏の外の飯館村や葛尾村、浪江町などが、福島第一原発の直近隣の二葉町、大熊町、富岡町、楢葉町並みの放射能を引っ被ってしまっている、ということ。
■ 政府はこの事態を知っているが故に、これらの地域を、「計画的避難地域」、「緊急避難準備地域」として「検討中」と発表したわけです。しかし、この道理は、暗示はされはしましたが、はっきりと説明することを避けて来ていましたから、地域の住民でもしっかりとは事態を掴めていず、まして全国の一般民衆は、何で飯館村などが新聞種になり、騒がれるのか、理解できかねる情況と言えます。
■ 僕らの実感からすれば、この三、村、町のおかれている情況は大変厳しいもので、そこで育成されている野菜、あるいは米は汚染され、生業を営むことが出来ず、廃村、廃町となるであろう、という感じです。 そうなれば、当然にも、この12号線は無用の長物となり、閉鎖、廃道となる、したがって若しかすれば、放射能まみれの12号線を利用する人は、今後、居なくなることからして、僕ら3人は最後の利用者となるのでは、と意見一致しました。 2時間近く、<行軍>すれば、南相馬市、原町市が近くなり、12号線は道幅も広がり、アスファルト道に変貌し、ガードレールも整備されてきました。 僕らは、予約しておいたビジネスホテル、「高見」にチェックインし、温泉に浸かり、思う存分、放射能を洗い落としたわけですが、そこは、南相馬でも、やや北側で、20~30ナノグレイ、東京並みの数値でした。 (文責 塩見孝也)
私たちを取り巻く状況を見つめながら重層的な活動の展開へ
◆ 塩見さんの報告にあるように、東日本大震災緊急救援市民会議の行動は現在第5次救援行動まできています。第一段階として5月15日位までは現在の形態で続けようと思っております。連休中にはボランティアに加わりたいがという連絡も頂いています。連休中の救援活動を検討していますが、決まればお知らせします。◆ 山田恭暉さんの提起した「福島原発暴走阻止プロジェクト」は様々な反響の中で進行しています。活動報告や現状が別紙で届けられると思いますが、「9条改憲阻止の会」は全力で支援をしていきたいと思います。行動隊や賛同人になるなどしてください。◆ <福島第一原発>は世界から注視されながら、依然として予断を許さない危機的事態の中にあります。政府や東京電力などが正確な情報を開示しているとは思えないのですが私たちはこれを手掛かりに推察するしかありません。こうした中で人々の原発に対する声はようやく街頭にも出てくるようになりつつあります。先週の週末には芝公園や代々木公園に5千人近い人が出てきて反原発や脱原発の声をあげています。4月26日(火)、今日ですが、16時~新橋駅前での集会があり、19時~東電前でキャンドルナイトが予定されています。また、4月27日(水)には衆院第一議員会館の多目的ホールで院内集会「福島原発事故・公開質疑」(主催:超党派国会議員有志)も開かれます。6月11日には「反原発100万人大集会」も準備されています。◆ 福島第一原発の災害拡大と継続は「原発」についての根本的な問いかけやエネルギー政策、それを推進してきた日本の政治や社会構造への疑念と変革の声を広範にうみ出しつつあります。これは東日本大震災の復興構想やその議論の中でも大きな柱となって行くように思えます。この大震災からの復興が単なる復旧ではなく、戦後の社会の反省と転換を含み静かなる革命を内包したものとしてしか在り得ない以上は不可避のことと思われます。日本社会の世界のなかでの立ち位置、歴史の中の日本社会という検討なしにこれは進むしかないでしよう。長くて深い射程を持った認識が今の事として問われるのですが私たちはこれに応えつつ、同時に国民の意思や声を結集する具体的な課題の提示も必要です。「福島原発暴走阻止」と『浜岡原発停止』です。反原発の中でのさしあたってのこと、最低限のこととして実現すべきものです。(文責三上治)
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2011年4月28日 第111号
第5次救援活動隊報告《その三・四》と予定表から
■2011年04月28日00:03 ◆ 南相馬市市長・桜井市長との会見
23日夜、ホテルでのミーティングで確認したごとく、僕らは、24日、午前、東相馬市役所(原町市役所)に出かけ、市長面会を追求し、その足で、「福祉協(議)会(?)」に行き、野菜類を置き、午後、地震・津波に直撃された萓浜海岸一帯を探訪する予定をこなそうとしました。
午前十時ごろ、市役所に着き、事前に話をつけていた市庁秘書、星さんに面会しました。市役所は日曜にも関わらず、ごったがえしていました。とりわけ、東電の「仮払い補償金請求用紙」作成の説明チラシを受け取らんとする人々が、列をなしていました。この書類(申し込み書)受付けが4月29日からはじめられるとのこと。原発・地震被災地の所為でしょが、土日であるにも関わらず、ここ福島県職員は精力的に働かれています。星さんはすぐに市長に取り次いでくださり、市長・桜井勝延(かつのぶ)氏は、他の人との面会中にも関わらず、すぐに出てきてくださりました。 僕らは市長へのある人の信書を渡し、長野県佐久病院が、東相馬市の患者を受け入れる旨の事柄も伝達しました。 桜井さんは、極めて温顔、気さくで、如才なく、これらの件の経過は知っておられ、てきぱき、果断に捌かれて行かれました。 又、面会中の客人が「新党・日本」の田中康夫氏であることも伝えられ、その前には、服部信一氏や保阪展人氏とも会われた、と述べられました。又、東相馬市と杉並区の親交についても話されました。市長は<反原発>、<原発廃止>の所信を公表さています。いろんな面で、静岡県知事とは大違いです。「緊急支援会議」の説明や活動経過、あるいは東京の反原発の大衆運動が盛り上って来始めていることら、運動の進展状況を僕らは説明しました。「支援会議」の簡潔な説明パンフの作成、を痛感しました。この後、「福祉協会」に行き、残りの救援物資を収納しました。ここでも、新鮮な野菜などは大いに喜ばれました。職員の方や東京・新宿三軒茶屋から来たボランティアの青年らと運び出しました。彼らは、30代はじめの好青年でしたが、「若いやつらが少ないのが残念」、とぼやいていました。
■4・24、4・25の二回にわたって、萓(かや)浜海岸を探訪しました。 一度目は雨の中、荒涼、茫漠とした暗さの中に沈んでいる萓浜、二度目は地震、津波の猛威による無残な傷跡を燦々とした陽光の下に晒している萓浜を。萓浜海岸については、3・11以来ずっとテレビ、新聞、雑誌類でその惨状の映像、写真が出ており、福島県の第一原発事態と並んでの地震、津波の災禍地として有名になったのは皆さんご承知でしょう。萓(かや)浜海岸は、6号線のその南の方面の海岸一帯を指しますが、東京ドームが2~30個は入るような茫漠たる相当に広いエリアです。海岸に突き出ている山一つ超えた、その西、その先に福島第一原発があります。幸いにもガイガーカウンターは鳴らず、数値は20~40ナノグレイで、たいした数字ではありません。
津波の前の地震で、海岸に連なる道路は寸断され、特に西の方は、ずたずたで、舗装は剥ぎとられ、寸断され、道路は右、左にばらばらな少道路片となって散らばっているという具合で、とてもではないが車では進んで行けません。でかい送電搭とそれより小さいのがふたつ横倒しのままです。地震の際、人家は倒壊したのもありますが、その大半は、その後の津波の猛襲でそうなり、奥地に浚(さら)われたようです。やや高台の地帯では、今も健在なのもありますが、どの家も人は居ませんし、浚われた家屋は見受けられず、その土台が残っているだけです。未だ、見つからない遺体があるようです。全体的には、西は田んぼ、温室栽培のビニールハウスなどで、東は田や沼沢であったように思われ、その間に、丈の高い萱が群生していたようです。
萱は、海岸の決壊してしまった堤防の内側にも群生しています。このような広大な沼沢地、今は泥田に変貌した中に、へんぽんと白い2,3台の乗用車が転がっているのが印象的でした。
小雨混じりの曇天、強風の只中で、黒潮の海は、荒れており、波は高く、波頭は小津波の様相で、決壊、沈没した堤防を越えて、入り込んで来ています。この海岸線は、地震で沈降しています。僕らは、後片付けをしている自衛隊のトラック、ジープ、重機が駐屯している幾つもの制止線の態勢の間を縫って、なんとか海岸まで行きました。幾度か、自衛隊員に呼び止められましたが、<新鮮野菜も運んできたジャーナリズムの取材活動>と称し、潜り抜けたわけです。
雨が激しくなり、太陽が遮られるにつれて、茫々たる萓浜は暗くなって沈んで行き、その荒涼たる様の全体は、陰画の情景でした。翌25日は、<陽光の下>での萓浜でした。僕らは、この地域から、第一原発の20キロ制限地域へ侵入しようと、幾度も手を変え、品を変え試みたわけです。それは、無理でした。自衛隊や警察が厳しく阻止線を張っており、空にはヘリコプターが舞っていました。ちょっとした70年闘争の風景の再現といえます。3陸地方は、<再建>の掛け声で溢れており、ボランティアも多数詰め掛けているようですが、ここ萓浜、「浜通り」の福島地方では、そういった人々の姿は見受けられず、「再建」のさの字も聞こえてきません。
福島県は昔から、「浜通り」、「中通り」、「会津」の3地域に分けられるそうです。今もその「浜通り」では、溶融、臨界、爆発の危険は去っていず、海と空、大地は汚染され、こうなごなどは食べられず、「中通り」の地域では放射能が沈殿し、野菜類、牛乳は、風評被害も加わって、売れず、飲めず、食えずの状態です。ミク友のいる会津、郡山地方はどうなっているのでしょうか? 住民の人々の不安は、全然去っていません。展望が見出せないのは確かでしょう。 それを現政権は、一方で、情報統制、「行程表」発表、「仮補償」らで懐柔せんとし、「避難」だけは声高に叫んでいます。他方で、全国の自衛隊、警察官を要注意地域へ集中的に投入し、「直轄管理」を強めてきています。この様は、「戒厳令」とは言わずとも、福島県を、昔で言えば「天領」的な「政府直轄」県にせんとする思惑が見受けられます。 なぜなら、この福島県は原発、地震、津波の三重苦が重なり、もっとも政情不安となる危険性を持つ県ですから。古代から現代まで、東北は朝廷がその支配に手を焼いた地域でもあります。今の状態だけから判断すれば、福島県民は全員とは言いませんが「棄民」され、様態はさまざまにしても、実質「廃県」の危険すらあります。 「福島県」は、今、「沖縄“県”」にも勝るとも劣らぬ犠牲、抑圧、被差別の県となろうとしているわけです。僕らは帰途、福島県の《運命》について、や「緊急支援」のその「次のイメージ」を若干、議論しました。「運命」の方については、共通認識が生まれる感じでしたが、次の「イメージ」につきましては、全く定め切れませんで、暗中模索というところ、です。
とにかく、状態をもっともっと調査し、点になるような人々を捜し、それを線にしてゆくような人々と結びついて行くこと。福島の現状をもっともっと、全国に知らせて行くべきこと。 他方、ようやっと盛り上がり始めた東京、関東、静岡、関西の反原発の全国政治闘争をもっともっと高揚させて行くべきこと。ここから、福島住民の活路も見出せるのでは(?)この陣形の下で、福島県民「棄民」、上からの「天領的」「直轄的支配」、「廃県」路線と闘うべきこと。4・24で5千人というのは僕らトラック隊をずいぶんと勇気づけました。3人は、<福島県とそこでの民衆の運命>について帰途模索しつつ、25日、午後9時頃か、東京に着きました。 僕は、翌日、朝番、5時起きの仕事がありましたが、報告文を書くため、徹夜しました。しかし、なぜだか、心身ともに興奮しているせいか、全く、元気が続いて行ったのです。これにて、第5次トラック隊の報告を終了します。 (文責 塩見孝也)
「6月11日全国100万人集会」へ向けた取り組みを
◆ 東日本大震災緊急救援会議を立ち上げて展開している救援活動は5次の行動を経て次の段階にはいりつつあります。この週末には第6次のトラック隊も用意していますが連休を挟んでの次の行動を検討しています。南相馬市の周辺での取り組みが検討されていますが、個人でボランティアに出掛けている人、あるいは被災地に連絡のある人は情報を寄せてください。連携体制を強めて行きたいと思っています。
◆ 3月11日の大震災の3カ月目になる6月11日(土)には「全国100万人集会」が準備さされています。これは国民的規模の原発に対する国民的意志表示です。僕らはこの運動の中で原発についてのより具体的な方向を提示して行く必要を感じています。「反原発や脱原発、あるいはエネルギー転換」と言った長いスパンを持った要求と「福島原発暴発阻止」や「浜岡原発停止」というさしあたっての要求と持って臨んで行くことが必要と考えています。この二つの要求は矛盾するのではなく、段階的な実現を果たして行く経路として必要だと思います。浜岡の現地では6月11日に現地での1万人集会を予定し、それに至る諸行動の準備も始まっています。「9条改憲阻止の会」では延期されている国会前座り込みの再開も含めた行動の検討に入っています。4月29日(土)17時から緊急運営委員会(事務所にて)。この運営委員会は緊急に開かれるものですが、今後の方針を検討するものです。5月1日(日)13時30分から「辺野古に基地をおしつけるな!新宿ど真ん中デモ」(15時デモスタート)があります。同日の朝10時30~12時まで東電本社前でのビラまきなどの行動があります。5月7日(土)には[超巨大反原発ロックフェステデモin高円寺]などもあります。 (文責 三上治)
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