第26回「日本会議」研究会 ファシズムからネオリベラリズムへ(2)
- 2019年 5月 20日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
- 絶対君主制としての天皇制―王権神授説と同様の天皇の神格化(現人神)=日本民族の精神的文化的アイデンティティの拠りどころとしての天皇~日本型ファシズム、「日本会議」のイデオロギー
- 立憲君主制―reign but not rule(君臨すれども、統治せず)、大正デモクラシー・天皇機関説(国家を統治権の主体とし,天皇は国家の一機関にすぎないとする明治憲法の解釈)。しかし政党政治、議会制民主主義の未熟さのため、大恐慌後の経済危機に対応しえずファシズムの前に敗退。
- 象徴天皇制―立憲君主制ではあるが、君臨の度合いははるかに希釈されている。戦前の天皇制の実体的基礎であった半封建的大土地所有(天皇家自身が大土地所有者)と軍閥、家父長的家族制度は消滅。占領軍と支配勢力と敗戦国民との階級的政治的なバランスの上に立つ象徴天皇制は、妥協の産物。直近の動きでは、皇室の私的祭儀の国家行事化の危険性を指摘しておきたい。安倍内閣の政治利用に対しては、厳しく声を上げていく必要性はかわらない。
- チリやイラクの例・・・アジェンデ政権打倒後の「シカゴ・ボーイズ」によるネオリベの実験、国家の介入の排除を言いつつ、必要とあれば強権発動や戦争も厭わない~イラク戦争の場合も同様。
- ワシントンは中国の「一帯一路=新シルクロード」を「略奪的な債務の罠」と呼んでいるし、新マーシャル計画と呼ぶ人もいるし、新植民地主義的略奪の形態と呼ぶ人もいる・・・旧社会主義国の場合、農民に土地所有権与えられていない~国家や共産党による土地収奪容易―――現代のEnclosure(commons共有地の私有化、民営化)、国外でも同じことをしている。
- 資料1
- 資料2
- 現代の理論 第18号 「カルロス・ゴーンの虚飾と挫折」 労働経済アナリスト 早川 行雄
- 「操られる民主主義」J・バーレット 草思社 2018年
- 「いかにして民主主義は失われていくのか」 W.ブラウン みすず書房 2017年
- 「新自由主義」D・ハーヴェイ 作品社 2007年
- 「資本主義の終焉」D・ハーヴェイ 作品社2017年
- 「資本の謎―世界金融恐慌と21世紀資本主義」」D・ハーヴェイ 作品社2012年
- 「ニューインペリアリズム」D・ハーヴェイ 青木書店2005年
- 「民主主義の死に方―二極化する政治が招く独裁への道」S・レビツキー他 新潮社 2018年
- 「歴主主義の貧困」 K・ポパー 中央公論社 1961年
Ⅰ.はじめにー菅孝行氏講演に関連して
菅氏のいう三島由紀夫=象徴天皇制の欺瞞を暴いたといった評価について。三島は政治的には復古主義的なウルトラナショナリズムの立場であり、その天皇絶対主義の立場からする象徴天皇制批判に思想的政治的に見るべきものがあるとは思われない。三島と東大全共闘(‘68学生反乱)との関係―一方は戦後民主主義を、もう片方は象徴天皇制を虚妄とする立場であり、三島は学生反乱の発展を怖れつつ、その既成体制の虚妄性を打ち砕くという点でどこかに接点を見出そうとしたのではないか。そしておそらくこの頃構想していたであろうクーデタに学生が利用できないかどうか、東大でのディベートはその瀬踏みの意味があったのではなかろうか。三島が全共闘運動が東大を頂点とする知的ヒエラルキーや権威主義を打ち砕いたところに意義があると指摘した点をのぞけば、“心情倫理”を共有する両者の醸し出す遊戯性、観念性、この世離れの雰囲気は、60年代の左右の過激思想の不毛性を顕わにしているように思う。
〔天皇制の三つの形態〕
参照:丸山眞男「ファシズムの歴史的分析」(1948年)―日本の「天皇制ファシズム」の特性を分析=ドイツやイタリアとちがい、下からのファッショ運動が政権を掌握するという道筋をとらないで、支配機構内での編成替えによってファッショ的支配を完成させる。しかし天皇を頂点とする一元的な独裁権力は形成されず、権力機構は軍部、重臣、政党、財閥等による多元的な形態をとったため、政治責任は分散し無責任の体系となる。
明仁天皇―日本国憲法の平和主義に基づきドイツ流の「記憶する文化」Erinnerungskulturを不言実行してみせた。(西独ヴァイツゼッカー大統領の1985年の演説―『過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる』)。戦後の経済発展のなかで道徳性を摩耗させ人間のきずなを綻びるにまかせ、空虚な消費主義に埋没する日本人に、それでいいのかと問いかけたようにも見えた。ただ、団塊の世代すら退場しつつある今日、徳仁天皇は戦争の記憶だけを頼りにすることができないので、日本国憲法の理念から非戦平和のシンボル以外に新たな活動の柱を創造する必要があるだろう。「この(天皇の)地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」以上、象徴を徹底する方向でその活動の在り方に民意を反映させるのも我々国民の責任である。天皇制に必然的にともなう国民意識の受動性従属性にはたえず警鐘を鳴らし、主権者意識を陶冶する方向性を強めていくべきだ。ただし、天皇制廃止は現下の国民的な政治課題ではない(世論調査―廃止支持7%)。
その他、天皇制の議論では、内田樹氏の特異な解釈が目に付いた(東洋経済2017/10/06)内田氏もまた三島由紀夫の政治思想を高く評価しているようである。一君万民の天皇親政という2・26クーデタ思想は、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するという意味で直接民主主義と等価なのだとする三島の所論を、内田氏は基本的に肯定しているようである。しかし国家意思を天皇が体現しているとされる限り、それは人民の自己統治という直接民主主義の原則とは到底相容れないと思われるが、それを矛盾として荒立てないところに天皇制の妙味があるとでも言いたげである。
また内田氏の戦後史観によれば、「戦後日本の政治運動のうち、ある程度の民衆的高揚を達成したものは、いずれも『反米愛国』の尊王的ナショナリズムから大きなエネルギーを備給されていたからである」
「市民たちが立ち上がったのは、学生たちの『反米愛国』のうねりの彼方に『戦わずして終わった本土決戦』の残影を幻視したからである」
60年安保闘争の解釈としては極め付きの特異さを感じる。要は民衆の深層意識下にある天皇崇拝感情と結びつかなければ、日本の政治の変革運動は大衆的な広がりを勝ち取れないと言いたいのであろう。しかしこれでは自立した民衆運動など何時までたっても望みえず、奴隷根性の鎖にいつまでもつないでおくことになる。一応左翼の陣営に属すると思われてきた論客の、右翼まがいのレトリックには驚かざるを得ないのである。ことほど左様に、天皇制は戦後思想においてもなおアキレス健だと言えそうである。
〔民主主義論〕
トランプは民主的な手続きによって選ばれたのだから、反民主主義とは言えないというある評論家の暴論。最近識者といわれる人々の間で、現実を自分の眼で見据えるのではなく、論理的な処理やレトリックの操作で問題を裁こうとする傾向―ポストモダン的とでもいうのであろうか―が強まっているように感じられる。加藤周一は知性の巨人と評される人であるが、その彼が思想の出発点は現実に対する怒りであり、この感情をなおざりにしては思想的営為は成り立たないというようなことを言っていたと記憶する。この言は、カントが「純粋理性批判」で述べた「内容なき思想は空虚であり、概念なき直観は盲目である」という警句に対応している。いや他人事ではなく、われわれが自分のうちに知的堕落を感じたときには、石牟礼道子「苦海浄土」のような壮絶な作品にいくどでも立ち返るがよい。この作品は、安易に概念に寄りかからずに身を低くして受苦的な人間実存の深みを凝視し、思索し抜く覚悟がお前にあるのかと迫ってくる。
いずれにせよ、民主主義を多数決原理という手続き論に押し込めてはならない。多数決原理が、少数意見の尊重というモラルなり合意なりに裏書されていなければ、多数の横暴、衆愚政治に堕してしまう。もうひとついえば、ときに民主主義の理念に思索の碇をおろしておくこともわすれてはならないであろうー「人民の、人民による、人民のための政治」、つまりは民主主義の究極的理念は、人民の自己統治ということなのだ。
最近話題になった「民主主義の死に方」(新潮社2019年)が強調するのは、民主主義(わけても抑制と均衡というシステム)が有効に機能するには、制度機構が整っているだけでは不十分で、規範の支えがなければ機能不全に陥るということである(下線部―N)。著者たちは戦後アメリカ政治史を検証して、議会運営における政党間の「組織的自制と相互寛容」という規範性が民主主義のために不可欠だったとしている。この著書によれば、その規範性が失われたのは、移民増加による民族構成の変化(白人比率の減少)のために、人種や宗教によるアメリカ社会の二極化が進んだためだという。もちろんその他にも経済の停滞と賃金の低下、社会的格差の拡大という社会経済的条件の変化が、社会の分断と二極化を促進した。この著書とハーヴェイの著書とを合わせて読むと、アメリカ社会の変容の過程が立体的―土台と上部構造の併行関係―に捉えられる。
しかしそれにしても自己の存在を顕示するために、敵をつくり悪の権化として徹底攻撃し、異論同士が共存する余地を奪い去る政治手法が、新自由主義に特有なものとして目立っている。橋下徹はその自己責任哲学といい、社会的なものの切り捨て政策といい、新自由主義の申し子と言ってよい。また橋下が政治=公共空間における言語の劣化に果たした役割は甚大である。マスメディアにおける脅迫めいた物言いやあからさまな侮蔑的な言辞の横行は、彼から始まるといっても過言ではない。「民主主義の死に方」のなかで紹介されている「異常が正常に」なる例は、この橋下・維新現象のなかにもみてとれる。公共の場では礼節を保ち、あからさまな他人への侮辱はしてはならないという不文律があったとしても、それがたびたび破られると人はその逸脱に鈍感になって、結果として許容度の基準がだんだん緩くなっていき、最後はモラルが劣化して民主主義が風前の灯化するというのである。(唐突だが)ジョージ・オーウェルが好んだというdecencyということば(礼節・人間的品位)が、民主主義を生かす地の塩であったことに改めて気づく。このことばは、暴言があれば、そのつど見逃さず人間的品位のために勇気を奮い起こして闘えと命じているのだ。
なぜこのような人間―ポピュリスト政治家―が大阪の若者を惹きつけてやまないのか、若者が橋下・維新の会に与える同意と支持の中身を精査する必要であろう。
〔60年代左翼運動とアジアへの視点〕
菅氏の新左翼論、つまり新左翼は東アジアや発展途上国問題への感度鈍かったという診断は、三派全学連史観ではないのか。鈍感といえば、なにも第三世界の問題についてだけでなく、公害・環境問題や都市問題、ジェンダー問題等についてもそうであった。それは左翼過激思想の最大限綱領主義―日帝打倒や世界同時革命のスローガンに体現される―のなせるわざであった。――アウンサン・スーチー氏は政権開始に当たり「大きな問題が片付けば、自ずと小さな問題は解決する」と述べ、全国的に下から澎湃と巻き起こる怒りや要求に冷淡な態度を取った。ローカルな怒りや要求を組織するところから変革主体の形成が始まるのに、その機会をむざむざと逃してしまったのは、かえすがえすも残念でならない。市民社会の土台の上に立たない観念政治という点では、三派全学連とスーチー氏は似ているように思う。
個人的経験からいえば、私がベ平連運動の中で知った「朝鮮人強制連行の記録」や慰安婦問題の衝撃度はきわめて大きかった。べ平連の中核メンバー(中心的メンバーには元共産党構造改革派が多かった)のその後のキャリアは、アジア志向を示していたので、菅氏が新左翼ということでひとくくりにするのには難がある。たとえば、アジア太平洋資料センターの武藤一羊や吉川勇一、いいだももら。知的成果としては、村井吉敬『エビと日本人』(88年岩波新書)など。
それに対して、大導寺らの思想と行動は、アジアの諸国民との効果的な政治社会的連帯を創出するものではなく、有害なテロリズムにすぎなかった―どうでもいいことだが、私は中学時代大道寺とは仲が良かった。その後の過激思想への若者の幻滅の元凶であり、70年代以降の左翼思潮の後退に大きな責任を負うべきものである。そして左翼の退潮と入れ替わりに、1970年代後半から新自由主義、ポストモダン思想の抬頭が始まる。
〔大阪維新の会―新自由主義と新保守主義の交差点〕
2019年4月の「大阪維新の会」の圧勝―無党派層を引きつけたというスローガンは新自由主義そのもの―「二重行政解消」「民営化」「大阪の成長戦略」「大阪万博誘致」「大阪都構想」~新自由主義的な都市再開発への道―金融都市やIT産業都市、文化都市の将来展望の不確かさのため、大阪維新の会は自己責任論者ではあるが、新自由主義路線は不徹底たらざるをえないであろう。中小零細業者の多い大阪圏では、新自由主義的な開発思想は通りにくい。また新自由主義的施策の帰結としての家族的紐帯や地域共同体の崩壊、格差社会など社会統合の危機を補完する新保守主義をも取り入れなければ、大阪以外で支持拡げられない。さらにいえば、維新の会に結集した若いメンバーは、その多くが右側に反動的に突出することにより出世の階段を昇ろうとする政治的投機分子であり、必要な見識や政治道徳を具えていない。
<60~70年代の反省>
講演会では会場から「勤評闘争」の重要性が提起されたが、むしろ革新自治体の経験の総括がより重要であろう。ハーヴェイも言及している、ユーロコミュニズム・モデルとしてのイタリア「赤いボローニア」―「コーポラテイズム戦略を通じて、経済の国家によるコントロールと規制を強化する」という戦略の敗北。
日本でも大阪の現状を見ると、革新自治体の総括が必要。高度成長によるひずみとしての公害や都市問題の激化から東京、大阪等の革新自治体が生まれたが、社会政策以外持続する戦略をもち得なかった。
Ⅱ.新自由主義とはなにか、その思想起源と本質
―デヴィッド・ハーヴェイ「新自由主義」(作品社2007年)を手がかりにー
1947年創設「モンペルラン協会」=ハイエクやフリードマン、ポパーらのオーストリア出身の亡命知識人―全体主義(ナチズム、スターリニズム)を嫌い、個人的自由と開かれた社会の理念を称揚。「計画化と管理は自由の否定、・・・自由企業と私的所有が自由の基礎だと宣言される」
K・ポパー「歴史主義の貧困」※=歴史の必然性を唱えるヘーゲルやマルクスの歴史観を「歴史法則主義」であり、全体主義の思想的起源であるとして批判。冷戦期の1950~60年代、マルクス陣営にとって最も手ごわい論敵であった。日本の紹介者―沢田允茂(のぶしげ)、市井三郎ら
※本書の献辞「歴史的命運という峻厳な法則を信じたファシストやコミュニストの犠牲となった、あらゆる信条、国籍、民族に属する無数の男女への追憶に捧ぐ」。ポパーの思想的意義は、従来マルクス主義のイデオロギーや方法論とされてきたものには、じつは中世的な思考様式(本質主義、実体論)がまじりあっていたことを論証したことであった。
ハイエクは自由とは言っても、民主主義とはけして言わない。私的所有や競争的市場に親和的な限りの自由であり、国家による規制や大衆的統制を思わせる民主主義の概念は徹底排除する。ハイエクにとっては共産主義、社会民主主義、ファシズム、総じて個人の自由を抑圧するという意味では同根とみる。ハイエク的自由は、「~からの自由」のみ意味するもの。実質的な自由をもたらすための社会的条件を整えることは、自由を殺すことになる。国家による介入や国家による計画は、権力の集中を不可避とし、結局個人の自由を制限することになるからだ。ケインズ的な国家介入にも反対する。個人的自由の領域へと国家が不必要な干渉。―――しのびよるナチズムや全体主義の脅威下において、「社会思想と政策の科学的・技術的な発展の歴史=「理性の濫用と凋落」と名付けたが、西欧科学技術のオール否定を唱道するハイデガーらとの親和性がみてとれる。
ところが歴史のアイロニーであるが、今や新自由主義は新たな抑圧体制の構築の主要な思想的源泉であり、新帝国主義的な対外政策を後押しするものとなった。市場原理主義は、ナチズムやスターリン主義といった集団主義の魔術から人々を解放すると謳いながら、ひとたび思想的なヘゲモニーを握るや、現代の魔術と化して人々に競争を強制し、社会的きずなを解体して諸個人をアトム化し市場法則の奴隷となした。むき出しの暴力や抑圧手段を用いずとも、市場のメカニズムとITなどのデジタル・テクノロジーによって大衆の心を操作し、コントロールする術を獲得しつつある。(「操られる民主主義―デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか」」J・バーレット 草思社 2018年)
デヴィッド・ハーヴェイの「新自由主義」(作品社 2007年)は、マルクス主義の資本蓄積論の視点からする新自由主義の歴史的・理論的解明を試みたきわめてすぐれた著書。新自由主義とは、ハーヴェイによれば、1930年代に遡る戦後の福祉国家政策における労働者階級への歴史的な譲歩から、資本の側の権力の奪回運動であり、資本主義の危機の打開と権力の奪回を一個にして二重の課題として遂行するもの。ハーヴェイは、日本はヨーロッパ型福祉国家とは違って、官僚主導の国家資本主義とする―したがって新自由主義は欧米に遅れて不徹底なかたちであらわれる。
<以下、大筋はハーヴェイ「新自由主義」による>
――新自由主義勃興の歴史的背景
①戦後復興期以後の高度経済成長「黄金の時代」終了、インフレと失業が同時に起きるスタグフレーションに先進各国悩まされる~平均利潤率低下傾向=収益性危機に直面
②生産様式の変化・・・大量生産・大量消費のフォードシステムが限界点へ。技術革新や労働生産性の向上によっても、成長率の悪化止められない。資本蓄積の危機から財政危機を招来し、福祉国家の危機招く。
――新自由主義とはなにか、その本質と新戦略
資本の蓄積危機(過剰蓄積)に際し、その危機を利用し―極端なかたちでは「ショック・ドクトリン」で、戦争,自然災害を含む大惨事を過激な市場主義経済への荒療治に利用するー、労働側への大幅な譲歩として成立した福祉国家システムに対し、資本側が権力を奪還すべく、労働者の力を抑え込み、公的資産の民営化、あらゆる産業分野での規制緩和、国内外にわたって金融の力の自由化図る
「資本蓄積のための条件を再構築し、経済エリートの権力を回復するための政治的プロジェクト、あるいは資本主義的社会秩序を脅かすものに対する潜在的対抗手段としての、そして資本主義の病理に対する解決策としての新自由主義」(P.32)
「新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内での個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約的に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である」(同、P.10)
新自由主義の社会民主主義への思想的挑発=「社会などというものはない、あるのは男と女という個人(と家族)だけだ」(サッチャー)
――資本主義の新自由主義化
過剰蓄積の危機を打開すべく、国家の活動領域全体を福祉国家から資本蓄積の『供給側』のバックアップへ転換。60年代後半から70年代はじめの反体制運動―資本家階級にとっての脅威、彼らの巻き返しと権力回復の戦略練り上げ――→新自由主義へ。
生産過程における通常の拡大再生産による資本蓄積の行き詰まり、配当と利潤の低下、資産的価値の下落―生産的投資ではなく、投機による利益追求へと収益構造変化させたー大都市における不動産市場における投機による膨大な収益。
①前哨戦としてのニューヨークの財政危機―新自由主義的解決のモデル・ケースへ p.67
1970年代、ニューヨーク、脱工業化によって経済的基盤浸食うける~急速な郊外化~都市中心部のスラム化貧困化~周縁化された住民の社会的騒乱~都市危機へ~ニクソン政権補助金削減~財政危機~銀行の貸付拒否・債務返済繰り延べ拒否~市の実質倒産~救済措置=市の予算を引き継ぐ新諸機関~税収の債権者への返済優先~自治体労組の抑え込み(賃金凍結、雇用削減)、社会福祉削減、受益者負担の導入、市の物的・社会的インフラ放置――→労働者階級の敗北
新自由主義の導入―良好なビジネス環境の整備を優先~都市のジェントリフィケ―ション(中産階級化)、企業への助成金・優遇税制、公共資源のビジネス・インフラのため活用(電気通信)。市の中心部―観光名所としてのイメージアップ、新都市文化の形成。金融・法律・メディア関係の二次的サービスと消費主義による市の経済的再建。
②レーガノミクス=ニューヨークの経験の一般化。60年代までの社会的合意の破棄。1980年代―産業活動の地域移転(Rust Belt化)~脱産業化と金融化―情報テクノロジーの隆盛。 P.77
③サッチャー主義の勝利―-公的所有の経済セクタ-すべて民営化 p.82
サッチャーの経済顧問「経済と公共支出を引き締めることによる1980年代のインフレ抑制政策は、労働者を打ちのめす口実だった」 サッチャーの同意取り付け―公営住宅の私有化~労働者団結の後退・中産階級化。フォークランド紛争によるナショナリズムの利用。
イギリス文化の変容―経済の金融化と消費文化によって、伝統的な堅実なライフスタイルから虚飾文化へ。
<グラムシから学ぶハーヴェイの視点ー同意の形成> p.60
ハーヴェイの設問=人々はどうして格差社会の現実にかくも易々と黙従してきたのか?
グラムシのヘゲモニー論egemonia=知的道徳的影響力=強制と同意の統一
新自由主義の勝利―社会的公正より個人的自由を根源的なものとする。「’68の運動は、資本家階級の権力にとって脅威であった。そこで個人的自由の理想を乗っ取り、それを国家の介入主義や規制政策の対立物の転じることで、資本家階級は自分たちの地位を守り、ひいてはそれを回復することさえできると考えた」(p.64)―シンクタンク、大学、学校、マスメディア、出版、司法のあらゆる諸機関に膨大な資金をかけて攻勢に出る。特に反企業、反国家感情の巣窟である大学へ集中し、新しい政治哲学、経済政策の組織的形成を図る。
フレキシブルな専門化やフレックスタイム制などのレトリックに、労働側が取り込まれてしまう。
IMF、世界銀行、国連、ビジネス・スクール留学生すべて新自由主義に洗脳される。
—-→通常の搾取による資本蓄積から、「略奪による蓄積」へと比重移す。先進国外ではむき出しの略奪と暴力を伴うことも厭わない。ハーヴェイは資本による国内的搾取による蓄積とともに、国外における略奪による蓄積も、現代においても重要な資本の蓄積方法だとしている。マルクスが「本源的蓄積」と呼んだものは、歴史的過去に属するのではなく今日なお資本主義の延命には不可欠だとする。
<略奪による蓄積の様態>
Ⅰ.私有化と商品化…自然の全面的な商品化―生物資源の略奪biocracy 世界の遺伝子資源を製薬企業が押さえ、モンサントやカーギルなどの穀物・種子メジャーが原種子押さえる。伝来農業の破壊とアグリビジネス。
Ⅱ.金融化―投機的略奪スタイル、組織的株価操作、詐欺まがい投資、インフレによる資産破壊、M&A
Ⅲ.危機管理操作―資産収奪デフレ―アジア危機の際のIMFの構造調整プログラム
Ⅳ.環境の悪化 熱帯雨林の破壊~気候変動と生物多様性の喪失 (一部省略)
(中国国内)
三峡ダムが典型-総工費3兆5000億円、そのうち汚職関連550億円、110万人立ち退き、10万人流民化
―水重量で活断層を刺激し、地震を誘発する恐れ、ダム内への土砂の堆積による効率低下。
(対外的)
①インフラ整備―過剰債務debt trapによる支配 ②プランテーション、漁業権買収 ③鉱物資源の開発
ミャンマーの例―チャオピュー深海港とSEZ、レッパダウン銅山開発など
2019年4月の第2回フォーラムで王毅外相は、2013年以来、推定700億米ドル相当のプロジェクトが実現したとされる「一帯一路」は「中国の地政学的影響力を高めるためのツールではなく、協力のためのプラットフォーム」だと強調。たしかに中国はよく機能するインフラが経済発展においていかに重要かを学んだ。しかし「略奪による蓄積」-国内での現代版女工哀史-農村出身の女性労働者や児童労働者の悲惨な状況、ましては国外では。
<新自由主義経済―身近のところで>
ネオリベのビジネスモデル――24時間営業コンビニ=人間の生活・生体リズムを無視=本来市場に馴染まないものまで強引に商品化し、市場関係に包摂し、搾取・略奪の対象とする。
投資家=資本家としての名目的存在・・・中労委=コンビニ・フランチャイズ店主は労働者ではないので、団体交渉権認めず。…労働者としての権利の空洞化と原子化。武蔵小杉の再開発・タワーマンションの林立=コミュニティなき再開発。―この項の記述はN
<新自由主義に対抗する暫定戦略>
ハーヴェイはその著「ニューインペリアリズム」(青木書店 2005年)のなかで、新自由主義の搾取と略奪に対抗する改良的戦略の概要を提示している。
――唯一可能なのは、グローバルな広がりをもったある種の『ニューディール』を実施することだ。このことは、資本流通と蓄積の論理を新自由主義の鎖から解き放つことを意味する。それは、国家権力をより介入主義的で富の再分配を主眼とするあり方に改造し、金融資本の投機性を抑えて、市場の売り手寡占を改善し、国際貿易からメディア状況、つまり私たちが何を見、読み、聞くかを支配する独占状態をもたらしている巨大権力(とくに軍産複合体の不埒な影響力)を脱中心化し、或いは民主的にコントロールすることである。(p.208)
西欧文明批判―ガンジー「七つの社会的罪 (Seven Social Sins)」(1925年10月22日「Young India」で発表) 現在のグローバル化世界の批判のためには、文明批判という視点が不可欠である。
右の具体例はNによる。現代における現象形態、新自由主義そのものといってよい
「理念なき政治」(Politics without Principle) ・・・自国第一主義のポピュリズム政治
「労働なき富」(Wealth Without Work) ・・・投機や金融操作、略奪による不労所得
「良心なき快楽」(Pleasure Without Conscience)・・・刹那的消費主義、私生活主義の蔓延
「人格なき学識」(Knowledge without Character)・・・短期的な成果主義、業績主義、剽窃や盗用
「道徳なき商業」(Commerce without Morality) ・・・アニマル・スピリッツという貪欲な富の追求
「人間性なき科学」(Science without Humanity) ・・・自然と人間の操作の学への堕落、人間疎外
「献身なき信仰」(Worship without Sacrifice) ・・・利他性喪失、現世利益中心、カルト宗教
見えてきた中国「監視社会」の実態(グローバルViews)
上海支局 張勇祥 2019/4/15 日本経済新聞
20世紀前半、上海・外灘はアジアきっての金融街だった。西洋風の歴史的建造物が続く街並みが最近、やや無粋な変貌を遂げている。林立する顔認証カメラだ。
赤信号を突っ切るなどした歩行者は即座に捕捉され、電信柱に備え付けた液晶モニターに掲示される。外灘は新婚カップルに人気の撮影スポットだが、ウエディングフォトを撮れば背景にどうしてもカメラの支柱が映り込んでしまうほどだ。カメラを供給する杭州海康威視数字技術(ハイクビジョン)は当局の大量発注で監視カメラの世界最大手に上り詰め、米国は国防権限法で名指しで取引を禁じた。
もっとも顔認証カメラそのものは世界で導入が進み、珍しくなくなっている。かつてコンサート会場の数万人の観衆から刑事犯を見つけ出したと自賛した中国も、あまり功を誇らなくなった。海外からの視線に気づいたためだろうが、その一方で街をまるごと監視下に置く技術やシステムは休むことなく磨き続けている。(以下省略)
――習近平はディジタル独裁者として新時代を画するのであろうか(N)
<参考文献>
「ゴーンの企業統治は、グローバル経済下の典型的な市場原理主義に基づく収奪の自由を基調とするものだが、1980年代以降国家は、規制緩和や民営化政策により、こうしたグローバル企業の放埓な活動を支援する企業主権国家になり果てた・・・」
本文はもとより、巻末の渡辺 治の「日本の新自由主義」は要必読
(次回 第27回「日本会議」研究会につづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8655:190520〕
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