平成と令和の狭間に考える ― 「平成流」は持続可能だろうか ―
- 2019年 5月 20日
- 時代をみる
- 令和半澤健市天皇制平成
4月30日の天皇譲位と5月1日改元の報道が少しは落ち着いてきた。
この時点で明仁・美智子夫妻の「平成流」とその前途について書いておきたい。
話を三つほどに分けて考える。
一つは、明仁夫妻が完成した「平成流」の凄さである。
二つは、回路の欠如または「菊のカーテン」の存在である。
三つは、「平成流」の危うい前途についてである。
《明仁夫妻が開発した「平成流」》
テレビ画面では結婚式パレードや、被災者に膝を折って声をかける二人の姿を断片的に見るにすぎない。その背景・実態について、原武史の『平成の終焉』(19年・岩波新書)の見事な実証分析によって私は多くの情報を得た。同書巻末の皇太子時代と天皇になってからの行幸啓の一覧表を仔細に見て、私はある種の感動を覚えた。二人は結婚から退位までの60年間に、全国都道府県をくまなく三回もまわった。皇太子時代に一巡、天皇時代に二巡している。原は二人の巡行回数、範囲、国民への視線を、昭和天皇のそれと大きく異なるものとして、「平成流」と名付けている。一言でいえば国民との対話と寄り添いである。なかでも1960~70年の皇太子時代に行われた地方住民との「懇談会」や、原爆資料館での表情、沖縄への頻繁な訪問に、共感をもって「戦後民主主義者」をみている。
一体、行幸啓は何に基づいて行われるのか。
日本国憲法は、第四条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とうたっており、第七条で10項目の国事行為が列挙されている。憲法学者の長谷部恭男は、「象徴としての公的行為を想定することができるという見解がある」という客観的な表現のあとにこう書いている。(『日本国憲法』、19年・岩波文庫)
■国会の開会式で「おことば」を述べ、外国の元首と親書を交換し、第二次大戦の激戦地におもむいて戦没者を慰霊し、大災害の被災地におもむいて被災者と懇談する。これらは、憲法の列挙する国事行為として理解することも、全くの私的行為として理解することも困難である。宮内庁を経て最終的は政府が責任を負うべき公的行為として理解すべきだとの見解である。
原は、前掲書にこう書いている。
■宮中祭祀と行幸は、国事行為と違って憲法に規定されていませんし、皇室祭祀令のような法律もありませんので、天皇の意思を反映させる形で増やしたり減らしたりすることができます。しかしそもそも、「象徴天皇の務めとは何か」という問題は、天皇が決めるべき問題ではなく、主権者である国民が考えるべき問題のはずです。憲法学者の渡辺治は、「天皇の退位をめぐる議論でもっとも欠けているのは、天皇がそれを『全身全霊をもって』果たせなくなることを最大の理由にしている『象徴としての行為』とは何かを国民が議論することではないでしょうか」と述べています(『朝日新聞』二〇一七年四月二二日)。
《国民を阻む菊のカーテンは健在》
「退位論議に欠けているのは象徴としての行為とは何かの議論である」という渡辺治や原武史の意見に私は賛成である。今までの憲法論議は九条論議であった。「象徴天皇の務め」など人々の視野になかった。
議論好きなインテリもこのテーマを敬遠し、庶民大衆はそれは「お上」が決めることだと思っていた。インテリは、特に敗戦直後には、天皇制廃止を主張していた。日本資本主義はフランス革命前の絶対王政と同じ段階だとする分析がまかり通っていたのである。
天皇制を前提としてその在りようを論ずるなんて恥ずかしい。それが往事の潮流であり今に続いている。戦争犠牲者の慰霊を「革新勢力」が先取りすべきだという意見―たとえば臼井吉見の―は少数派であった。後知恵になるが、これは日本の知識人の知的怠慢だったといえる。
権力を持ち復古を望む者たちは怠慢ではなかった。彼らは明仁夫妻の「民主的」行幸啓を阻止できなかったものの警備強化、提灯奉迎の日常化、懇談会の消失で行幸啓の形式化を図った。
《「令和」時代にも平和が続くだろうか》
祭祀と行幸は憲法に明示的な規定がない。
「それだからこそ」明仁夫妻は、自ら開発した「平成流」を自由にやれたのである。
しかしそれは、「だからこそ」自由にやれない状況にならないであろうか。
安倍政治は、日銀総裁・法制局長官・中央官庁幹部・NHK会長選任の慣行を破った。エリートたちは忖度し隷従する者たちとなった。集団的自衛権の行使すら可能とする法律を作った。本来なら天地が逆転するような話である。
徳仁天皇の「即位後朝見の儀」における発言の先帝との表現の違いが気になると指摘したのはノンフィクション作家保阪正康である。
平成元年(1989年)1月9日に明仁天皇は、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」と述べた。
令和元年(2019年)5月1日に、徳仁天皇は、「憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します」と述べた。
二つの文章は、似たものに見えるが、保坂によれば「日本国憲法を守り」と「憲法にのっとり」はちがうのであり、また徳仁の「そして世界の平和を切に希望します」への文章のつながり方も明仁の表現と微妙にちがうのだという。超ミクロな議論だが確かにこの意味も大きい。
《日本最大の危機は令和の御代に》
目を外に向けよう。汎世界的なポピュリズムの猖獗、その論理的帰結としての日米同盟の空洞化、貿易戦争の覇権戦争への転化、それが世界恐慌につながる危険、五輪・万博後の日本経済の崩落。何をとっても前途は悪材料ばかりである。元号を変えて世間が良くなるなら苦労はない。戦後最大の危機が日本に訪れるのは「令和の御代」においてであろう。平成と令和の狭間に考えた悲観的な感想である。(2019/05/17)
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