「斎藤史について」の報告が終わりました
- 2019年 5月 25日
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- 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り
5月18日、「短歌サロン九条」の例会、第61回になるそうですが、報告をする機会をいただき、「斎藤史」について話をしました。当ブログでも既報の通り、今年の1月9日日付で、暮れに拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』)を出版しました。そんなこともあっての依頼だったと思います。30部ほど用意した配布資料が足りず、近くでコピーをしてくださったそうです。会始まって以来の参加者が多かった?とのことでした。報告は、2時から1時間20分くらいで終了しましたが、あとは5時近くまで、参加者全員が感想を述べてくださいましたので、報告者としては、とてもうれしく、有意義な会となりました。思いがけず、国立国会図書館時代からの友人や知人、出版元の一葉社の二方の参加もありました。また、今回は、前記拙著の冒頭で、その論文を引用しました、若い研究者の中西亮太さんも参加してくれました。書誌、文献の考証には厳しい中西さんが、拙著の半分近くを占める著作年表や歌集未収録作品・全歌集編集時の削除作品などの資料検索・収集作業の困難さと努力に言及してくださったことは、ありがたいことでした。
以下は、当日の配布の「報告要旨」を中心に若干手を加え、まとめたものです。
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1.なぜ今、斎藤史か
1)斎藤史とは
斎藤史は1909年生まれで、2002年に亡くなり、元号で言えば、明治・大正・昭和・平成を生きた歌人でした。戦前の作品は、モダニズムの影響を受けた象徴的な手法が高く評価され、戦後は、疎開先の長野に定住、その風土になじめない都会人として葛藤、口語を駆使し自在な歌いぶりで、介護や自らの闘病や老境を歌い、現在も老若からの熱い支持を受けている歌人です。短歌雑誌では幾度も特集が組まれ、多くの鑑賞書や評伝も出される、現代の人気歌人の一人でもあります。
・暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
(『魚歌』1940年)
(『うたのゆくへ』1953年)
・つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち
(『ひたくれなゐ』1976年)
・疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりゃあなた
(『秋天瑠璃』1993年)
・人はみなおだやかにして病人を見下さぬやうにふるまひくるる
(『風翩翻以後』2003年)
斎藤史は、生前に、『斎藤史全歌集』を、1977年、1997年の2回、いずれも大和書房から出版しました。この全歌集への『朱天』(1943年)を収録する際に、その『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首と収録歌数が末尾には「昭52」と記され、付記として掲載されました。斎藤史の鑑賞や解説、評伝などが書かれるたびに、多くの執筆者は、付記された前掲の一首を引用して、戦時下の作品を隠さずに、全歌集に収めたことを、高く評価し、その潔さを称えました。
しかし、少し調べていくうちに、初版『朱天』の歌数と全歌集に付記された歌数の違いに気づきました。要するに初版から削除された歌があることがわかり、改作された歌もあることを知りました。
2)報告の焦点
今回の報告は、以下の3点に焦点を絞ります。
①拙著の資料の一部を使いながら、削除と改作の経過と実態はどうであったのか
②実態を知ると、戦時下の作品を、後世――戦後になって、どのように対応・処理するのかという、多くの歌人の共通する課題と重なりました。彼らの選択のパターンを何人かの歌人で検証します。
③その選択を自覚的にせよ、無自覚的にせよ、戦後歌壇、現代歌人たちは自然体で受容してきたと思うのです。その現象が何を意味するのか、何をもたらしてきたのかを考えたいと思います。
3)私の斎藤史への関心の高まりと資料環境の変化
私の斎藤史への関心は、史の父親の斎藤瀏に始まります。斎藤瀏は、軍人で、「心の花」の有力同人でありましたが、1936年2・26事件で、「反乱軍」の支援者として連座し、軍法会議で禁固5年の刑を受け、38年9月に仮出所します。翌年39年には『短歌人』を創刊し、以降、異常なほどの勢いで、歌壇に復帰、大政翼賛にのめりこみ、1940年には、太田水穂、吉植庄亮と共に大日本歌人協会を解散に追い込みました。篠弘は昭和短歌史の最大の汚点とも総括しています。また、斎藤史が『新風十人』という合同歌集、第一歌集『魚歌』、『心の花』時代の歌も収録した歌集『歴年』と立て続けに出版したのが1940年でした。
4)斎藤史への評価の類型化
私の1970年代の斎藤瀏の動向への関心と全歌集出版による歌壇や文壇での斎藤史への関心の高まりが重なる中で、史への評価が以下のような類型化が見られるようになります。
①2・26事件に絡んで、父の失脚、幼馴染の処刑に対する昭和天皇や軍部への怨念がありながら、ストレートに表明できない「悲劇のヒロイン」としての物語性を強調する
②戦時下にあっての『新風十人』『魚歌』では、象徴的な手法によって、当時の短歌や文芸への統制が厳しい中、ぎりぎりの抵抗を示したとする
③戦時下の作品を隠さずに『全歌集』に収めたというあとがきや付記の一首に着目し、その潔いメッセージを高く評価する
しかし、その一方で、私の関心は、史の発信した「潔さ」と削除・改作の実態との整合性、多くの歌人たちが、全歌集を語り、作品を鑑賞する場合、また評伝を書く場合、『朱天』の時代が省かれ、アンソロジ―などへの収録が極端に少ないという『朱天』をスルーする現象に疑問を持つようになりました。
5)資料環境の進化
近年、古い図書や新聞・雑誌のデータベース化が急速に進み、検索手段やコピー入手が容易になりました。
①古書や雑誌の復刻版・マイクロ版の出版に加えて、国立国会図書館では、主要雑誌の2000年までのデジタル化が進んだ。
②敗戦直後の混乱期、GHQの検閲時代の検閲資料がプランゲ文庫として、アメリカのメリーランド大学に保管されていることがわかり、データベース化が進んだ。
③新聞についても、期間などは限定的ではあるが、朝日「聞蔵」・毎日「毎索」・読売「ヨミダス歴史館」・「日経テレコン」など、斎藤史が多く登場する信濃毎日や中日新聞のデータベース化も進んだ。
2.『全歌集』収録の「朱天」と初版『朱天』の異同を調べてみて、わかったこと
1)『全歌集』収録の時に『朱天』から削除作品~17首
資料:『朱天』の『斎藤史全歌集』(1977年・1997年)収録時に削除された17首
(1)「戦前歌」より
①國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを 初版六頁
「とどろき」の最後一〇首目
『日本短歌』一九四一年二月「秋から冬へ15」*初出「理想」を改め
②たのめざるものも頼みきしどうなる野草の霜を今は云ひそね 二二頁
「ぼたん雪」六首目
『短歌研究』一九四一年二月「ぼたん雪9」
③煌めける祖国の歴史継(つ)ぎゆかむ吾子も御臣(みたみ)の一人と思へば 七二頁
「使命」四首目
初出不明
④神(かむ)使命(よざし)負へる我らと思ほへりひかりとどろき近づけるもの 七四頁
「使命」九首目
『女流十人歌集』一九四二年五月「飛沫45」 「思ほへば日日に」を改め
⑤ますら夫はむしろ羨しもひとすじに行きてためらはぬ戦場(ところ)を賜びき 七八頁
「訓練」九首目
初出不明
「開戦」より
⑥かすかなるみ民の末の女ながらあかき心におとりあらめやも 八五頁
「四方清明」最後一二首目
『婦人朝日』一九四二年三月「国民の誓ひ5」
『新日本頌』一九四二年一一月「開戦15」*「かそかなる御民の末の女(をんな)ながら丹きこころに劣(おとり)」を改め
⑦現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや 九五頁
「わが山河」六首目
『公論』一九四二年三月「四方清明5」
『日本短歌』一九四二年四月「春花また6」
⑧襲ふものまだ遂(つひ)に無き神国の春さかりや咲き充ちにけり 一〇九頁
「たたかふ春」最後一六首目
初出不明
⑨國をめぐる海の隅隅ゆき足らひ戦ひ勝たぬ事いまだ無し 一一四頁
「珊瑚海海戦」六首目
初出不明
⓾みづからのいのち浄らに保(も)ちも得で説く事多き人を見るかも 一二二頁
「微小」二〇首目
『短歌人』一九四二年九月「くろき炎5」
⑪たばかられ生きし憤(いか)りは今にして炎と燃えむインド起たむとす 一二六頁
「荒御魂」二首目
初出不明
⑫まつらふは育くみゆきて常(とこ)若(わか)の國悠(はろ)かなり行手こしかた 一二九頁
「荒御魂」最後一〇首目
『文芸世紀』一九四二年一二月「十二月八日7」
⑬動物を焼く匂ひに乾く着馴れ服火をかき立てて君も干さすや 一三七頁
「防人を偲びて」七首目
『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」
『短歌人』一九四三年二月「北なる人に4」
⑭重傷のわがつはものをローラーにかけし鬼畜よ許し得べしや 一四六頁
「ニューギニヤ進撃」三首目
初出不明
⑮半島、高砂、インドネシヤの友打つづき撃ちて止まむと進む神いくさ 一四六頁
「ニューギニヤ進撃」四首目
『短歌人』一九四三年四月「進撃4」 「やむと」を改め
⑯背戸畑の土の少しを守り袋に入れてゆきたる人如何に在る 一四六頁
「ニューギニヤ進撃」五首目
『短歌研究』一九四三年四月「冬樹7」*「すこし」を改め
『短歌人』一九四三年四月「進撃4」
⑰神怒りあがる炎の先に居て醜(しこ)の草なすがなんぞさやらふ 一四七頁
「ニューギニヤ進撃」六首目
『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」
「削除」したという文言や理由は、全歌集のどこにも明記されることはなかったのですが、歌数だけは、記述がありますので、引き算をすれば、削除された歌数がわかります。しかし、歌数の誤記などあり、戸惑いましたが、結論的には、17首が削除されています。1941年12月8日太平洋戦争開始前の「戦前歌」192首から5首、「開戦」173首から12首が削除されていました。どんな作品だったのか、上記の通りです。PDFでもご覧になれます。
これらの歌に共通するものは何なのか、それが削除の理由につながると思います。
①歌の根底に、軍国主義的なもの、天皇崇拝、神がかり的なものがある
②表現上では、気持ちの高ぶりを示したり、強調したりする表現が頻出している
③使用されている言葉には、天皇を神聖化した、たとえば、使命(よざし)、現つ神、皇国(みくに)、神使命(かむよざし)、御民、御臣などの多用や官製標語などが見られる
④さらに、二重寄稿作品やアンソロジー収録作品があるということは、当時、自分でも秀作、自信作、体制から期待された、時代の要請にこたえた大切な作品であったことが推測される
しかし、こうした条件を満たしながら、削除されない作品はたくさんあります。ほかにもあるということは、たしかで、配布資料にある中西亮太さんの朝日の歌壇時評や吉川宏志さんの図書新聞の拙著書評でも指摘しています。となると、削除の理由は何だったのだろか。私も明確な結論は出しにくいです。けれども、ともかく史自身としては、後世の人には読まれたくないないと判断した作品であったと考えられます。
ただ、こうした作品が削除されていたという事実と、例の短歌やあとがきでの隠したってすぐわかるとか、全部さらけ出すしかない・・・という発言との齟齬、整合性は問われなければならないと思いました。
2)作品改作例
(「四方清明」一二首の中)
・言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ撃ちてしやまむ 八二頁
『文芸』一九四三年三月
⇒言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ清(さや)明(け)く呼ばむ『全歌集』
この「撃ちてしやまむ」は、1943年3月10日が陸軍記念日で、それに合わせて陸軍省から発表された標語でした。当時、多くの雑誌の表紙に刷り込まれ、さまざまな特集が組まれました。その標語を外して、書き換えることにより、かなり、ソフトなものになっています。
(「天つ御業」八首の中)
・國をこぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日(いつ)の日にまた 八九頁
『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月
⇒國こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた 『全歌集』「天雲」
「撃たずして」という攻撃的な言葉から、「起たずして」にあらため、抑制した表現になっています。
・亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため 八九頁
(すぐる二・二六事件の友に)
『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月
→亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 『全歌集』
2・26事件で、反乱軍と烙印を押され、銃殺刑に処せられた友に捧げる歌ですが、この太平洋戦争を勝ち抜こうという今日のためになしたことだった・・・ということになり、改作後の「憂ひしとき至りたり」では、この現状を憂慮することに立ち至ったということになり、反対の意味にも解されるのではないかと思われます。
(「シンガポール陥ちぬ」一一首の中)
・百二十餘年の悪をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず
『文芸春秋』 一九四二年五月
→百二十餘年の無道をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず 九八頁
→百二十餘年東洋を蔑(なみ)したる道きよむると燃えし炎か 『全歌集』
初出の「悪」⇒ 初版の「無道」⇒ 全歌集の「東洋を蔑したる道」の改作はいずれも、「百二十余年」にわたるイギリスの植民地から、日本軍が解放するという大義名分を強調したものです。全歌集収録時に「東洋を蔑したる道」と改めたことによって、改作前の断定から、やや説明調にして、抑制したように思えます。
3)小題変更
「天つ御業」→「天雲」
「真珠湾特殊潜航艇の軍神」→「真珠湾特殊潜航艇」
4)有力雑誌への多重寄稿
削除作品⑥、⑦、⑬、⑯に見られるのはごく一部の一例で、収録作品の中にも多数見られます。通常は、「転載」など付記して、同じ作品を掲載することはあるけれども、題を変えてそっくり二重寄稿したり、作品を組み替えたり、同じ作品を散在させて寄稿するような操作もしています。
忙しくて原稿が間に合わなくて、多重寄稿になったのか、あるいは読者が違うから、あるいは、自分としては大事な作品だったから・・・という理由だったのか。出版社との関係でも、読者に対しても、誠実とは言えない態度だと思っています。
5)「未刊歌集」という方法
なお、『朱天』以降、戦時末期から戦後にかけての作品(1943年5月~1947年10月)は基本的には歌集としてまとめられておらず、空白の時期でした。敗戦後、占領下の『やまぐに』((初版150首から145首、1947年7月)という歌文集が刊行されましたが、依然として『朱天』以降敗戦までの作品が読めるようになるのは、未刊歌集「杳かなる湖」(『短歌研究』1959年10月発表100首から88首)という形で公表されたときでした。敗戦後14年後のことです。『全歌集』収録の際、2冊にも若干の削除・入換えがありました。しかし、とくに、太平洋戦争末期の公表作品が歌集や『全歌集』に収録されることはありませんでした。
3.これらの事実は、何を意味するのか
改作の例は、削除の意図を探る意味でも有効なのではないか。すなわち、大げさな表現の抑制、露骨な敵愾心の後退、ソフトな印象に換えるなどしていることから、削除にもそうした指向があったのではないか、推測できるのではないか、と思うわけです。では、ほかの歌人たちにも、削除や改作はあったのだろうか。戦時下の作品を、自らどう評価するか、どう処理するか。占領期のGHQ検閲時期の出版における対応とも関連して、各歌人の対応は実に様々でありました。ほんの一部ながら、実例を挙げてみたいと思います。
a)窪田空穂(1877~1967)『明闇(あけぐれ)』(1941~43年作品、1945年2月)の場合:当時の歌集には収めた作品が、今から思えば、大本営発表に踊らされた、つまらない作品だからなど、一応の理由を「あとがき」などに記述して、『全歌集』(1981年)からは削除しています。
b)阿部静枝(1899~1974)『霜の道』(女人短歌会 1950年9月、第一歌集『秋草』(ポトナム社)以降 1926年10月以降1950年)の場合:戦時下の作品は焼失、手元にない・・・、未婚の母の時代の作品などをふくめて、歌集全体をフィクションと称して、歌集を構成・編集しています。
・ひそかに生み落し他人にまかす子の貧しき眉目あげて笑へる(『霜の道』)
・里親よりさいそくきびしき金が欲し雨にいそぐ男をはりてとらふる(同上)
c)斎藤茂吉(1882~1953)『霜』(1941・42年作品863首、岩波書店 1951年12月)の場合:「後記」で「大きな戦争中にあっても、幾首づつか歌を作った。その一部は今回捨てたが、それでも残りはこれくらゐである」
『小園』(1943・44年作品、782首 岩波書店 1949年4月)の場合:「後記」で「昭和十八年、昭和十九年の作から平和なものを選び・・・」
出版年の1951年、1949年に着目しますと、GHQの検閲下(1945年9月19日プレスコード~1948年7月15日~事前検閲、~1949年10月事後検閲終了)あった時代で軍国主義の歌は検閲対象であったので、その配慮が十分あったかと思います。『斎藤茂吉全集』(新版全36巻、岩波書店 1973~75。1~4巻歌集収録、4巻「歌集拾遺」として収録されている
『萬軍』(1945年7月221首を茂吉自身が選定、八雲書店<決戦歌集>として刊行予定)の場合:秋葉四郎『幻の歌集『萬軍』』(2012年8月岩波書店刊)において編者は、謄写刷りの私家版があるが発行年・出版元不明の『萬軍』と1988年12月紅書房刊の二冊の『萬軍』は、いわば信頼関係を崩す出版と断定、本来の原稿は八雲から取り戻して、佐藤佐太郎に預けた原稿こそが原本で、それを出版するに及んだと記す。
・肇国(はつくに)しらす天皇(すめらみこと)のみ言(こと)はや「撃ちてしやまむ」のみ言はや
d)宮柊二(1912~1986)『山西省』(1940年1月~1943年8月?作、古径社 1949年4月)の場合:1946年7月中央出版社版がGHQの検閲を受けていて公刊されなかった。検閲末期に公刊した。
・ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
(『日本文芸』1942年7月)
これに収録されていない時局詠31首は、未刊歌集「芻(すう)駅の歌」として、1956年12月東京創元社『定本宮柊二全歌集』に収録。岩波版(1989年11月~『宮柊二集(全10巻)』別巻(1991年2月)には「著作年表」を付して時系列で収録。
・旺んなる士気を振ひて大君の工場護らむ時ちかづきぬ(『多磨』1945年1月)
結び
歌人たちの、個別の歌集の出版、編集の際に行われる取捨・改作については、いつの時代でも、だれもが行っている作業ではあります。しかし、次のような場合、歌人自身や編纂者は、どのように対応すべきなのだろうか。
・一度公表した作品で、歌集に収めた作品を、全歌集や全集編集の際に改作したり、削除したりする
・一度公表した作品で、ある時期の作品を全く歌集に収めなかったり、全歌集に収めなかったりする
いずれの場合も、「ことわり」を入れるか、入れないかは、歌人や編纂者の資質にかかわると思います。
⇒①削除や改作の事実と理由を明記する
⇒②その事実を公表しない、言及しない
⇒③その事実に反して隠さないと公言する
作者自身や編纂者として、どのスタンスであるのかを明確にしておくことが望ましく、他者の作品を読むときは、作者が上記のどの立場なのかを見極め、自分としてはどこまで受容するのかも明確にしておくことが必要かと思います。いずれにしても、自分に不都合な事実には触れずに、都合の良い事実だけを強調・喧伝することによる情報操作にも留意することが必要と考えました。
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なお、中西さんからは、多重投稿の例は、葛原妙子など他の歌人にもみられることであること、いくつかの図書館の雑誌所蔵情報なども教示いただきました。また、斎藤史の基本的なスタンスとして、「時代に迎合した」というより、思想的には変わってないとみるか、確たる思想がなかったとみるかであって、前者に近いのではという意見も伺いました。私も、史の思想形成から見ると、前者と考えるべき一端は、史の天皇観にも表れていることに、拙著でも言及していましたので、共感したのでした。
なお当日の配布資料は、次の通りです。
1 .拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』チラシ(目次付き)
2.新聞切り抜き
・大波小波「『斎藤史全歌集』への疑問」(『東京新聞』1998年11月5日)
・中西亮太:歌をよむ「斎藤史の真意はどこに」(『朝日新聞』2010年8月16日)
・大波小波「「濁流」に建つ言葉」(『東京新聞』 2017年6月12日)
・吉川宏志:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「言葉によって自己の人
生を染め替えようとする意識」(『図書新聞』2019年4月6日)
・寺島博子:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「揺るぎない視座」
(『現代短歌新聞』2019年5月5日)
3 .拙著の資料「斎藤史著作年表」の一部(1943~1946年)
4.報告要旨
初出:「内野光子のブログ」2019.05.22より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0800:190525]
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