青山森人の東チモールだより…祝!独立17周年、今年は住民投票から20年
- 2019年 5月 30日
- 評論・紹介・意見
- 青山森人
祝賀演説で政府に注文をつける大統領
今年も東チモール民主共和国は「5月20日」を迎え、独立(正確にいうと「独立回復」)記念日を祝いました。首都デリ(ディリ、Dili)では大統領府前広場でタウル=マタン=ルアク首相など要人や来賓が出席する記念式典が行われる一方、祝典は各地方・各場所で分散して行われました。
東チモール全土から国民が一ヶ所の式典会場に押し寄せるという風景はもはや過去のものとなってしまったようです。祝賀演説の中で英雄たちの名前を呼ばれ観衆が涙するのも昔の風景になったかもしれません。2006年の「東チモール危機」が勃発し、その危機が収束していくのと同期するように、そうなってきたようにわたしの目には映ります。そしてそれは、2007年に発足したシャナナ=グズマン連立政権のスローガンである、「さらば紛争、ようこそ発展」とともに「石油基金」が本格的に使われ出した時期と同期します。
「石油基金」を使えて恩恵を受ける側とそうでない側に東チモール社会は分離され、貧富の格差、汚職問題、開発問題等々、世界のさまざまな国ぐにが抱える類いの社会問題に東チモールも対峙するようになってきました。
さて、祝典でのルオロ大統領による演説をざっとみてみましょう。「この国の14歳以下の46%が貧困ライン以下の生活をしており、この国の将来が脅かされている。食糧生産の量と質が低下している。失業率は上昇し、大勢の若者たちは仕事を求めて海外に出ている」と大統領は指摘し、栄養不足、雇用機会の不足、電気・水の不足、医療をうけることができない環境など、これらは平和な社会の確立にとって危険因子であると政府に警告を鳴らします。
また、大統領は経済の多様性をつくるために農業への投資が必要であると力説しました。コーヒーを例にとりあげ、東チモールのコーヒー産業に関する2015年国勢調査の数値とコスタリカのコーヒーの生産性を比較するなどして、東チモールの生産性の脆弱さを強調し、農業への投資と、零細な食糧生産に力を入れ食糧の自給率向上を政府に求めました。大統領は食品の輸入を、「南」(テトゥン語でタシマネ)でお金を引き出し、「北」(同、タシフェト)の港でお金を使ってしまうと表現しました。そのあとすぐ話題は「石油基金」の移り、「石油基金」をより持続的な形で使うよう政府に求めたのでした。つまり、「南」とは「タシマネ計画」(チモール海の[グレーターサンライズ]ガス田からパイプラインがひかれることを前提とした南部沿岸地域の大規模開発事業)のことを指し、「北」にある首都デリ(政府)で「タシマネ計画」の資金が浪費されていることを皮肉った表現であろうと思われます。
このような調子でルオロ大統領は政府に注文をつけているので、これは政権を率いるAMP(進歩改革連盟)の議長かつ最大与党CNRT(東チモール再建国民会議)党首、そして領海交渉団長として「石油基金」から多額の資金を引き出し「タシマネ計画」に注ぎ込むシャナナ=グズマン氏にたいする批判であるといってよいでしょう。
最近、タウル=マタン=ルアク首相が内閣改造をして閣僚未就任問題の決着がつくかもしれないと憶測を呼ぶ報道が目立つことから、もしルオロ大統領が「独立回復」式典で与野党の指導者たちに、一丸となって国難に立ち向かっていこうではないかと呼びかける演説でもしたら、あるいは政治的袋小路の打開につながるかもしれないと少なくともわたしは期待を寄せましたが、そうなりませんでした。本来ならば「独立回復」記念日のお祝いムードに与野党分け隔てなく浸り、しばし浮世の憂いを忘れてもよさそうですが、政府批判・シャナナ批判の色濃い演説となったということは、シャナナ党首とルオロ大統領の対立は続いており、依然として政治的袋小路は膠着状態にあるとみてよさそうです。
大統領、西サハラ問題に言及
ルオロ大統領の演説内容で忘れてはならないことがあります。演説が終わりに近づいたところで、最後の植民地といわれる西サハラの問題に言及したことです。今年は東チモールが住民投票によって自決権と平和を獲得してから20年目にあたる年であることをまず述べ、そして――1991年、西サハラの帰属問題を解決するための住民投票を実施する国連機関が設置されたが、国際社会は未だ住民投票を実現していない。国際社会が西サハラの人びとの嘆きに耳を傾けるとき、独立への道が開かれるであろう――と西サハラの人びとに連帯の意思を表明したのです。
東チモール国内の現状を色濃く反映してやや内向きになっていた嫌いのあるルオロ大統領の演説内容でしたが、西サハラの問題に言及したことで国際社会の一員として東チモールの立場を高らかに表明するという開放感が付け加えられたことは救いであり意義深いといえます。
1999年を振り返ると…
ということで、今年2019年は国際社会に東チモール独立を認めさせた1999年の住民投票から20年目の節目にあたります。住民投票の実施日である「8月30日」と、平和維持軍として多国籍軍が東チモールに上陸した「9月20日」にも祝典が催される予定です。
東チモールにおけるインドネシアの主権を認めるオーストラリアが、帰属問題に決着をつける住民投票の実施と、囚われの身であったシャナナ=グズマン氏の釈放を支持するという政策転換を発表した1月から、国連機関の設置、準インドネシア軍である民兵組織による暴力、住民投票の実施、その結果発表、民兵組織による大規模な破壊活動、多国籍軍の派遣、国連の東チモール暫定統治機関の設置などなど、あれよあれよと目まぐるしく事態が展開した激動の1999年から20年がたったのです。
国連の大失態
1999年8月30日に実施された住民投票によって、東チモール人は独立を選択しました。この選択に不服なインドネシア併合派の民兵組織は、国連に協力した東チモール人を標的にし、国連監視団やジャーナリトなどの外国人を追い出し、町や村に火を放ち、暴力のかぎりを尽くしました。東チモールは大騒乱状態に陥りました。
同年9月9日ごろから大勢の東チモール人がこの騒乱のために、主として西チモールなどのインドネシア領に避難したのですが、もっと正確にいうとこうなります。併合派民兵とはすなわちインドネシア軍の一部であり、つまりインドネシア軍が騒乱をおこし、インドネシア軍が東チモール人を自国領土へ連行したのであり、これは軍事作戦そのものでした。
インドネシア軍の覆面部隊ともいえる併合派民兵が、投票結果の発表後に大規模な破壊軍事活動に走るという予測は、インドネシア軍内部から漏れた軍事情報であり、憶測の範囲を越えた正確な情報でした。その情報は半ば公になっていたにもかかわらず国連や国際社会は破壊活動を防ぐことができず、大勢の東チモール人が犠牲となったのでした。
2004年、東チモールで「受容と真実と和解委員会」主催の公聴会が開かれたとき、住民投票を実施した国連機関UNAMET (ウナメット、国連東チモール支援団)の当時の特別代表であったイアン=マーチン氏が証言席に座り、質問を受けました――「1999年の騒乱を防ぐにはどうすべきだったと今お考えですか」。同氏は「今となってははっきりしている。インドネシア軍を陣営に収めるか、民兵の武装解除か、あるいは国際部隊を派遣すべきだった」と明解に答えました。つまり1999年、住民投票が実施される年、東チモール人が繰り返し繰り返し国連に請願したことをやるべきだったという意味です。実行すべきことを実行しなかったため大勢の犠牲者が出たことにたいする国連の責任は重いといわざるをえません。国連内で力をもつ大国の思惑があったとしてもです。
東チモールにおける国連のこの大失態は「コンゴ動乱」に次ぐ汚点といって差し支えないと思います。ベルギーによる乱暴な非植民地過程のなか選挙で選ばれたパトリス=ルムンバ初代首相は混乱を収拾するため国連に国際軍の派遣を求めたところ、国際軍が守ったのは豊富な鉱山資源であり、コンゴの自由と平和ではありませんでした。コンゴはベルギー植民地から一転、国際植民地になってしまい、1961年1月、ルムンバ首相は殺されました。結局、コンゴ改めザイールのモブツ大統領というアメリカお気に入りの独裁者が、インドネシアの独裁者であるスハルト大統領と同じ年数である32年間も君臨してしまったのです。
なお「コンゴ動乱」を収束させようと奔走した国連のハマーショルド事務総長の乗った飛行機が、1961年9月、現在のザンビア付近の上空で墜落、死亡しました。この墜落については陰謀説が根強く残っていましたが、命令を受けてこの飛行機を攻撃したとベルギー人傭兵パイロットから明かされた人物が証言をするドキュメンタリー映画『コールド ケース ハマーショルド』が今年の1月に話題になりました。
十重二十重に秘密を隠しても、秘密の方から我慢できずにポッコリと頭を出すことはよくあることです。東チモールにかんする国連の大失態にしても、誰かが意図して仕組んだ事実が今は地中に眠っているだけかもしれません。もしそうならば、いつか必ずその秘密の芽が出て話題になることでしょう。
青山森人の東チモールだより 第395号(2019年5月30日)より
青山森人 e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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