私が会った忘れ得ぬ人々(九) 立花隆さん――ゼネラリストたることを専門とする専門家たらん
- 2019年 6月 5日
- カルチャー
- 横田 喬立花隆
戦前日本の「知の巨人」が南方熊楠(敬称略)だとすれば、戦後日本のそれはさしずめ立花隆だろう。南方は生ける百科全書とも言うべき博識で鳴らしたが、立花も凄い読書量や博学な点では負けていない。菊池寛賞・毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞などを受け、理系学問の分子生物学や脳科学への造詣が認められ、東大大学院特任教授にも任じている。
今から三十五年前の一九八四(昭和五十九)年、私は東京・文京区内の自宅に彼を訪ね、差しで一時間余り取材している。当時の『朝日新聞』紙面から紹介記事(概要)を引くと、
――田中角栄元首相の“天敵”として名をはせたルポライター立花隆(四四)は、父の勤めの関係で長崎で生まれたが、小学校から高校途中まで水戸で育った。本名・橘隆志。
一見ソフトに映るが、なかなかの意地っ張りだ。田中金脈を追及した十年前の雑誌論文『田中角栄研究』。権力者に弓引く身への相手陣営からの圧力も陰に陽に厳しかった。相手が強ければ強いほどファイトを燃やし、ロッキード事件公判を欠かさず傍聴、筆誅の刃をとぐ。
小学生のころ、休日に水戸の大きな本屋に行き、終日立ち読みを続けて飽きなかったほど読書好き。文献や資料の核心を見抜く力に優れ、仕事仲間は「本を読む天才」視する。東大でフランス文学と哲学を専攻。『日本共産党の研究』『農協 巨大な挑戦』は政界などに波紋を広げ、『文明の逆説』『宇宙からの帰還』は現代文明や人間存在の本質を問う。
着眼のよさと実証の確かさ、平易で力強い文章。ニュージャーナリズムの地位を高め、「角栄追究と早く縁を切り、もっと次元の違う仕事がしたい」――
『田中角栄研究』は‘七四(昭和四十九)年秋、月刊誌『文芸春秋』の肝いりで二十人ほどのチームを編成。登記簿や政治資金収支報告書など公開情報を徹底的に調べ上げ、それを基に関係者に当たって裏付けを取る地道な「調査報道」の典型だ。角栄の息がかかる室町産業の例が凄い。農民たちから河川敷だからと五千五百万円の安値で買い取った土地が国に堤防を造らせて立派な土地に化け、八十五億円もの法外な値上がり益を懐にする。この論文に目を通し、私は正直「やられた」と感じ、己の非才ぶりに愛想が尽きた。
立花は「小学三年で漱石(『坊ちゃん』)を読み、六年の時にディケンズ(『二都物語』)を読んだ」というから、驚く。両親は文学青年・文学少女上がりで、父親は書評紙の編集者で、家の中には沢山の本があった。が、立花は読書一辺倒でもなく、中学では陸上部の活動に励みハイ・ジャンプ1㍍64㌢の新記録をマーク。青白い秀才タイプではなかった。
受験勉強で大変だった高校時代も、欧米作家が中心の『世界文学全集』を半ばは読破。東大入学後は「文学研究会」でサークル活動に励み、ドストエフスキーやトルストイは代表作のほとんどに目を通す。彼の両親は共にクリスチャンで、彼自身も子供の頃から教会へ行かされ、キリスト教の影響が強い、という。文学専攻の意義について、こう言う。
――文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。想像力が十分に培われていないために、物事の理解が図式的になり易い。
東大仏文科卒業後の一九六四(昭和三十九)年に『文芸春秋』社へ入り、『週刊文春』の記者に。仕事に追いまくられ、本がろくに読めなくなる。「どんどんバカになる」気がして、二年半後に退社。きっぱりとした決断には感服する。‘六七年、東大哲学科に学士入学。元々、世界や人間とは何か?いかに生くべきか?と根源的に考えていくタイプだった。が、一年半後にかの東大闘争が突発~全学ストへ突入し、授業は全くなくなってしまう。『文春』当時の知人から「暇なら、何か書かないか」と声がかかり、「東大ゲバルト壁語録」「実録・山本義隆と秋田明大」などを寄稿。なんとなく、物書き稼業に深入りしていく。
‘七一年、当時三十一歳の彼は唐突に絶筆を決意し、新宿ゴールデン街でバー「ガルガンチュア」の経営に乗り出す。片思いと承知の女性宛てに原稿用紙千枚弱ものラブレターを二年越しに書き送った。が、先方の気持ちを動かせないと判り、己の文才に見切りをつけた、という。しかし、バー経営は半年で諦め、翌年、イスラエルへ旅立つ。欧州~中近東と放浪するうち、日本赤軍によるテルアビブ事件に遭遇。『週刊文春』に「テルアビブで岡本幸三と一問一答」を寄稿。以後再び、言論活動へ復帰する。
週刊誌や月刊誌を足場とする三十代のころの執筆活動は、驚くほど間口が広い。ありとあらゆるテーマを一度ならず論じ、「我ながら、呆れるばかり」と呟く。「専門分野を持ったら」という忠告も再々受けるが、「スペシャリストの時代であればこそ、かえってゼネラリストの存在価値が出てくる」「そもそもが浮気性で、好奇心過剰。ゼネラリストたることを専門とする専門家たらんと心がけ、今日に至った」と反論した。
‘八一(昭和五十六)年~翌年に、『中央公論』誌上で科学レポート『宇宙からの帰還』を七回連載。なかなか衝撃的な内容で、私は強い感銘を受けた。彼は事前に周到な準備を尽くし、ワシントンの図書館で百八十項目にわたる宇宙開発関連の過去二十年分もの雑誌記事をアルバイトを雇い全部コピー。肝心な要点は予め全て頭に叩き込んだ上で、十余人の宇宙飛行士らとのインタビューに臨んでいる。
‘七一年に月面を探索したアポロ15号乗組員ジム・アーウィンの件が白眉だ。彼は三日間に十七㍄の地域を踏破し、思いがけぬ場所で地球では滅多に見かけない白い結晶質の綺麗な小石を発見して持ち帰る。分析の結果、この石は四十六億年前のものと判り、「太陽系の天体は四十六億年前に一挙にでき上がった」との仮説を証明するに至る。これは聖書にある創成記の「天地創造」説とも合致することから、石は「ジェネシス・ロック(創世記の岩)」と呼ばれ出す。立花のインタビューに対し、アーウィンはこう述べる。
――月面に降り立った瞬間、(辺りの気配に)神の臨在を感じた。(苦労の末の)石の発見は神の導きによるもので、私に地球へ持ち還らすためにそこへ置いたのだ、と確信した。
彼は地球帰還の翌年、NASAを引退。洗礼を受け直し、平凡な一信仰者から熱烈な伝道者へ変身する。全米各地や海外で数々の伝道集会を開き、自身の神秘的体験を訴え続けた。
人類初の宇宙飛行士、ソ連のガガーリンは「地球は青かった」と証言した。アメリカの宇宙飛行士らも「暗黒の宇宙の中の小さな宝石」「大気と水の生命圏が持つ青さ、地球は宇宙のオアシスだ」と地球の美しさに対する賛辞を並べる。感得した強い感動ゆえに彼らは様々に人格的変貌を遂げていく。アーウィンのような宗教家をはじめ、平和運動や環境問題の活動家に詩人・画家・思想家・政治家(上院議員が三人)・・・。「宇宙体験をすると、その内的衝撃は人生を根底から変えてしまう」と彼らは口々に言う。立花独自の鋭い切り口のインタビューに対し、「よくぞ聞いてくれた」と謝辞を口にする者もいた、という。
‘九〇年に刊行された『精神と物質』(利根川進氏との共著、文芸春秋社刊)は新潮学芸賞を受けた労作。‘九四年刊行の『臨死体験(上)(下)』(文芸春秋社刊)も話題を呼んだ。‘〇七年、立花は多発性膀胱癌を発症して手術を受けるが、必ず再発すると宣告される。NHKテレビと協力し、スペシャル番組「がん 生と死の謎に挑む」(後に「文芸春秋」から単行本化)を制作。世界の癌医療の権威四十人に取材し、癌克服の可能性は当面は殆どない、と結論づける。以後、通院治療は断念し、食事療法などで自適の日々を送っている。
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