「親権」とは何か?―「家族」「親子」を考えるための基礎作業(2)
- 2019年 7月 3日
- 時代をみる
- 池田祥子
「改正児童福祉法」の成立―2019年6月19日
前稿(2019.5.18)でも触れた「結愛(ゆあ)ちゃん(5歳)」「心愛(みあ)さん(小4)」の虐待死事件後、政府はまずは「関係閣僚会議」を開き「緊急総合対策」を決定し(2018.7.20)、続いて「関係府省庁連絡会議」において「児童虐待防止対策総合強化プラン」を策定している(2018.12.18)。しかし、その後、心愛さん事件に関わる児童相談所、学校、教育委員会の、見識を疑うような不手際が明るみに出されるや、再度「関係閣僚会議」を開き、先の「緊急総合対策の更なる徹底・強化について」を決定した。
それらを踏まえて、今年6月19日、児童福祉法や児童虐待防止法が改正された。施行は来年4月からである。(これらの改正論議のさ中にも、札幌市で池田詩梨(ことり)ちゃん(2歳)の衰弱死が報道され、さらにまた7月1日、仙台市では2歳女子、陽璃(ひなた)ちゃんの置き去り死が見つかっている)。
改正された主な内容は、親権者や児童福祉施設の施設長などの「体罰を禁止」したこと、児童相談所の体制の強化、子どもの安全確保、などである。
しかし、民法の親権に絡む懲戒権に関しては、今回も論議は煮詰まることなく「改正法施行後2年を目途に法制審議会において検討される」こととなった。
体罰の禁止
これは一つのサンプルだが、2017年に全国の20歳以上の男女2万人を対象にした意識調査(公益社団法人「セーフ・ザ・チルドレン・ジャパン」(SCJ)実施)では、「しつけのための体罰は必要」と答えた人は約6割を占めたという。「親によるしつけ」という言葉自体が、もともと「強制」という側面を内包していることも事実ではある。
しかし、1979年、世界で初めて「育児の場面での体罰禁止」を法定化したスウェーデンでは、60年代には55%の親が体罰肯定、しかも95%の親が体罰を行っていた(肯定しないけれども実際には体罰を加えていた、という親も含めて)のに、法による禁止以降、2018年には、体罰肯定は1%、体罰を行った親は2%に激減したという。さらに、ドイツやフランスでも同じく法による体罰禁止以降、確実に体罰の実施や容認は減っている(「朝日新聞」2019.6.5)。
今回の児童福祉法、児童虐待防止法に「体罰禁止」を明記したことは、日本としては画期的なことである。これを第一歩として、「しつけとしての体罰」「親の愛情としての体罰」が真に反省され、減少していくことを望むばかりであるが、ただ、本当に行政当局も真剣に、多くの人々との議論や共感を踏まえた上での法の改正だったのか、何とも心もとないのはどうしようもない。事件が起こった後での後手後手の対応という面も見えてしまう。本当にスウェーデン他の西欧諸国のように、法による禁止をきっかけとして、家庭での体罰や児童虐待が真に減少していくのかどうか。そのためには何が必要なのか、徹底した議論と政策の具体化が求められるだろう。政府や行政機関、ひいては私たち国民においてもどこか他人事に感じられるのは、やはり民法の親権や懲戒権の見直しが今なお滞っていることにも原因があるのではないだろうか。
本当は難しい「子どもの権利」保障
「人権」という思想も「民主主義」という制度も、当たり前ではあるが、絶えず検証され、相互の納得の上で深められていくものなのだろう。普通選挙の投票する権利も、歴史を遡れば、年齢制限、性別制限、経済力による制限など、周知の事実である。
「権利」主体に関しても、私たちが小学校で学んだ「社会科」では、次のように教えられた。つまり、権利を行使するからには、当然「責任」も伴う。だから、責任を負えない人間は「権利主体」にはなれない。「成人/未成人」「健全者/心身不全者」、この二分される後者の人間の中の例えば「子ども」は、あくまでも「保護されるべき」「未熟な人間」として位置づけられていた。だからこそ、「福祉」の」対象であり、「教育」の対象として位置づけられ、この考え方に基づく構図上では、子どもはいつも上下関係の「下」に留め置かれていたことになる。
ところが、1989年、国連総会で「児童の権利条約」が採択され、翌90年発効される。もっとも、この条約採択に至るまでには、第二次世界大戦後の「世界人権宣言」の採択があり(1948年)、続いての「児童権利宣言」の採択がある(1959年)。しかし、現実には米ソの冷戦体制が続き、子どもの受難も変わりなく続く。そして、いや、だからこそなのか、1978年、ポーランドが国連人権委員会に「児童の権利に関する条約」の草案を提出する。そして、この条約の具体化のための作業部会が設けられ、長期間にわたっての議論も重ねられ、ようやく「児童権利宣言」採択の30周年となる1989年、上記の「児童の権利条約」は採択された。つまり、国連を中心とする世界では、「子ども(児童)の権利」をめぐって、長い長い論議の時間が重ねられていたのである。
このように考えると、「子ども(児童)の権利」の提唱は、「権利」概念の拡大であり、転換であり深化である。さらに言えば「人権」概念の徹底化、「家族の中の民主主義」の実現を目指すこと、とも言える。
ところが、日本の対応はどうだったのだろうか。
確かに、国連の「児童の権利条約」発効(90年)の4年後に、日本もまたその条約に批准した。そして、「子どもの権利」「子どもの最善の利益」という言葉は盛んに使われるようになった。しかし、この条約の精神に基づいて改正されたはずの民法の条文を見てみよう。
820条 親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。822条 親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内で、その子を懲戒することができる。(2011年改正)
何ということはない、「子どもの利益のために」の一文が親権を肯定するために機能しているではないか。日本では、なお「忠」(という精神)による公権力への従属(忖度)とともに、「孝」による子どもの親への従属(「愛のムチ」への感謝と恩)を、時代錯誤と笑うことなく、改めて問い直す必要があるのではないか。そして、「親」自身が置かれている状況も、いま一度現実的に見直されなくてはならないだろう。(続く)
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