はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(13)ハンブルグへ、旅のつまづき
- 2019年 8月 26日
- カルチャー
- 内野光子
旅も後半、アムステルダムからハンブルグへ飛ぶので、その日の朝、娘にメールをすると、大阪のG20の報道が、やかましい、ホテルがどうの、夕食のメニューがどうのと、中身のないことばかり・・・、との返信。私たちもホテルで現地のテレビのニュースを見ていたが、G20関係は数十秒の世界で、安倍首相の姿が映ったと思ったらすぐ消えた、程度のことだった。
早めにスキポール空港に着いて、少しばかりの買い物を済ませた。10時45分には離陸、地上は、しばらく、細長い白いビニールハウスが目立っていたが、やがて細長い畑のモザイクに変わっていった。うとうとしているうちに、ハンブルグ空港に着いた。ところで、ここで、思わぬトラブルにふたたび遭遇することになった。
ふたたび?というのは、思い出すのもイヤで書かなかったのだが、実は前日、ユダヤ歴史博物館に向かう途中で、私が、自転車道と歩道の境目に躓いて、派手に転倒してしまったのだ。ズボンの膝は破れ、手にしていたカメラが遠くに飛んで行ってしまったのである。前後に歩いていた人が寄ってきて気遣いの言葉をかけてくれるし、日本語とは違うアクセントで「マッサージ、いいよ、マッサージ!」といって通り過ぎる女性もいた。ともかく幸いにも、膝は、冷房用に着けていたズボン下と、ひざ痛の貼り薬のおかげで、傷はなかった。ただ飛んで行ったカメラの調子が悪くなって、望遠のまま動かなくなってしまったのである。これからは、妙な望遠での写真か、夫のカメラから頂戴した写真となる。
これは転んだ日の写真ではないけれど、自転車道と歩道との境はこんな風で、微妙な段差がある。自転車道の往来は一方通行で、かなりのスピードを出しているので、気をつけてはいるのだが、少しはみ出して、後ろから大声で叱られることもあった。
ハンブルグ空港では、予定通り12時前には手続きが終わったのだが、指定のベルトで荷物を待っていても、いっこうに、私たちの荷物が回って来ない。同じ便の客たちはとっくにいなくなっていた。こんなことは初めてのことで、近くの係員に訊くと、次の便になった、ともいう。途方に暮れて、バゲッジのトレースセンターに並び、事情を話せば、こともなげに、運がよかったら、今晩か明日にはホテルに届くはずだと、日常茶飯のような対応だった。そんなことにも手間取って、一度ホテルに入ってから出かけるつもりだった、午後2時から、市内ガイドの方との待ち合わせに遅れてしまった。かなり重い手荷物を持ったまま、約束の市庁舎前まで、たどり着く。幸いホテルは、近くのゾフィテルだったので、まず手荷物のザックはホテルに置いていきましょう、というガイドのYさんの勧めで、チェックインをして、やはりここも、シャワーだけでバスタブがないのはいささかがっかりしたものだが、荷物は最小限度にして部屋を出た。Yさんは、フロントで、今晩にも届くかもしれないバゲッジのことをしっかりと確認してくれていた。
だいぶ遅れたが、市内のウオークツアーでは、予定通りのコースとはいかなかったけれど、市庁舎→ミヒャエル教会→旧商工組合福祉住宅→エルベトンネル入り口→船でフィルハーモニー→市庁舎、ということにだった。荷物の心配もあり、なんと昼食抜きのどこか落ち着かない一日だったが、聖ミヒャエリス教会展望台からの眺めは素晴らしかった。この日、1万2009歩。
1897年に完成した市庁舎は今でも使用している。647室もあってバッキンガム宮殿を凌ぐというが、地盤は決し堅固な土地ではないので、土台には4000本の樫の杭が打たれているそうだ。外壁の窓の上の飾りには、貿易で繁栄した自由都市らしく、市民の職業にまつわるものや相手の国の象徴のようなものが彫られていて、豚の頭だったり、ケーキだったり、ちなみに日本は、菊の紋章が彫られている由。高くてよく見えなかったが。また、正面のバルコニーには、ラテン語で「先人たちの勝ちとった自由を後世の人々が厳粛に守らんことを」が掲げられているという。
ホールまでは誰でも入れる。正面に市長の部屋に通じる階段で、さまざまな客を迎えるが「私は誰にも膝まづかない」といういうのが引き継がれているとも。翌日の市庁舎ガイドツアーに参加することにした。
市庁舎の近くの路上にあった「stolper stein つまづきの石」と呼ばれるもので、この場所近くに住んでいたユダヤ人がナチスに連れ去られ、亡くなった人の名前と日付などが彫られた銅板が敷石の間にはめ込まれ、それを後の人も記憶に留め、追悼しようとすものである。そういえば、、ベルリンン国会議事堂の横の広場にも少数民族のシンチ・ロマのナチス時代の犠牲者追悼記念碑に囲まれた丸い池の周辺の敷石には、犠牲者の前が名前が記されたこと、ホロコーストの追悼施設が議事堂ブランデンブルグ門の間に置かれていたことなどを思い出していた。日本人の歴史認識と、これほどまで違うのはなぜなのか。
上の三葉は、ミヒャエル教会の展望台からエルベ川を望む。
展望台から市街地の方を望む。中央の高い尖塔がニコライ教会跡。その右手がカタリーナ教会、左手の市庁舎の先の聖ペトリ教会と聖ヤコビ教会と思われる。ニコライ教会跡は、ホテルからも近いので、後日、朝食前の散歩で出かけた。
木組みの旧商工組合福祉住宅に挟まれた路地、17世紀、1676年に当時の商工組合員の未亡人のために建てられた住宅だった。日本はまさに江戸時代の初期、「福祉」などという発想があっただろうか。1863年から100年ほどは市の老人ホームだったのを、1970年代には改修の上、博物館と店が入ったそうで、レストランも来られるといいですよ、とYさんもお勧めだったし、いろいろな楽しそうなお店もあったので、ぜひと思っていたが、再訪は果たせなかった。
トンネルまでは、大型のエレベーターで降りる。1911年完成当時、車も乗れる巨大なエレベーターが何基も備えられ、驚異の的だったらしい。現在は車は、ほとんど1975年完成の新エルベトンネルを走る。
派手な黄色い船がHVV運営のれっきとした公共交通機関の定期船で、上の白いのが遊覧船であった。定期船は、地下鉄などと共通の一日乗車券で乗れる。
右の奇妙な建物が、2016年完成した、エルプフィルハーモニーの建物で、完成までには、工費の拡大で、すったもんだがあったらしい。
私たちは、たった10分にも満たない船の旅だったが、川風に汗も一時引っ込んだようだった。
初出:「内野光子のブログ」2019.8.26より許可を得て転載
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