国籍離脱思想の前後
- 2019年 9月 2日
- 評論・紹介・意見
- 山端伸英
1)二重国籍者
最近の日本の成人概念について調べていないままに書くのだが、既に選挙権が18歳にして取れるようになっているようだから18歳が成人なのだろう。以前はメキシコ国内で生まれた日本人の子供は成人した両年以内に国籍選択をして日本大使館に届出をしなければならなかった。メキシコは属地制を取っており、国内で生まれた子供は自動的にメキシコ国籍者となる。メキシコで生まれた以上、メキシコ人であるわけで、その場合はメキシコの国内法では多重国籍であることは問題ない。
メキシコの日系社会は、第二次大戦中にメキシコ市に強制集中させられており、それから代を重ねていても、メキシコ政府への複雑な感情がいまも強く根付いている。しかし、最近の青年世代はほとんど『メキシコ』への屈折した感情を卒業している。日本に関連しない以上、日本との国籍関係は遠くの懸案であるに過ぎない。大使館に婚姻や子息の誕生を報告しない日本人在住者は私を含めて多数派になっている。お互いに忘れ果てている日本の家族や友人に結婚や子息誕生を報告してもヒロヒト型の「あ・そう」でしかない。在住者同士でも永住者とそうでない連中との間では隔たりがあるので、私などはメキシコ人になりきって生活している。彼らは大げさなほどに『人生の節目』を祝ってくれる。ときどき人種差別を受けるが、『人種差別だ』と言えば良い。
私がメキシコ国籍を取った経過は『国籍と無国籍』という「ちきゅう座」への投稿に書いたとおりで、2007年に手続きし、それは当時の領事だった大野裕氏に伝えた。それ以前に日本人の何人かにお人よしにも窮状を説明したことがあるが、なかには日本は二重国籍を認めているのよと教えてくれる人もいた。その後、勲章を受章した田中道子コレヒオ・デ・メヒコ教授もその一人だが、当時の私は『いや、認めていないよ』と返答している。そうすると、みんな困ったような顔をするのだが、メキシコ国立自治大学の二飛び上級の上司から国外追放条項で脅迫されたときは、数日考えてすぐ国籍を取る手続きに入った。この条項は基本的には大統領権限なのだが、官憲側の悪用が常態化している。90年代始めに日系の食品配送をしていた『土佐屋』の亭主が早朝、パジャマのまま官憲に国外追放されたという話も聞いていた。本人を知っていたが、それ以後、会っていない。
国籍は20年の在住期間と推薦者のおかげで簡単に取れた。推薦者はFELIDA MEDINAという舞台装飾家、国立美術院から金メダルも受賞している佐野碩の弟子につながる人物で、現在でもしばしば彼女の生家で週末を送ったりしている(Wikipedia参照)。
そのあと、2012年の12月まで未必の故意の二重国籍者だったわけだ。他の二重国籍者たちとのスタンスの違いには気がついていなかった。その年の始めごろ大使館でメキシコ国籍者の求人をしていたのだが、それにも大野氏に伝えたことが頼りとなっていて簡単に応募した。その後、何の大使館の連絡もなく、12月の海外投票の際に二人の館員の前に連れ出されたわけである。この二重国籍者発覚の経緯だけは、私のお人よし以外にないのだが、在住国の国籍取得に至るプロセスは、元の国籍が違うにせよ、共有するケースが多い。
90年代の終わりごろ、差額ベッド代などの解消のための日本滞在から帰墨して、私立大学の国際公法を非常勤で受け持った頃、あるユダヤ家系の女学生にメキシコ憲法第33条の国外追放条項で執拗な脅迫を受けていた。そのときも国籍取得を考えたが、食うに食えない状況が続いていたので教職を離れて、現地採用サラリーマンをはじめた。日本に滞在した頃は、金を稼ぐことに集中し、金の支払いを迫る亡父との対応で、日本の政情などを知る余裕さえなかった。帰墨して初めて当時の日本について勉強し始めたといってよい。その頃から始まった「アソシェ21」の運動には大きな期待を抱いた。
現地採用サラリーマンとして、特に気に入った職種はISO国際標準の認証作業であった。これについては当時『アイシン精機』の現地プラントにいた山田雅哲氏に感謝したい(彼は現在メキシコでプラント設営および会計コンサルタントをしている)。会社そのものには保険料の未払いがあったりでひどい目にあっている。けれどもISOには非常に学んだ。そして、最も大きな収穫は『工場プラントを歩く作法』を教わったことであろう。これについてのレポートをいつか書いておきたいが、基本的には他と類似のレポートになるだろう。現地採用のサラリーマンを日本国籍のまま行なっているとほぼ完全な奴隷状態になることを痛感して、ここでも国籍取得を考えた。実際、本社社長の娘婿である現地法人社長にひどい扱いを食った時点で退社した(2006年)。
この間、日本の左翼運動の低迷が『アソシェ21』の事務局にいた漆原さんから伝わってきた。『連合』という単語も彼との会話から遠い響きとして伝わってきた。そのとき、初めて、第三世界にいることの人間的責務が体の何処からか伝わり始めた。大学に戻り、教授試験のプロセスで国外追放条項での脅迫を受けたことを私はむしろ、第三世界への洗礼ではないかと思うほどの危機感で受け止めた。
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2)国籍離脱思想
2012年の12月にサインを迫られた『国籍離脱届』についての知識は、その時点では皆無であった。現在では、国内にいる日本人民に『国籍離脱届』を出すように薦めている。沖縄などでは5人単位で『国籍離脱届』の法務省への提出運動を開始するべきだとさえ思っている。国内でどのような目にあうかはやってみないとわからないが、沖縄ならば、独立の第一歩であろう。
昨年2018年の5月ごろに『国籍離脱届』にサインしに行ったとき、係員の女性から『国籍離脱届は間違いでした』と言われたときには、即座に日本に原爆を10個くらい落としてやりたい気持になって金正恩に電話をかけようと思ったが携帯電話は大使館入口で取り上げられていた。この間、2012年から2018年まで、そして今日まで『日本人として』考えてきたことがある。それは個人的な『脱出の歴史』でもあり、生きるための『生への意志』の整理でもある。学術的にだれかれの名前を権威を張って乱用もしたくない。誰かを担ぐのは神も許すまい。しかし、私は人類の終盤に当たってなぜ日本語を使っているのかも考えざるを得なかった。
日本のばかばかしすぎる『出世主義への否定』は、既に鶴見俊輔が高畠通敏を批判した『口惜しい知性』という講演で表明されているが、鶴見はその背後にある高度成長プロセスの日本という国家の驕慢化には禁欲している。高畠が立教大学に在職中の最後に専任講師や助手に採用した連中(北岡伸一、吉岡知哉、御厨貴、五百旗頭親子、五十嵐暁郎など)は、彼自身が危惧を表明していた『新保守主義』の先頭に立っていた。それは高畠通敏が久野収や鶴見俊輔の前で見せていた単なるスタンスの違いだけではなかった。私は彼と彼の別宅で一年一緒に暮らしたこともあるが、日本に滞在したある日、どこまでがあなたの判断なのかと聞くと非常に狼狽していた。94年に帰国した際、彼との関係は崩壊した。
『出世主義の否定』という意味での過去の『大学解体論』も日本近世の学問形態や塾などの形で復元できるのではないかと考え始めたし、集団や単身でのかかわりも日本のシステムとは独立に考え発想されなければなるまいと考えた。学問の立場からは当たり前の話だが。他方では、左翼の先輩たちの子育てなどを見ても、日本のシステムの中での発想に落ち着くことが多いのも私たちの見てきたことだ。国籍は離脱しないと始まらないのだ。
と、考えていたのを『間違いでした』と大使館の窓口で否定されたわけだ。清水一良現領事の説明によると、自分での意志や他国の国籍を取る前、あるいは大使館が国籍取得を知る前になら『国籍離脱』は成り立つが、大使館が多国籍の取得を確認した後では『国籍喪失届』になるらしい。『国籍離脱届』にも『国籍喪失届』にも『取得した国籍』欄がある。しかし、憲法を読む限り日本領土にとどまっていても『離脱』の行使は可能ではないか。
結果としては似たようなものだが、憲法第22条における権利としての『国籍離脱』と、『国籍喪失』とでは国籍処理上のどのような相違があるのかよくわからない。私は現在、現状を重視して、意識としての『離脱』を大使館に学ばせていただいたという認識を持っている。『日本人』としての私の自意識は、現在、自分への教育文化過程として残っている。しかし、それは現在の日本とは全く違うものである。現在までのような破綻は、私にとって、あの1964年のオリンピックで、円谷選手が泣きべそをかきながらスタジアムに入ってきたときから始まるのかもしれない。
『国籍離脱届』が事務的に無理ならば、民間武装論者でありながら非暴力主義の私は『国籍喪失届』にサインするだろう。しかし、私に『国籍離脱思想』を植え付け、育て始めたのは大使館側の脅迫である。今後は、この思想をもっと展開してゆきたい。本稿では、前に書いた『駐メキシコ大使館の脅迫に学ぶ』の背景と今後の展開に配慮した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8965:190902〕
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