ヘーゲル法哲学要綱(1821年)を読む (ヘーゲル研究会レジュメ)
- 2019年 9月 18日
- スタディルーム
- 野上俊明
はじめに
私の問題意識と探求点:ヘーゲルの「理性による支配」とウェーバーの「合理化」の対比。ヘーゲルの理性に寄せる全幅の信頼に対し、ウェーバーの合理化概念は、ニーチェのニヒリズムをくぐり抜けているだけに、西欧文明の不可避的な趨勢と行き詰まりを明確に意識していたものであった。今日ネオリベラリズムの支配する混とんとした世界は、戦間期の再来を思わせる危機の時代の様相を呈しつつある。その危機からの脱出と、人間的な世界再生のためにヘーゲルの理性概念がなお有効であるのかどうか、その有効射程をあらためて検証しなければならない。ちなみにマルクーゼの「理性と革命」は、理性破壊のファシズムの全盛時代にあってヘーゲル的理性概念の重要さを立証しようとしたものであったが、今日再び同じような作業が必要とされているのではないか。
まず法哲学要綱をよりよく理解するために、ヘーゲル哲学が定位している近代の問題圏全体をあらまし視野に入れておきたい。
近代とは、宗教改革で始められた事業、つまり個人が主体的人間として内面的に自立し、各人がおのれの生の主人公となる自由の精神を確立すること、これを啓蒙主義が継承してそれを合理的理性や人権という理念―自然法(権)思想―に練磨し、それらに準拠して封建制を打倒し、近代市民社会をつくり上げようとした、西ヨーロッパに特徴的な一連の歴史的流れである。ヘーゲルは自己の哲学をー啓蒙の分析的理性を厳しく批判しつつも―この事業の完成態と位置付けると同時に、近代社会が必然的にはらむ個人原理(e.g.自己利益の追求)と共同体的原理(e.g.公共の福祉)という二つの原理のアンチノミーを、より高次の共同体である国家において宥和し最終解決するものと自負した――法哲学はじつは国家論であるというヘーゲルの理論的構想。
※ドイツ語のRechtレヒトは、法(law)と権利・正義(right)といった意味を持つ多義性のある語彙。
マルクーゼは「理性と革命」(1939年)の「緒論」において、ドイツ観念論の哲学的背景とProblematik(いかなる問題性をめぐって思想が展開しているのか)に言及している――「世界の名著」の岩崎武雄解説も参照。
イギリス経験論と大陸合理論の対立点=普遍的な合理的秩序は、個人の自律にもとづいて築かれうるのか。
個別原理と普遍的原理の、主観と客観の分裂と対立を統一する高次の普遍性が成り立ちうるか――ヘーゲルの回答「理性こそが、主観と客観とのすべての対立が統合されて真の統一性と普遍性とを形成するに充分なものとなる現実の真の形式である」(同上、p.26)~すべての存在を理性の形式とみなす「汎論理主義」――イギリス経験論や論理実証主義の系譜の学者(ポパー、ハイエクら)は、これをファシズムの全体主義の思想的起源だとして厳しく批判する。かれらによれば、そもそも歴史に法則性や必然性があるとし、目的論的に構成した歴史観に基づいて歴史的予測を行なうというのは暴挙に等しい。経験論者からみれば、ヘーゲルの理性史観はキリスト教の終末論―世界の終わり、キリストの再臨と至福千年、最後の審判等―を世俗化して焼き直したものにすぎず、その意味では19世紀的な産物に過ぎない。神の位置に理性を置き、神の摂理を歴史の必然性と言い換え、神意に基づく救済目的を理性による自由の実現としているだけである。神話的で前科学的なヘーゲル=マルクスの誤れる歴史観(ポパーは「歴史主義」と名付ける)は、それに魅せられて革命に青春を捧げ、人生を台無しにされた若者たちに責任を負うべきだとする。
※ここでは端緒的な問題提起に留めおくが、理性を中心とする一群の諸概念が、つまりヘーゲルのいう「概念的把握」が今日的意味で認識論的な検証に耐えうるのか否か、検証や反証不能な独断論的な問題設定だとする批判に耐えうるのか否か、マルクスも含めた再検討が必要であろう。それはヘーゲルのいう事柄に即した概念の内在的展開がどこまで本当に貫徹されているのかを検証することでもある。
へーゲル哲学の中心概念である理性。ヘーゲル哲学は理性の観念に由来する自由、主体、精神、概念といった諸概念からなる一つの構造をなし、しかもそれはたんなる主観の内なる出来事ではなくて、自由で合理的な精神の要求にしたがって、現実をつくり変える努力の総体を意味している。ヘーゲルは理性を構成する客観的合理的な諸原理が存在し、それらが人間に共通の生活組織の指導原理となりうると考えた、とマルクーゼはしている。
♦ヘーゲル自身による理性概念のわかりやすい解説―歴史哲学講義(上)岩波文庫 p.36「B 歴史における理性とは何か」参照
♦西欧思想における近代的「理性」の起源――例えば、デカルトの方法序説Discours de la méthodeから 「良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に分配されている。 なぜというに、だれにしてもこれを十分にそなえているつもりであるし、ひどく気むずかしく、他のいかなる事にも満足せぬ人々さえ、すでに持っている以上にはこれを持とうと思わないのが一般である。このことで人々がみなまちがっているというのは本当らしくない。このことはかえって適切にも、良識あるいは理性(raison)とよばれ、真実と虚偽とを見分けて正しく判断する力が、人々すべて生まれながら平等であることを証明する」
<近代とは何か>
♦ヘーゲル 歴史哲学講義(上) 第1篇 中国
家父長的原理(家族精神)の支配する国―「中国には主体性という要素がいまだ存在せず、個人の意思を食い尽くす共同体権力に対抗して、個人が自分の意思を自覚することもなければ、自分の自由意思に基づいて、共同体権力の正当性を認めることもない」。「市民は家族道徳の外に出ることができず、いまだ自立した市民的自由を得られない」(岩波文庫 p.201)。「中国人には高潔な主体性というものがなく、子供と同じように、殴打を罰としてよりも、しつけとしてうけいれます。罰はもともと責任の観念をふくみますが、しつけはもっぱら矯正をねらいとします。体罰を避けようとするのは、殴られるのが怖いからで、ここにはまだ行動の性質に関する反省がなく、したがって不正が内面的に自覚されることもない」(同上 p.213)―――→ベネディクト「菊と刀」=「恥の文化と罪の文化」--ヘーゲル的に見れば、文化的類型の差異ではなく、文化の発展段階のちがい 「世界史は、自由の意識を内容とする原理の段階論的発展として示される」(同上、p.101)
中国の宗教は、本質的に国家宗教――本来の信仰は精神の内面性にかかわるもので、個人が外部からおしよせる権力をふりきって内面的に自立したとき、はじめて近代宗教として可能になる。
※2017年5/1のJapan Times「なぜ日本の10代は不機嫌なのか?」は、きわめて示唆に富む論考。
――OECD経済協力開発機構報告では日本の若者の幸福度の低さが際立つ。OECDの35か国中、日本より下は韓国、トルコのみ。日本の十代の若者は不安指数が平均より高く、学業向上意欲が平均より低い。2014年の数字では日本の10歳から19歳の主な死因が自殺とされている。いかにして早急に若者の幸福度を改善できるかが問われる。この報告の重要な発見の1つは、両親が子供と毎日話す時間やテーブルで子供と一緒に主食を食べる時間ありとした学生は、22%から39%の間で高いレベルの生活満足度しめす可能性が高いこと、学校でも何かあった場合、教師からの保護受ける可能性高いことである。中国、インド、ナイジェリア、インドネシアの4か国の若者は、人生の幸福、精神的幸福、情緒的幸福という3つすべての領域の満足度が最上位をしめした。その要因として、まず、中国、インドネシア、インドには 最も強い家族関係がある。この家族関係が、幸福度を高めている可能性が強い。
また幸福度の上位国が新興国である傾向があることも明らか。経済的拡大の可能性が認識されていることが、幸福にプラスの影響を与えている可能性がある。他方、日本のような先進国では、経済が「ピーク」に達し、前進する余地がほとんどないという、ぼんやりとした意識がある。その一方で日本の十代の若者たちは、「一生懸命仕事をする/なんとかして出世する」ことが最も重要な価値であるとする出世主義者でありつつも、韓国と同様経済の縮小傾向のために出世の機会に恵まれず挫折感覚を体験することが、低い幸福度につながっている。
日本の十代の若者は、20か国すべての中で、より広い社会への貢献が重要であると考える可能性が最も低かった。(これは日本の若者の幸福の尺度が極端に狭いことを表す)以上の要因があいまって成功または意味のある人生を送る可能性について悲観的な精神状態を作り出している。
※ 中高年層に自尊心を取り戻せと訴え成功した山本太郎現象、今度は若者に対してこのようなメッセ―ジの発信が喫緊の課題。欧米では10代の若者の環境運動の盛り上がりが、大人たちをも揺さぶり始めている。
♦歴史哲学講義(下)第3篇 近代 第1章 宗教改革
宗教改革の意義―人は信仰により義とされるというパウロの教えの復活。イエス・キリストは目に見える形で現前するのではなく、信仰や精神のうちで内面的に存在する。人はGeist、spirit精霊(精神)においてキリストと直接つながっている(岩波文庫、p.314)。主体的な精神が教会の教えという客観的な内容をわがものにすることによって、真の主体、真の自己に到達し、そこで権威から解放され精神的自由を獲得する(同上、p.314~p315)。歴史的事例―幼児洗礼から再洗礼派へ=バプテスマという典礼に新たな主体的意味付与する。
この自由な精神=思考によって、人権、財産、共同精神、政府、国家体制に普遍的な形式を与えること~啓蒙思想とフランス革命=個人の自由に基づく国家・社会の構造改革をおこなうこと。
理性=現在の意識のもとでとらえられる自然法則、正義、善などの一般観念。啓蒙思想=理性の法則にこそ真理がある。(同上、p.351)。
法権利の哲学へ――「意思の自由は、それ自体が原理であり、すべての権利の実体的な基礎であり、永遠普遍の絶対かつ最高の権利です」(同上、p.353)。~近代国家の自由主義原理へ、つまり夜警的国家観にそって「国家は消滅しなければならない」(1796年論文、マルクーゼによる)とすら述べる。
<国家の発見>
しかしフランス革命とナポレオン戦争後にヨーロッパ大陸に現れた独立民族国家という新しい歴史段階における理性原理の具体化を構想する。しかもイギリスの商業社会に現れたように、近代市民社会内の(階級的)敵対関係を直視し、近代的合理的な原理に従って国家の手によって解決しようとする~自然法的自由主義(コスモポリタニズム)の抽象性を克服※(同上、マルクーゼ)、あるいは個の原理と共同体原理との宥和ないし統一形態として国家を構想する。ただし国家の形態は共和制ではなく君主制が望ましいと考える。~「人格の他の人格との共同は…個体の真実の自由を制限するものではなく、かえってそれを拡大するとみなされなくてはならない。最高の共同は最高の自由である」(「フィヒテの哲学体系とシェリングのそれとの差異」から、金子著 P.10)
※アウンサン・スーチーの悲劇――国連的コスモポリタニズム的人権主義の限界。国情に適合した形で民主主義や人権の実現を図るべきところ、理念と現実をつなぐ媒介項たる政治綱領にもとづく政策体系の意義をあらゆる党派がまったく理解できないため――半世紀に及ぶ軍部独裁のために政党政治の経験を国民がもたないからであったが――、抽象的なままの理念を無力なものとみなして捨て去り、既成体制に全面屈服する道をたどることになった――ロヒンギャ問題は、NLDにとって民主主義をかなぐりすてる死の跳躍salto mortaleであった。もうひとつの悲劇の要因は、(非封建的という意味での)「アジア的な生産様式」にもとづく王朝支配、植民地支配、軍部独裁支配の連続によって完膚なきまでに叩きのめされた受動的な民衆意識に幻惑されて、どこにも潜勢的な変革主体を見いだせず、ボスの家父長的支配に淵源する人治主義の罠に落ちて、軍部・クローニーの既成勢力と癒着。国内改革をサボタージュして外資導入を最優先し、GDP拡大に狂奔するというアセアン共通の開発主義路線を選択(「民主的な」土地改革を経験した日本、韓国、台湾、中国と、その他のアセアン諸国との差異)。イギリス社会で長く生活したスーチー氏においては、植民地支配によるトラウマとしての「イスラム嫌悪」(Islamophobia)とその裏返しとしての仏教至上主義の歴史的生成メカニズムについては、当然客観的に眺められ理解できる立場にあった。ところが政権獲得後はそれらと闘う権限も権威もあったにもかかわらず排外主義の跳梁を放置し、排外主義の一線で軍部と仏教過激派が連携してロヒンギャ迫害に乗り出すことに一役買ったのである。英雄崇拝の大衆感情に依拠するスーチー氏のリーダーシップなるものの限界が、そこで無残なまでに露呈したのである。
<序文の摘要と解釈>
♦本要綱は、法哲学講義の聴講者に手引きとして持たせるべく書かれたものー本文、注解、追加からなる 注解はヘーゲル自身の覚書、追加は聴講者の筆記ノートからとられたもの p.153
♦ヘーゲル法哲学の特色―思弁的な認識の仕方spekulative Erkenntnisweise、法現象を取り扱っているので目立たないが、叙述の展開にはその論理学的精神が貫かれている。←→悟性的認識方法 P.154
♦概念的な把握―学は概念というかたちで事柄の本質を捉えること~具体的普遍という論理形式をとる
♦「自由な思惟は、与えられたもののところに立ちどまりはしない」―→反実証法学 p.156
♦自然認識と社会認識との差異、後者に必要な方法的態度
前者は自然における理性を、自然の内在的な法則を、概念において捉えること p.158
後者=倫理的世界たる国家、そこで己を実現し自己認識する理性の本来の境域Elemente
当時の流行思潮への批判―法に対する主観的解釈や極端な心情倫理(ドイッチェ・ブルシェンシャフト)、ヤコービの直観主義=真なるものは認識されえない、国家や憲法、政府といった倫理的なものの対象は、おのれの心情や霊感からおのずと生じてくるもの p.161
これに対して、ヘーゲルは現実に内在する理性的な法則を学問的手順を踏んで概念把握すべきとする。
Vgl.ウェーバー「職業としての政治」-心情倫理と責任倫理:魂の純粋さや社会に対する義憤を動機とする心情倫理は、政治には不向き。政治には権力手段を行使するにあたって冷静な判断力と結果責任を自らに引き受ける勇気を持つ者だけが天職とできる。~第一次大戦直後の政治的ラジカリズムへの批判
<追加>自然の法則Gesetzと法の法則Gesetz
自然の法則=我々に対する外的実在であり、法則の尺度は我々の外にある
法の法則=人間に由来する、人間は現に存在するところのものにとどまらないで、何が正しいのかの尺度を己のうちに持っている。在るものと在るべきものとの抗争がありうる P.160
♦ヘーゲルの学問観―直覚知や思い付きによってではなく、思想と概念の展開によって豊かな分節と編成Gliederungのうえに成立する。~「資本論」をみよ! P.162
♦フリースらの浅薄さ―主観的なものへ立てこもり、ことがらの理性たる法則に対して敵意を抱く
次の一文は、日本浪漫派に対してそっくり捧げたい 「もっとも精神のないところで精神を論じ,生気のないところで生命を生かすといい、からっぽな高慢の最大の我欲を示すときは、最も多くVolk(民族、国民)という言葉を口にのぼせる」 p.164
♦浅薄さはソフィスト的諸原理に導かれるー「正が何であるかは、主観的な目的や意見、主観的な感情や自分一個の特殊な確信に基づくとする原理である。そしてその結果は内的な倫理と誠実な良心の破壊、私的な人同士のあいだの愛と正の破壊ともなり、公的な秩序と国法の破壊ともなるような原理である」p.166
※ペリクレスの時代、ソフィストの代表者プロタゴラス(BC481?~411)「人間は万物の尺度である」
♦神学と哲学――神を人格的な超越神として捉えるのは神学的見地。ヘーゲルは汎神論的な哲学的見地に立って、自然や精神(世界そのもの)を神=絶対的理念が自らを展開したものとみる。「哲学は、理性的なものの根本を究めることであり、それだからこそ、現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものを打ち立てることではない」 p.163
♦プラトンのイデアからキリスト教の原理へ――「自由な無限の人格性」の予感
♦理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である p.169
<現実と理性との相互媒介による新しい世界の出現>
現実的、現実性(Wirklichkeit)≠positive-既成の現実への拝跪を意味するものではなく、理性の基準に適ったあり方をすること
理性的=現実のなかに貫かれる(べき)合理的、合法則的、必然的なあり方
すなわち理性の現実化=現実の理性化という相互媒介関係を言い表している=近代市民革命は、一面で啓蒙的な理性概念にもとづく社会の上からの全面改造である(理性の現実化)とともに、他面ですでに旧い封建的な桎梏を突破して市民社会内に熟成し顕在化しつつある理性的なものこそが、現代の新しい支配的原理となる(現実の理性化)、という相互媒介的な関係を表現している。そしてその結果現れる現実的なものと理性的なものの統一こそ、国家だというのである。そのなかでは個人原理と共同体原理は統一され、個人は自由にしてかつ法と道徳にかなった生き方が可能となるとする。
マルクーゼは概念Begriffという重要なヘーゲル用語についても、上記の私の説明と同様の説明を行なっている。すなわち、概念は問題となる事柄の本質、事柄の真の思想を表すと同時に、概念はその本質の実現を表すとする(同上、p.27)。
♦哲学の課題=存在するところものを、概念的に把握すること。というのも存在するところのものは理性だからである。
個人にかんしていえば、だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまたその時代を思想のうちにとらえたものである P.171
―→理論というものの時代的限界、いかなる理論も時代的制約をまぬがれない。マルクスは「経済学批判要綱・序説」のなかの「経済学の方法」で、理論的カテゴリ―とその時代的条件にについて述べている。例えば、労働一般という抽象は、抽象としてはいつの時代にも当てはまるものの、学問的抽象として成立するには最も豊かな具体的な発展を条件(資本主義社会)とするとしている。つまり多種多様な労働種類があり、かつある労働部門から他の部門への移動が頻繁に行われるという意味で、労働の種類・様態への無関心が常態である発達した社会的条件のもとで初めて、労働一般というカテゴリーが経済学のキーワードとなるとしている。
♦実体から主体へー「実体的なもののなかにいながら、しかも主体的な自由を保持」すること=形式と内容の一体性(形式とは概念において把握する認識としての理性、内容=倫理的ならびに自然的な現実の実体的な本質~マルクス―生産力と生産関係)
♦プロテスタンティズムの原理―思想によって正当とされていないものは、どんなものでも心ぐみのなかで認めまいとする=偉大な我意(頑固さ)Eigensinn
――→スミスを「国民経済学のルター」と呼んだエンゲルス『国民経済学批判大綱』(1844年)
信仰を教会制度への精神的依存から内面的なものへ転換させたルターの事業とパラレル=富の本質を金銀財宝や農業労働にではなく、労働一般にあるとしたスミス――主体性の原理への転換=「真なるものは、実体としてではなく、同時に主体としてある」。ちなみに初期マルクスは、この主体性の原理の疎外態(=抽象的人間労働のたんなる受動的担い手)を国民経済学に見た。
♦ミネルバの梟としての哲学
現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとで始めて、哲学は時間のなかに現われる。――例としては、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらは、ペロポネソス戦争(BC431~404)以後の古代ギリシアの衰退期に活躍した。マルクスは経済学の生誕を、トータルとして自己のいる社会の省察が可能となるまでに円熟した「ブルジョア社会の自己批判」期に求めている。 P.174
参考文献 世界の名著 35「ヘーゲル」(中央公論社 昭和42年)
長谷川宏訳「ヘーゲル法哲学講義」(作品社 2000年)
マルクーゼ「理性と革命」(岩波書店 1961年、 原著1941年)
金子武蔵「ヘーゲルの国家観」(岩波書店 1944年)和辻哲郎ライン
ロバート・R.ウイリアムズ「リベラリズムとコミュニタリアニズムを超えて-ヘーゲル法哲学の研究-」(文理閣2006年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1060:190918〕
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