明治維新の近代・13 シナの消去としての日本近代その一 ー津田左右吉『シナ思想と日本』の再読
- 2019年 9月 20日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「今日の日本があらゆる点でいわゆる西洋に源を発した現代の世界文化、その特色からいうと科学文化と称すべきもの、を領略し、民族生活の全体がそれによって営まれていることは、いうまでもない。昔の日本人が書物の上の知識やいくらかの工芸によってシナの文物を学んだのみであって、日本人の生活がシナ化しなかったのとは違い、今日では生活そのものが、その地盤である経済組織社会機構と共に、一般に現代化せられたのである。」
1 津田が残した二つの問題
もっぱら「神代史」批判によってのみ知る津田左右吉の大著『文学に現れたる我が国民思想の研究』をあらためて読んでみようと思うに至ったのは三年前のことであった。だが津田の戦前刊行本で4巻をなす『我が国民思想の研究』[2]は読もうと思ったからといって直ちに読める代物ではない。余程熱心な津田のフォロワーででもなければ、その一巻をさえ読み通すことはできないだろう。私自身もこれまで何度かこの書を手にして読むことを試みた。だがその都度挫折してきた。今回あらためてこれを読むにあたって私は各巻ごとに問題を設定しながら、津田とともにそれを考えることにした。それは「日本民族」という問題であり、『古事記』神話や『万葉集』『源氏物語』文学の国民性にかかわる問題などである。これらの問題を毎月の思想史講座の課題とすることによってどうにか津田の大著を読み続けることができた。これを苦労して読むことによって明暗二つの問題が私に与えられた。一つは「明治維新」という日本の近代化的変革の問題であり、もう一つは日本の歴史的展開過程、ことに言語的・文化的展開過程に終始存在してきた「中国(津田は支那・シナという)」という問題である。
津田の「明治維新」をめぐる問題についてはすでに私は本講座の初めに語ってきた。それは「王政復古」的維新から始まる既存の日本近代の読み直しを私に意欲せしめるような維新観の提示であった。私はこの津田の維新観を歴史の新たな読み直し的展望を開くものとして「明暗二つ」の「明」の問題提示として受け取った。では津田における「暗」の問題提示とは何か。それは日本の歴史的展開過程、ことに言語的・文化的展開過程に終始重く存在してきた「中国(支那・シナ)」にほとんど全否定的に対する津田における「シナ」という問題提示である。
2 否定的「シナ」という問題
津田の否定的な「シナ」という問題提示をめぐってはすでに私は『我が国民思想の研究』を読みながら幾度となく語ってきた。この津田による「シナ」という問題提示がいかになされるかを、すでになされた私の論説[3]から引くことで無用な労を省きたい。
津田は近世儒家をめぐって批判的な、否定的な言辞を書き連ねていく。「儒者の仕事が我が国にとっては、空疎な異国人の思想を取り次ぐだけのことであると共に、文字の解釈もしくは故事を知ることを主とするようになるのは、当然である」といった津田の近世儒家批判の言辞を読むと、やがてくる近代日本における文化の根本的転換を期待し、自発的文化と自立的知識の国民的成立を期待することの裏返しの表現ではないかと思われてくる。私は津田による近世日本の儒家的学問と知識に対する全否定は、新時代における〈文革〉的な転換への期待と相関的だといった。たしかに津田は自立的知識の国民的形成を熱烈に願っているのである。
だが津田が自立的知識の国民的形成をここで、すなわち近世の儒家的知識を語りながら、この近世という時代の脈絡の中で願ったりするのは変な話ではないか。もちろん津田自身が〈自立的知の国民的形成〉を切実に願うこと自体は少しも変でも、妙でもない。だが明治国民国家の成立前の近世社会の知識・知識人を記述しながら、〈自立的知の国民的形成〉の要求をもちながら、〈非自立的な儒家知識人〉による儒家的知識の否定性をひたすらに書き連ねることが変だというのである。津田は〈自立的知の国民的形成〉を切実に願いながら、〈自立的国民的知識〉の不在を近代に先立つそれぞれの時代の知識の展開史のなかに克明に跡づけていったのだろうか。そうだとすれば津田のこの大部な『我が国民思想の研究』とは、〈自立的知をもつ国民〉の不在を歴史的に明かす〈不在証明書〉の厖大な積み重ねということになってしまうだろう。
だが一気に結論づけることはやめて、津田によるシナとの徹底的な差異化からなる日本の〈自立的知の国民的形成〉というナショナリズムが、中国大陸における戦争に踏み込んでいく昭和日本の現代史のなかで帯びていくものは何かをしかと見る必要がある。
ここで津田左右吉の名を一気に昭和十年代の時代のものにしていった『支那思想と日本』(岩波新書)が顧みられねばならない。津田の『支那思想と日本』は創刊された岩波新書の一冊として、昭和13年(1938)11月に出版された。現代的知識を解説し、その普及を目的にした岩波新書は20点同時に創刊された。同時に刊行された20冊の中には斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下巻もある。初版はいずれも一万部以上印刷されたが、発売後たちまち売り切れたという。津田左右吉の名が昭和日本の読書界に一般化していったのは、この新書によってだろう。
この新書『支那思想と日本』の第一部「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」は昭和8年に岩波講座「哲学」に津田が書いた「日本に於ける支那思想移植史」であり、第二部の「東洋文化とは何か」は昭和11年に岩波講座「東洋講座」のために書いた「文化史上に於ける東洋の特殊性」であるという。満州事変(昭和6年)がやがて大陸における帝国主義的国家日本の戦争(支那事変)として展開されていった時期に書かれた日本と中国文化との関係をめぐる論文が、「支那思想と日本」のタイトルのもとに編集され、岩波新書の一冊として出版されたのである。「この二篇は、いずれも今度の事変によって日本と支那との文化上の交渉が現実の問題として新によび起されて来た今日、再びそれを世に出すのは、必ずしも意味のないことではあるまいと思う」と津田はその新書の「まえがき」でいっている。では津田がこの二篇をもっていおうとしたことは何であるのか。
「この二篇に共通な考は、日本の文化は日本の民族生活の独自なる歴史的展開によって独自に形づくられて来たものであり、随って支那の文化とは全くちがったものであるということ、日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもっている別々の世界であって、文化的にはこの二つを含むものとしての一つの東洋という世界はなりたっていず、一つの東洋文化というものは無いということ、(中略)日本の過去の知識人の知識としては支那思想が重んぜられたけれども、それは日本人の実生活とははるかにかけはなれたものであり、直接には実生活の上にははたらいていないということ、である。」[4]
津田はここで日本と支那とは別々のものであることを縷々のべている。その上で一つの東洋とか東洋文化といったものはないと津田はいうのである。ところで「日本と支那と、日本人の生活と支那人のそれとは、すべてにおいて全くちがっている」というのはもともと津田がもっていた考えであり、「二十年ものむかしに書いた『文学に現われた我が国民思想の研究』にも、一とおりそのことが述べてある」といっている。ここで津田は、彼の『我が国民思想の研究』を読んできたわれわれにとってきわめて重要なことをいっている。
日本と中国との徹底した差異化、日本とその言語、文化、生活、そして国民の独自性の主張が、アジアあるいは大東亜の理念をかかげてなされている中国における日本の戦争のただ中でなされているのである。しかも津田による日本と中国との徹底した差異化の主張は、『我が国民思想の研究』のモチーフであったことをも教えてくれているのである。アジアや東洋の理念に反対しても、津田は今中国大陸で展開されているこの理念を掲げた日本の戦争に反対しているわけではない。だがなぜ津田はその前年末に〈南京事件〉を生じさせた昭和13年というときに「日本と支那とは別々である」ことをいうのだろうか。さらに「日本と支那とはすべてにおいて全くちがっている」ことを歴史的に、体系的に立証するような長大な著作『我が国民思想の研究』をなぜ津田は書いたりしたのだろうか。
津田が『支那思想と日本』でしている日中の差異化とは、〈支那的なものの〉の否定的な差異化である。〈固有的な日本〉あるいは〈独自的な日本〉のために、〈支那的なもの〉を排除し、抹消するための差異化である。ところで津田において〈支那〉は差異化を通じて否定されるのではなく、〈支那〉はまったく否定的なものとして前もって差異化されているのである。
「一体に支那の思想家は、啻に反省と内観とを好まないのみならず、客観的に事物を正しく視ようとつとめることが無い。なお彼等の思惟のしかたを見ると、それは多く連想によって種々の観念を結合することから形成せられ、その言説は比喩を用い古語や故事を引用するのが常であって、それに齟齬と矛盾とがあるのも、相互に無関係な、或は相反する思想が恣に結び合わされているのも、之がためであるが、今人の眼から見てそういう論理的欠陥のあることは、支那の学者には殆ど感知せられていない。」(「支那思想の概観」)
このすでに否定的な支那の言語・文章・思想の受容からなる日本知識人の言語も文章も思想も、それが輸入された、実生活から遊離した借り物であるかぎり、いっそう否定的なものであらざるをえない。ここから近世日本の儒家知識人に対するほとんど全否定的な批評がなされることになるのである。
「支那の書物によってのみ知識を得るものは支那人の考えかたによって考える外は無かったのである。幼時からいわゆる素読によって支那の書を読み習い、長じて後は支那文を書くことをつとめた江戸時代の儒者は、此の点からも支那風の考えかたに慣れ、それより外に出ることができなかったのである。」[5](「支那思想のうけ入れかた」)
こう見てくると日本における知識的形成、思想的営為についてする津田の「支那思想の否定的差異化」という批判的な思想史的作業とはいったい何であるのかが問われてくる。私は前に日本近世儒家の知識・思想についての全否定的な津田の批判によりながら、この批判が導くのは明治維新による〈文革〉的な変革の期待しかないではないかといった。だがその変革への期待は明治国家の形成に恐らくは裏切られ、先へと延ばされてきた。明治の終焉とともに津田は『我が国民思想の研究』という既成の国家の歴史と等身大の批判的「国民思想」史を対置していくのである。津田は「支那的なもの」の徹底的な否定的差異化をもって自立的日本の国民的可能性を思想史的に確証しようとしたのであろうか。だがすでにいうように『我が国民思想の研究』とは〈自立的国民〉の不在証明書の集積となってしまっている。
「それ(『我が国民思想の研究』)から二十年」と津田は昭和10年という現在をいっている。その時、日本は中国大陸における〈否定的支那〉との戦いの最中にいる。近代国家日本は〈否定的支那〉との差異化を戦争行為として実現しているのである。津田は『支那思想と日本』でこういうのである。
「日本は今、支那に対して行っている大なる活動に向ってあらゆる力を集中している。この活動は、すべての方面に於いて、十分にまた徹底的に行われねばならぬ。そうしてそれが行い得られるのは、上に述べたようにして歴史的に発達して来た日本人に独自な精神と、世界性を有っている現代文化、その根本となっている現代科学、及びそれによって新に養われた精神のはたらきとが、一つに融けあったところから生ずる強い力の故である。」(「まえがき」)
『我が国民思想の研究』を通して〈自立的日本国民〉の成立にかけてきた津田の願いは、いま〈否定的支那〉との全力的な戦いの遂行の中で遂げられるかのようである。ナショナリズムとは畢竟国家の夢の、つねに欺かれる夢の担い手であるということか。読みたくはないけれども上の文章を引き継ぐ津田の言葉を引いておこう。
「ところが、この日本の状態と全く反対であるのが今日の支那の現実の姿である。今度の事変こそは、これまでの日本と支那との文化、日本人と支那人との生活が、全く違ったものであり、この二つの民族が全く違った世界の住民であったこと、それと共にまた、日本人に独自な精神と現代文化現代科学及びその精神とが決して相もとるものではないことを、最もよく示すものといわねばならぬ。」
この引用の前に記した言葉を、もう一度この引用の後にも記しておこう。「ナショナリズムとは畢竟国家の夢の、つねに欺かれる夢の担い手であるということか。」
3 「シナ」の消去と日本の現代化
太平洋戦争の敗戦によって中国大陸における戦争もまた終結する。大陸における戦争の終結を日本は敗戦による終結とはみなしていない。これが敗戦後70年を経過する今日でも歴史問題を生じさせる理由をなすものである。津田もまた太平洋戦争の敗戦を彼の『支那思想と日本』の言説の敗北とは全く考えない。彼は戦後1947年に「支那」を「シナ」にし、「前書き」の一部を改めただけで本文はそのままに『シナ思想と日本』を再版するのである。その再版本の「まえがき」は次のような言葉をもって閉じられている。
「原版の「まえがき」では、なお、ニホン人は、ニホンのことばをよくするために、できるだけ早く、シナ文字をつかうことをやめてゆくようにしなくてはならぬこと、いわゆる漢文と結びついている過去のシナふうの学問のしかたや事物の考えかたは、現代文化の基礎である現代の学問の精神および方法と一致しないものであるから、漢文は普通教育の教科から除かねばならぬこと、またニホン人は、学問の立ち場からいっても、シナの文化に対する学問的研究と批判とをつとめねばならぬこと、などを述べておいたが、これらは今日かえって強く主張すべきことであろうと思われるから、ここにこのことを書きそえておく。」
この「まえがき」には「一九四七年一二月」の日付と「りくちゆうひらいづみにおいて つだ さうきち」の署名が附されている。この改訂された文章を見ると、津田における日中の文化的差異化、言語からのシナ風排除の志向は戦後において一層強まっているようである。これからすれば日中戦時下昭和13年(1938)の『支那思想と日本』が敗戦後昭和22年(1947)に「支那」を「シナ」に代えただけで再版されたことに何の不思議もないということになるだろう。津田からすれば『支那思想と日本』とは戦後日本の現代化を先取りする論述であったということになるだろう。日本の世界的現代化は日本人の独自な精神によって伝統における「支那」の徹底的消去とともになされるものであることを如実に示すのが今回の「事変」だと津田は書き改めた初版の「まえがき」でいっていたのである。
かくて津田の『支那(シナ)思想と日本』は日本の近代化(津田は現代化という)が伝統における「シナ」の消去とともに実現するものであることを憚りなく表明した20世紀日本の書となるのである。日本の近代化の進行が伝統における「シナ」の否定と相関的であることは近代化過程におけるだれもが知ることでありながら、日本の現代化が日本人の思考の深部にいたるまでの「シナ」の消去によって達せられるものであることを憚りなく公然というものは津田の外にはいなかったであろう。津田の「シナ」の全的消去をいう言説は日本近代史においてある稀少性をもったものである。なぜか。われわれはもう一度「王政復古」とともになされた明治維新にたち返って考えねばならない。明治の新政府とともに新たな天皇制はただ京都御所から天皇を江戸城に移して成るわけではない。徂徠の制作論を受容した後期水戸学で練り上げられた「国体」論なくして新たな天皇制はないのである。私はすでにした「明治維新の近代」講義の中で十分に語っている。
「危機における国家経綸の論は歴史を遡行して国家規範を求めながら、あるべき国家を将来に向けて策定せざるをえない。水戸学が歴史を回想しながら来るべき国家に向けて提示するのは祭祀的国家の理念であった。祭祀的国家とは、祭政一致的体制をもった国家である。すなわち、政治的国家が同時に祭祀的な体制を統合的基盤として要求する国家である。水戸学が再構成する新たな「天祖」概念がそうした祭政一致的国家の構想を可能にするのである。始源的中心としての天祖を「敬神崇祖」の念をもって仰ぐ祭祀的国家にしてはじめて「億兆心を一」にした人民の統合を可能にすると『新論』はいうのである。その人民はすでに国民(ネイション)を先取りしている。
『新論』の祭祀的国家論はここで安心論・救済論的課題をも吸収する。篤胤国学は地方の村民たちを己れの言説の受け手として想定しながら、国学を神道神学的に再構成しながら人々の安心の要求に答えていった。いま『新論』あるいは水戸学は人民の心底からの国家への統合を求めて、歴史主義的な儒学的言説としての水戸学をさらに政治神学的に再構成しながら安心論的課題に国家経綸の立場から答えていくのである。ここに政治神学としての後期水戸学が成立する。『新論』が将来に向けて策定するあるべき国家は究極的に人民の死と死後への問いに答えねばならないのである。来るべき国家とは天皇を最高の祭祀者とした祭祀的国家でなければならないのだ。
『新論』は〈伊勢〉と〈靖国〉とを備えた昭和日本の「国体(天皇制的祭祀国家)」をすでに予想する。」[6]
明治の新たな天皇制的国家とはこの「国体」をそなえた国家である。その「国体」とは中国古代の祭政一致的帝王的理念から導かれた新たな天皇制国家の理念である。これを用意したのは徂徠学を受容した後期水戸学の儒学者たちである。このことは近代化(現代化)を推進する明治国家の権力的中枢部分に漢学者・儒学者たちが存在したことを意味している。明治国家は天皇制的権力の中枢を漢学的に潤色し、神聖化したのである。古代〈書経〉的中国は近代日本の天皇制権力の中枢に、その権力の言語的、思想的潤色者として存在し続けたのである。
このように見てくれば、私が津田による日本からの「シナ」の全的消去の主張を稀少なものといった意味が了解されるだろう。だが津田による「シナ」の全的消去の主張の稀少性をいっても、それを見当違いの過ちというのではない。近代天皇制を古代中国的に潤色しつつも近代国家日本がとっていった文明開化の道は「シナ」の消去に外ならなかったからである。とすれば津田の主張の稀少性とは天皇制の古代中国的潤色を含めた「シナ」的なものの全的消去の主張にあることになる。
4 津田の「シナ」否定の稀少性
津田は憚ることなく「シナ」的なものの日本からの全的な消去をいう。この「シナ」的なものに古代中国的に潤色された近代天皇制における「シナ」をも含むとするならば、その全否定の主張はまことに稀少なものといえるだろう。こうした主張は津田を措いて外にはない。では津田にそれを可能にさせているのは何か。それは矢張り津田の「神代史」の研究に溯って考えねばならない問題である。私はここでまたしても己れの津田論から引からざるをえない。本論が私の津田論の決算的意味をもったものであるかぎり、度重なる自己引用は免れないところである。私は『「大正」を読み直す』[7]で津田による「神代史」の〈脱神話化〉的解体的読みのすごさを示す一節として『神代史の研究』から次の文章を引いている。
「さて上代の思想に於いては、天皇は「現人神」または「現つ神」であらせられる。政治的君主を宗教的にいえば現実の人たる神である。神代とは、観念上、此の神性を「現人神」から抽出して、それを思想の上で形づくられた遠い過去の皇室の御祖先に於いて具象化せしめ、其の時代を名づけたものであるが、宗教的崇拝の対象であり霊物として見られていた太陽を皇祖神としたことによって、それがおのずから充実せられ、また神の代としての其の色調が鮮明になった。或はむしろ皇祖神たる日神が此の具象化の核心となったという方が適切であろう。そうして此の神代を、同じく思想の上で形づくられたヤマト奠都の前とし、それから後を人の代と定めたことは、神代という観念が政治的のものであり、又た皇室によってのみ意味のあるものである証拠であるが、それは即ち又た神代史の性質が上記の如きものであることを語るものでもある。更に具体的にいうと、神代史は皇室が「現人神」として我が国を統治せられることの由来を、純粋に神であったという其の御祖先の御代、即ち神代の物語として説いたものである。」[8]
津田による「神代史」の〈脱神話化〉作業は、まず記紀「神代史」という「神代の物語(神話)」の伝承性を否定する。「神代史」を構成するのは〈伝承神話〉ではない。それは語り直され、記し直された「作り物語」としての〈神話〉である。そして「作り物語」としての「神代史」は、日神を皇祖としてもったヤマトの統治者の神的尊貴性の由来を語っていくのである。その〈神話〉は政治的であり、皇室にのみ意味をもった、民衆とは無縁の物語である。記紀「神代史」は津田によってこのように二重に〈脱神話化〉されるのである。
津田の「神代史」批判は宣長国学における〈漢意(からごころ)〉批判を超える徹底さをもっている。宣長の〈漢意〉批判は「神代史」の神話的構成そのものに及ぶことはない。だが津田の批判は上代知識人による「神代史」の〈漢(から)〉的構成そのものに及ぶのである。津田の〈シナ〉批判にその矛先を向けることを憚らせるような聖域はないのである。こう見てくれば津田の〈シナ〉的なものの全否定の主張がもつ稀少性は明らかだろう。だがこの稀少性が津田左右吉という歴史家の思想的立ち位置を分かりづらくさせているのである。それが昭和13年の『支那思想と日本』を昭和22年に『シナ思想と日本』とするだけで再版させた理由でもあるだろう。中国大陸における日本の戦争に呼応する〈シナ的なものの全否定〉というナショナリズムの標語は再度の現代化というべき戦後日本の標語でもあったということか。
もっともラジカルな国民主義者というべき津田によって憚ることなくいわれた〈シナ的なものの全否定〉は、モダーン日本を規定し、規定し続けている標語としてその再度の検討がなされねばならない。
[1] 津田左右吉『支那思想と日本』は昭和13年(1938)11月に創刊された岩波新書の一冊として刊行された。同書は戦後『シナ思想と日本』(1947)として再版された。戦後再版にあたって「まえがき」の一部をかきかえただけで本文は原版のままである。引用に当たっては漢字・かな遣いは当用のものにしたがった。
[2]『文学に現はれたる我が国民思想の研究貴族文学の時代』大正5(1916)刊、『同上武士文学の時代』大正6(1917)刊、『同上平民文学の時代上』大正7(1918)刊、『同上 平民文学の時代中』大正10(1921)刊。これらは没後刊行された『津田左右吉全集』の別巻第2巻〜第5巻をなすものである。
[3]津田・国民思想論・10「近世儒家の全否定とは何を意味するかー津田『国民思想の研究』と『支那思想と日本』を併せ読む」。
[4]私はここでは初版本『支那思想と日本』(昭和13年版)から引いている。
[5]津田はこの文章の先で「日本語」についてこういっている。「日本語が、単に自分たちの国語であるからというばかりでなく、ことばとしての性質の上に於いて、支那語よりも遙に思索に適し理を説くに適するものであるのに、その日本語を用いるのを卑んだのは、学者たる能力が支那文を書くことによって示されるが如く思われたからであるが、ここにも一つの理由がある。」
[6]子安思想史講座「明治維新の近代」6・「「国体」の創出ー徂徠制作論と水戸学的国家神学」
[7]子安「津田「神代史」の研究と〈脱神話化〉の意味」『「大正」を読み直す』藤原書店、2016.
[8]津田『神代史の研究』第二二章「神代史の性質及び其の精神上」、表記は当用のものに改めている。傍点も子安。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.9.18より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/81008973.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1063:190920〕
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