「津田左右吉『シナ思想と日本』の再読」を拝読して
- 2019年 9月 21日
- 交流の広場
- 箒川兵庫助
子安宣邦阪大名誉教授の「明治維新の近代・13 シナの消去としての日本近代その一ー津田左右吉『シナ思想と日本』の再読 2019年 9月 20日(ちきゅう座)」を拝読した。
若いころ,赤表紙だったと思うが岩波新書の『シナ思想と日本』を読んだことがある。全然分からなかった。今,子安先生の分かりやすい解説を読んで思うことの一つは,思考方法の違いということである。
中国人といってもいろいろあるが,例えば南京城や長安の都を造った中国人の思考は,まず「全体」を考えて「部分」に至る方法だと思う。それに対するのが桂離宮や武家屋敷で,家の建て増しである。つまり部分と部分とを繋ぎ合わせて全体とする。一方,フランスの例えばベルサイユ宮殿は全体を構想してから建てられたので庭に何かを付け足して新しい庭や建物をこしらえるということは考えられない。つまり全体を初めに考え後に部分に区切るという建築様式である。
バリの街が放射線状になっているのも先に全体の構想が初めにあったことを物語るだろう。またプラッツア(広場)は病院があり教会があり役所があり広場があるという造りになっていると聞く。そこを中心に町は広がる(ユカタン半島のウシュマルの街はどうであったのであろうか)。
小生は旧サイゴンでアパルトマンという建物を初めて見た。なるほど一つのアパルトマンを小さく区切って一つの建物として存在していた。かわいい感じがした。そこでコッペパンをカジって美味しい味を堪能させて頂いた。そこにフランス流思考方法を見て,故・加藤周一の観察と主張を確認した次第であった。
欧州大陸と中国は上の意味で全体がまず頭にあり,次に部分を考えるという点で思考方法が同じである(新疆ウィグル民族やミャオ族が同じかどうかは分からない)。
日本の場合はどうか。漢字と仏教を中国から輸入したが漢字は平仮名とカタカナに少し変形された。かなり変更されたという意見もあるが元々はアルファベットやアラビア文字から変形したのではない。下敷きは漢字である。しかるに全体を先に考えて部分を後から考えるという思考方法は輸入されてどうなったのか。その答えは文字さえも元の漢字から分割され変形されたのである。
古来の日本人の思考法は部分を強調して全体を強調しないから津田先生が全体優先の中国を完全に拒否される理由が分かる。
和魂洋才。先人は,西洋の技術や思想を輸入するのに漢字2文字を利用して翻訳した。例えば自由(freedom)とか権利(right:単数)とか。しかしそれらの抽象概念は多くの革命を経て得られたものであって革命がなかった日本に受け入れられるのか,入れられないのか。それを論じたのが加藤周一の『日本文化の雑種性』であろう。
日本は文化水準が高い中国の文物を輸入した。消化し輸入する必要を感じなくなったとき遣唐使を廃止した。千年後の明治維新後,日本は西洋文化を吸収しようと岩倉欧米使節団を送った。しかし遣唐使を配したときと同じように,国際連盟を脱退した頃には学ぶべきものが欧米にはなくなったと感じ,近代化が遅れている朝鮮半島や中国に向けて軍隊を送った。侵略戦争の始まりである。中国いじめや韓国嫌いはその名残である。
津田先生が加藤の『雑種文化』論を知っていれば『シナ思想と日本』を書かなかったと思う。しかし加藤は遅かった。加藤周一氏は1919年9月19日に産声をあげた。
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