ドイツ通信第146号 ドイツ政治の分岐(2)
- 2019年 9月 26日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
東ドイツ2州の選挙を終えて、1993年のビショッフェローデ(Bischofferode)カリ塩鉱夫のハンガー・ストライキに戻ってくるとは想像もつかなかったです。当時、私は大学のプロジェクトで一緒に活動していた学友と、彼のポンコツ車で現地に向かうことになりました。その時のメモと資料を何とか探し出し、それを基にしてこれを書いています。
この闘争が、ドイツ統一の社会・経済面を象徴していると考えられるからです。東ドイツ2州の選挙結果の分析が、現在、極右派・ナチの台頭とドイツ統一30年を関連付けて考察されるようになり、それがもう一度この闘争の意味を考える機会になりました。
ビショッフェローデという小さな町は、私の住むヘッセン州から遠くないチューリンゲン州の北部先端にあり、ここで1993年4月7日にカリ塩鉱夫が工場を占拠し、同じ年の7月1日から12名がハンストに入り、2日にはその数23名に膨れ上がり、さらに4日には全体で40名がハンスト参加することになりました。この闘争は瞬く間に旧東ドイツはいうまでもなく、旧西ドイツの他の労働者にもアピールすることになり、連帯の輪が広がり、そしてTVで現場からのニュースが報じられて市民の注目を集めることになりました。
スローガンがその時の現状をあますところなく表現しているでしょう。
「ビショッフェローデはどこにでも!」
写真はSpiegel.deから
ドイツ統一後の旧東ドイツの再建は、「信託事業体」(注)の手に委ねられていました。その役割は、国家所有になっていた旧東ドイツの財産を管理し、それを私有化し市場経済化するための管財人です。後に見るように、実情は「清算事業体」といっていいのではないかと思われます。
(注)Treuhandanstaltをこのように訳しておきます。
ビショッフェローデの鉱山は、エンゲルスの「ドイツ農民戦争」の中に出てくる指導者トーマス・ミュンツァーの名前がつけられ、これだけでもドイツ社会主義の歴史を感じさせるためには十分というものですが、それに労働者運動の革命的な伝統が付け加わりますから、「旧東ドイツ社会主義国家」の崩壊過程で、労働者、鉱夫の社会主義的な闘争精神と連帯を現場で実体験することになりました。
前年の1992年12月に管財人が、1997年までに、全ドイツ国内のカリ塩生産を西側で二分の一に、東ドイツ側で三分の一に削減することを決定し、その結果、ビショッフェローデのカリ塩工場が属する東ドイツのカリ塩会社(注)は、西ドイツの大化学コンツェルンであるBASF. Kali+Salz/Kasselに併合されることになりました。
(注)MDK.AG/Sondershausenn
鉱山労働者側の言い分は、
1.MDKとBASFの合併は受け入れられない
2.それは閉山を意味する
というものです。
鉱山閉鎖に関する闘争は、前年からも続いていましたが、代替職場の確保がIG.Metal(金属産業組合同盟)の方針ですから、妥協の後には労働者の闘争が伝えられることはなかったです。この時、西側の労働指導部にあったためらいは、旧東ドイツの壊滅的な経済及び産業状態からもたらされる労働争議への不確かな展望と、それが西ドイツ経済に及ぼす影響でした。結局は自己の既得権防衛に入っていたことから、むしろビショッフェローデの非妥協の闘争は、労働組合中央指導部には傍迷惑に感じられていました。
それに対する鉱夫特有の同志意識に結ばれ、厳としてゆるぎない闘争は逆に、全ドイツの労働者仲間を勇気づけ、政治の全面に躍り出ることになり、メディアのトップ・テーマを飾ることになりました。
他方で、政治(家)、労働組合指導部が批判の集中砲火を浴びることになりました。
1993年7月現在の、統一ドイツの失業者数は戦後最高を記録し、それまでの最高347万人を超えて350万人に達し、後に「EUの患者」といわれるまでになるドイツの兆候を示していました。
私たちが現地に入ったのは、7月31日です。その翌日には、「国際連帯行動」が取り組まれ一万人が結集したことを後で知りました。
ビショッフェローデは、人口2,500人の小さな町です。その町が今注目を浴びることになりました。
工場に着くと、予約なしの突然の訪問にもかかわらず従業員親方(Meister)から歓迎を受け、経営協議委員会の事務所で話を聞くことができました。彼の当時の話は、現在でも、むしろ現在の議論の中でこそ読まれるべきであると思い、以下、長くなりますが、そのまま再録することにします。
経営協議委員会の基本的見解は――
1993年12月31日をもって、ここビショッフェローデのカリ塩工場は閉鎖されることが決まっている。われわれ鉱夫は、もうそれ以上は山へ入ることができなくなる。したがって、われわれの闘いはストライキではなく工場占拠である。この点を間違いのないように理解してほしい。職場を確保しながら、引き続いて採掘・生産するのがわれわれの目的である。ビショッフェローデはMDK/Sondershausenの一部門で、今まで7つの鉱山を操業していたが、既に6つは閉山され、残っているのはここだけである。そのビショッフェローデも今では人員削減・解雇で従業員は700人までに縮小されてしまった。定年退職を受け入れた者もある。その後、何人かは新しい就職口を見つけた。例えば、建設業とかサービス業。しかし、こうした部門での雇用キャパシティーは限られたものである。なぜなら、それらは本来、工業の盛衰に依存しているものであるからだ。工業のないところに産業の発展はない。職場を創出していくことは不可能であるということだ。だから、失業者数は非常に多くなっている。
1990年段階で、1,900人も従業員がここで働いていたが、今では、正確には695人が残っているだけだ。こうした状況のもとで、ビショッフェローデは「信託事業体」を先導役にした連邦―州政府の産業再編を受け入れるわけにはいかない。現状はただ失業者が増え続けているだけで、将来への何の見通しもない。だとすれば生産を維持・継続していくことが、従業員のみならず、地域社会、また東西ドイツで失業状態に置かれている解雇された仲間へわれわれが示せる唯一の方針である。
これに対して、政府側は700人の代替職場の提供を申し出てきている。しかしこれは、われわれからすれば「どうぞご勝手に!」というものだ。この700の代替職場は、長期にわたって失業状態にある解雇された仲間に提供されるべきで、われわれにではない。先に述べたように引き続き生産し、鉱山を維持することがわれわれの目的だ。そのためにわれわれは4月7日から工場を占拠している。
以下、私たちからの質問と回答です。
質問:カリ塩工場の社会的な役割と閉山・解雇の地域社会への影響は?
回答:ビショッフェローデは、住民2500人の小さな町である。ほとんど大部分の人たち はこのカリ塩工場で何らかの仕事に就いていた。カリ塩工場は、この地域一帯の産業の中心地といっていいだろう。住民の生活はしっかりとカリ塩工場に密接していた。1989年の大転換以前には多くの従業員が党や組合に加入していた。しかし、1989年以降は、先ず食堂、病院、あるいはブランデンブルクにある休暇施設で働いていた仲間が解雇され、現在は長期の失業状態にある。仲間が散り散りバラバラにされたことは残念なことだ。だから、明日の国際連帯デーには市域のパン屋、肉屋、飲料店などの人たちがいろいろなものを持ち寄り、差し入れしてくれる。連帯はこうして市民の間にも広がっている。
質問:政府の代替職場案についてどう考えているか?
回答:すでに解雇された多くの人たちが長期失業状態にある。こうした人たちにこそ職場は提 供されるべきであり、われわれには何の関係もない。しかも、700の代替職場は他のいろいろな地域・地方から調達するという。ここが警戒しなければならないところだ。それによって、その地域で700の職場が住民から奪われることになる。
質問:親組合はどんな対応をしているのか?
回答:親組合であるIG・Metal-Bergbau und Energie(金属産業同盟鉱山・エネルギー組合)は、ビショッフェローデに対する支援・取り組みを拒否し、合併計画を受け入れ、ハンストを止めるように忠告してきている。だから親組合抜きの闘争になったが、他の多くの組合や労働者が連帯してくれている。
質問:今後の展望は?
回答:暴力なしで、というのがわれわれの基本的方針である。しかし、権力の側からの暴力的挑発は目にあまるものがある。エルフルトやベルリンの抗議デモには私服の警官がデモに紛れ込んでいるのを摘発したが、このときは、混乱に乗じて警察が介入し、参加者が暴力を受けている。
はじめのころはどういう手段を取ればよいかわれわれもよく分からなかった。しかし、今では暴力によらない工場占拠とハンストが一番有効だと考えている。
この後、親方は私たちをハンストの現場に案内してくれました。そこでのスローガンと様子は以下の写真に見てとれます。
すでにハンストは100日を超え、この間にドクター・ストップで病院に運ばれる人たちが何人も出ており、その姿がTVの画像で報じられていました。そんな状況にもかかわらず、ハンスト参加者が、機知とウイットに富み意気軒高としている姿が印象に残りました。
ベットの上に骸骨を寝かせ、その頭の上に
「ありがとう、コール殿」
写真はSpiegel.deから
同じようなウイット――
ここでドイツの民主主義区は終わる!(注1)
誰もが宿命を背負っている
政治家-責任感ナシ
経営者-見境ナシ
労働者-仕事ナシ(注2)
(注1)Hier endet der demokratische Sektor Deutschlands
(注)Losの語呂合わせになっています
Jeder tr?gt sein Los
Politiker-verantwortungslos
Unternehmer-hemmungslos
Arbeiter-arbeitslos
またハンスト中の女性たちも紹介してもらいました。鉱山で働く女性、鉱夫の妻にも共通の運命だといいます。単に工場だけがテーマになっているのではなく家族、子供そして地域全体の存否が問われ、旧東ドイツの失業者のうち3分の2が女性で、だから700の代替職場提案で、他人の仕事を奪って自分だけが生き残るようなことは絶対承認できない、と語気を強めました。
1993年12月14日、EU委員会はMDKとKali+Salz(BASF Kassel)合併申請の許可決定を下ろし、これでビショッフェローデの闘争は幕を閉じることになりました。
従業員親方の話のメモを整理しながら、一つ気になることが目につきました。それは極右派への警告です。
1993年8月14日にはチューリンゲンでアドルフ・ヘスの6回目の追悼集会がネオ・ナチによって準備される一方で、それに対抗する反ナチ・グループの抗議集会も予定され、ネオ・ナチが無線機を使って警察の警戒網をかいくぐり、アウトバーンで警察とのカー・チェイスを繰り広げビショッフェローデでの行進を試みますが、最終的にはナチ行進は阻止されました。
ネオ・ナチは、確実にビショッフェローデの鉱夫たちの闘いを焦点に入れ始めていたのです。
その点に関する、親方の話です。
――先の90年の自由選挙の時は、ここアイヒスフェルト(Eichsfeld)は、住民の90%がCDUに投票したカトリックの強い保守的な地域である。それに統一と早い経済復興への期待があった。二人に一人は何がしかの財産を所有している。家、車、そしてその他のものへの投資が行われたからだ。それ故に、また多額の負債も抱えることになった。どうしてここを離れることができるのか。どうして負債を返済していけばいいのか。CDUには誰も再び投票しないだろう。すっかり失望してしまっている。多くの失業者は、今度は極右派に投票していく危険性がある。しかし、住民も従業員も外国人排斥、排除には同意できない。はっきりと距離を置いている。
貴重な話と闘争を体験させてもらい、私は鉱夫の皆さんに、彼らの同志的な合言葉である〈Gl?ck auf!〉(「無事に!」というくらいの意味)を最後にして現地を去りました。
それから30年、先の東ドイツ2州の選挙は、彼の警告が実証されたことになりました。毎年10月にはドイツ統一の記念典が開かれます。一度として、東ドイツのこうした現状が語られることがあったでしょうか。私個人がそうした式典に興味と感心が持てないのは以上の理由によります。
現在、東ドイツ市民から語られるのは、統一によって〈われわれの財産が略奪された!〉〈生活が奪われた!〉というものです。この意味をもう一度歴史的な経過から考察するために、1993年7月31日と8月21日の二回にわたり現地に赴いたビショッフェローデの闘争を振り返る必要性がありました。
つづく
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9028:190926〕
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