〈「原子力村」の住人たちよ!反省を込めて原発推進を振り返れ/わが友よ、書を捨て…なんて言わないが街に出ようぜ!〉
- 2011年 5月 20日
- 評論・紹介・意見
- 9条改憲阻止の会
連帯・共同ニュース 第119号 2011年5月19日
「原子力村」の住人たちよ!反省を込めて原発推進を振り返れ
■ 日本にはまだ美しい村がある。福島県の飯館村もそう呼ぶのにふさわしい所であると想像する。僕はその周辺を車で通過しただけだが、その光景の一端からでもこの村の風景や住民の生活を思い描くことができる。村という言葉に残る原初の共同性をイメージしえるところがあるのだ。ここでは村はまだプラスの側面がある。それに引き換え、最近になって新聞や雑誌でよく見かけるようになった「原子力村」というのは何と形容したらいいのであろうか。これは霞が関と呼ばれる日本官僚村の一隅にあるのだろうが、原発推進村でもあってそのイメージは逆である。
そこは排他的で閉鎖的であり、また権力的である。原発に懐疑を抱く人々を排除した閉じられた世界である。原子力村の住人たちは「原子エネルギー制御」という知的に高度な世界にたずさわる人々であると期待された人々が中枢にいたのではないのか(?) その役割を担うはずの人々だったのではないのか(?)
■ 彼らはなぜ今、世間の人々の非難や哄笑の的になっているのか。それは彼らが「原子エネルギー」を制御することについての懐疑を失ってきただけでなく、それに意識的に背いてきたからではないか。そのことで期待された役割と逆のことを演じてきたからではないのか。なぜ、そうなったのか。「原子エネルギー制御」という領域は近代科学の先端であり、尖端的な知や知の技術を扱う世界である。「原子エネルギー制御」が高度な知(科学)の領域に属するのなら、そこでは知を根底で支えるのは懐疑とそれで得られる自由が必須である。その担い手たちはそれで権力から自立することが不可欠であった。近代科学や近代技術はそれを思想する存在(精神)によって左右される。政治家や実業家は決断という名の独断を必要とする。だから、権力がついて回る。知識人や科学者が知において自立するものなら、彼らはその自立性において権力に抵抗するものであり、それでこそ権威のある存在となる。抵抗の力は科学を思想する力を源泉とする。懐疑と自由こそが知の根底であり権力に抵抗する力となる。御用学者はこの対極にある存在である。彼らは権力に迎合する者であり奉仕するものだ。権力に抵抗でなく迎合し同伴するものだ。原子力村が象徴しているのは御用学者や御用ジャナリスト、御用○○しかいなくなった日本の現状である。これは政治家や実業家たちの存在と同時的である。どこでも御用達人がいるだけで自立した存在などいない。反原発や脱原発を進めるものにとってこれは鏡となる。(文責 三上治)
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連帯・共同ニュース第120号 2011年5月20日
わが友よ、書を捨て…なんて言わないが街に出ようぜ!
■ ひさしぶりに国会前にやってきた。「福島と浜岡の全原発の閉鎖と廃炉」を求めてである。僕等は脱原発や反原発をエネルギー政策の転換として要求する。この脱原発は実現には段階的過程を要すると思うが、さしあたっての段階は福島と浜岡の原発の閉鎖と廃炉である。これは第一段階だが、この過程ではそのためにも福島第一原発の原子炉の冷却の安定化を必要としている。それは現在でも暴発の危険はある。福島第一原発の炉の冷却の安定化(暴発阻止)という前段的な処理を成功裏にやるしかないが、僕らは必要とあればその作業の一端を担う用意もある《山田提言と暴発阻止プロジエクト》。こんなことを祈るような気持ちで考えながら国会前に座り込み声をあげているが、そこで僕らが改めて痛感するのは政府や東電の正確な情報を開示である。福島原発1号機のメルトダウンにしても、事故としての規模にしても後追い的なしかも小出しでしか情報公開してはいない。これでは疑心暗鬼や不信が増大するだけである。放射能汚染問題などは初期段階の対策が重要だ。放射能汚染から子供たちを守ることなどで今後に禍を残す事態を既にやってしまっているのかもしれない。国会は例の通り、政局(政争)に明け暮れているが、福島原発への対応くらい政局を超えてしろと要求も空しく響くだけのような気がしてならない。
■ やはり、永田町というのは別世界である、そういう他ないところがある。僕らが道をはさんで向こうにある議会の動きも、この界隈での政治工作も国民の意向や声とは別次元でことが動いているのだ。どんな意図や動機であれ、国民の意思と声を実現することはよい。菅首相の浜岡原発停止はアメリカの指示であったという噂が流れている。そんなことはどうでもよい。浜岡を停止させたことは良いことだし、閉鎖と廃炉の道にことを進めることが重要なだけだ。政局の中で菅政権が政治的延命の手段として脱原発に歩みだせば僕はそれを評価するだろう。政治は誰がやるかということも重要だが、何をやるかがそれ以上に大事だ。こういう大きな問題が出てきている時代には政治家や政党は予想を超えてことに走るかもしれない。永田町や界隈での政局(政争)に期待するものはないがそんな思いで見つめている。国会の周辺はなんとなしに騒がし感じがする。僕らは誰かの言葉ではないが「東京新聞」や「週刊現代」の記事にりゅう飲を下げているだけでなく街に出てくる時期だ。その力が政治家たちをまた変えるかもしれない。「書を捨て街に出よ」と言ったのは寺山修司だが6月11日は脱原発の声で街を溢れさせよう。(文責 三上治)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0469:110520〕
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