真正の人道は地勢と共に存在すべき ――田中正造・第1部(1)
- 2019年 10月 29日
- スタディルーム
- 田中正造野沢敏治
はじめに
「田中正造と足尾鉱毒問題」の間にあるもの
田中正造と言えば、誰でも知っている名前であろう。そして明治時代に足尾銅山の鉱毒被害の解決に献身した「義人」とイメージするだろう。逆に足尾鉱毒問題と言えば田中正造と思い浮かべるのでないか。だが足尾鉱毒問題に関わった人は彼だけではない。正造の前に須永金三郎のような地域の知識人や銅山の鉱業停止を求める村議会・県議会の活動があり、彼を支え助けて運動に参加する多くの人がいた。押し出しの先頭に立ったり、被害調査の実施に加わった人々、木下尚江、潮田千勢子、黒沢酉蔵、そして正造の妻・カツ。正造はこれら大勢の中の1人と言ってもよいほどである。正造の理解者である木下尚江が後に講演「足尾鉱毒事件の血涙秘話」(1934年8月3日)で何人かの名をあげていた。正造を鉱毒反対運動の代表者とすることには注意が必要である。また彼には義人とは一見して異なる野人的な言動や政略家の面があり、社会経済の損益計算を細かくしたり、被害の事実をいちいち探索する面もある。「正造=足尾鉱毒問題」のイコールの間には実に多くの人々と事柄が挟まっており、ちょっと立ち止まって考えさせられることが多い。そのどれもふくらみをもって私どもに意味づけを迫るのである。
今はかつての高度成長下でのように「公害」を告発する時でなく、地球的規模でリサイクルの循環型社会をシステムとして作る時のようである。カタカナ造語のグローカルに環境問題の新しさを感じる人も多い。足尾銅山が公害だと告発されたのは今から百数十年も昔の明治時代のことである。いまさらそのことをふり返ることに何か意味があるのかといぶかる人がいるかもしれない。私はそうでなく、公害に対する批判と告発は「公益」の再建や設計と不可分であったし、今においても(こそ)正造から学ぶことが多いと切に感じる1人である。実情を知れば知るほど、今も同じ構造でないかと思うことしばしばである。
直訴はよく考えられた行動
正造を有名にしたのは明治天皇に鉱毒の廃絶を訴えた「直訴」事件である。それは1901(明治34)年・12月10日の午前11時過ぎ、明治天皇が議会開院式を終えて馬車で帰る時に起きた。場所は今の霞が関にある経済産業省の付近の道路の上である。この行動は毎日新聞の主筆であった石川安二郎(半山)や木下が伝えていたように、切羽詰まった突発的なものでなく、以前から計画されていたことであった。正造は石川から鉱毒問題の解決のためには内閣に調査会を設けるような「平和手段」でなく、「君佐倉宗五郎タルノミ」と言われたのである。宗五郎は正造が尊敬する江戸時代の「義人」であった。正造はその計画に乗り、幸徳秋水を交えて、直訴の趣意を正造がしたため、幸徳がそれを名文の文章にする。幸徳は文章家でもあった中江兆民の弟子であった。その文章に正造が朱を入れて押印する。正造はそれを持って天皇の馬車をめがけて「御請願の筋あり」と連呼して飛び出した。でもこの61歳の老人は実は途中でこけてしまい、そこを警備の者に取り押さえられてしまう。当時の新聞がその様子を絵入りで伝えている。彼は麹町警察署で取り調べられるが、何のおとがめもなく放免される。彼は帰ってから石川に「失敗せり失敗せり失敗せり失敗せり、一太刀受けるか殺さねばものにならぬ」と大笑いされたという。その後、彼らの思惑通り鉱毒問題への世論は一気に盛り上がったのである。
天皇と正造の間の変化
直訴に対して大きくいって2つの反応があった。『万朝報』などは正造を理性のない「不具的誠直」の人、感情に激されて文明の進歩や社会改善を妨げる神風連のごとき者だと非難した。木下は正造に近かったが、直訴などは封建時代のものであって明治の立憲政治体制には合わないと批判的であった。その一方で、こんな人がいるのかと感動して正造の活動に参加する者が現われ、佐倉宗五郎のような義人と称する者もいた。石川啄木もショックを受けた1人である。ところで肝心の天皇はどうであったか。天皇は直訴状を見ていないようだ。天皇は憲法で神聖不可侵とされていたからか、その直接の反応を知ることは難しい。
直訴から100年以上たった今日、事態は変わった。2014年5月21日~22日、前の天皇と皇后は私用で渡良瀬遊水地と佐野市郷土博物館、足尾銅山を訪れた。その模様については『田中正造大学ニュース』第82号(2014年7月31日)が同行記者の報告として簡略ながら伝えている。それによると、天皇と皇后は鉱毒で破壊された自然がその後どう再生されたかを見たかったらしい。2人は雨の中、遊水地のヨシ原を散策し、博物館で朱の入った直訴状を眺め、正造の日記にある「真の文明は山を荒らさず」の有名な言葉に見いり、鉱毒ではげ山になった松木村の渓谷で植林が進む様子を見学したという。天皇は戦争で疎開していた時に足尾の荒れた山を見ていたのである。
私はその数日前に田中正造大学の事務局長坂原辰男さんに案内していただき、
遊水地と博物館を含めた正造ゆかりの地を訪ねていた。ラムサール湿地条約に登録されていた遊水地の稀少植物に触れ、遊水地を囲む堤に立ち、広大なヨシ原(春の野焼きで有名。今でもすだれの原材料地)を遠望した時に、私は周りの堤がきれいに除草されていることに気づいた。天皇・皇后が来るからということで清掃されていたのである。私はハート型の谷中湖(今も川魚の漁の場所)の北側にある旧谷中村やお墓の跡地(「旧谷中村遺跡を守る会」によって開発からまぬかれた所)まで行ったが、天皇一行は行っていないようだった。後で知ったことだが、天皇の佐野市の博物館訪問でその後地元からの訪問者が一時激増し、それまでの直訴=体制反対者というマイナスイメージがプラスに変わったらしい。地元の正造観は教科書で教えるように一つでないのである。
経済学史の研究から見えてくるものあり
私は正造の研究者でも足尾鉱毒事件の専門家でもない。ただ、大学で社会思想史の講義の一環として取り上げたことがある。私の専門はヨーロッパの経済学史である。そこから得た方法や視角が正造を追うのに役立っているのである。経済学史にそんなことができるのか? そう、できるのである。例をあげよう。重商主義と古典派は経済発展のコースをめぐって対立するが、それは渡良瀬川上流の足尾銅山の鉱業と下流の農業との対立を捉えるのに1つの視点を提供してくれる。さらにこういうことがある。経済学史は人間の生命と生活、人自然との間の物質交換を行う人間の他の人間との特定の社会関係を歴史的に追うのだが、そこにエコロジー的視角が潜んでいたのである。それは産業連関分析の先駆者・ケネーや見えざる手と自由貿易論者のスミスに、そして経済学に社会思想を組み入れたJ.S.ミルに伏流している。あの経済的価値量のみの経済学者リカードは地主と保護主義を批判するのに自由貿易とともに自然の生産力を持続させる先端的農業技術の導入を主張している! 以上のブルジョア経済学を批判した歴史主義のマルクスも人間と自然の間の物質代謝を体系的に再建することを考えている!こう言っただけで、未だに思い当たることのない学史研究者には何と言ったらよいか。……以上のことは、しかし、専門研究者でない人には関係ないことであろう。私もここで学史の知識をひけらかすつもりはない。
さて、専門外の私でも範囲は狭いが専門研究者や運動家から学んでいる。内水護編『資料足尾鉱毒事件』(1969年)からは正造を様々な角度から公平に見ることを教わる。1970年代末から始まった『田中正造全集』(岩波書店)は基本資料である。英雄史と異なる民衆史の方法を適用した『田中正造と足尾鉱毒事件の研究』誌からは新たな事実の発掘を、『田中正造大学ニュース』からは現在の運動の動向を、正造の地元での各種研究会やイベントからは現場感覚の大切さを、それぞれ学んできた。その他、絵や演劇、歌からも。私が以下で述べることはすべてすでに知られていることである。私はただちょっとアングルを変え、ことがらの順序や組み合わせを変えただけのことである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1073:191029〕
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