カブラルの遺産とリランガの絵画
- 2019年 11月 4日
- カルチャー
- 髭郁彦
アフリカは歌う。アフリカは踊る。アフリカは跳躍する。アフリカは喜びを、あるいは、悲しみを爆発させ、新しい希望の光となり輝く。アフリカのリズムは軽快だ。深さを求め、根底を求め、沈潜しようなどとはしない。上空へ、魂の住処へ向けて飛翔する。アフリカの色は鮮やかで、ダイナミックだ。アフリカの線は強く、逞しい。アフリカは抑圧され、搾取され、虐げられてきた。だが、アフリカはもう一度光輝く。新たな芸術の創造と共に。
7月27日から10月14日まで、「エターナル・アフリカ*森と都市と革命―アミルカル・カブラルの革命思想とジョージ・リランガの芸術―」という展覧会が東京都多摩市にある多摩美術大学美術館で行われていた。カブラルはアフリカの多くの国の独立運動に大きな勇気を与えたギニアビサウの作家・革命家である。彼はアフリカの多くの国々の独立運動の精神支柱であっただけではなく、伝統文化とそれに基づくこれからのアフリカ文化の発展の意義を強調し、独立闘争の混乱期にアフリカの希望の声となった人物である。リランガは現代アフリカ絵画における大きな潮流の一つであるティンガティンガ派を代表する画家であり、彼の作品は世界中で極めて高く評価されている。
この展覧会では現代アフリカ美術に多大な影響を与えた二人の人物を関連づけながら、リランガの作品と彼の周辺に位置する現代画家の絵画を展示していたが、その中でも一際異彩を放つ作品はやはりリランガのものであった。それゆえ、このテクストではカブラルの意志を継ぎ、独立運動以降に花開いたアフリカ現代絵画におけるリランガの位置とその特異性、さらには、アフリカ絵画の可能性と彼の作品の魅力について考察していきたい。
カブラルの残したもの
アフリカの独立運動に大きな思想的痕跡を残した二人の代表的な革命家がいる。一人はフランツ・ファノン (1925-1961) であり、もう一人はアミルカル・カブラル (1924-1973) である。彼はポルトガル領ギニアに生まれ、リスボン大学で農学を学んだ後に独立運動に目覚め、ギニアに帰国後、黒人の自立を目指すネグリチュード (négritude) 運動を展開。1956年にアフリカ独立党 (PAI) とアンゴラ独立人民運動 (MPLA) の設立に携わる。その後、PAIを基盤としギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC) を設立。PAIGCは勢力を拡大していき、ギニアビサウ独立運動を展開した。しかし、1973年ギニアの首都コナクリでポルトガル秘密警察 (PIDE) の支援を受けたかつての同志によって暗殺された。なお、弟のルイスは1974年にギニアビサウ共和国初代大統領となっている。
カブラルは『アフリカ革命と文化』の中でアフリカの独立運動における文化的側面の重要性を敢然と主張している。「文化は明らかに解放運動の基礎そのものである。自らの文化を保持する社会のみが人民を動員し、組織化し、外国の支配に対して闘うことができるのだ」(白石顕二他訳:以下カブラルの言葉はこの著作からの引用である) という言葉は彼の考えを端的に表している。経済、政治、社会問題だけではなく、文化的な問題こそが独立闘争の基盤となり、独立運動を支える柱となることを彼は強く意識していたのである。カブラルは「文化は、その表現にイデオロギー的、観念論的な特徴をもつか否かにかかわらず、歴史過程にとって本質的な要素なのである。まさしくこの文化のなかに、歴史の存続を保証し、同時に社会の進歩 (または退歩) の可能性を決定する諸要素をつくりあげ、さらに豊富化する能力 (または責任) が存在するのだ」とも語っている。それぞれの国が持つ文化は独自性を持ち、文化によってその国の社会の中心的なフォルム (体制) が形成されると言っても過言ではないのである。逆に言うならば、その国独自の文化が破壊されれば、その国は根底から覆され、崩壊するのである。
それゆえ、カブラルは独立を目指しただけではなく、アフリカの文化の維持と発展を切に願った。独立闘争は政治的な意味を持つだけのものでも、経済的意味を持つだけのものでも、軍事的意味を持つだけのものでもなく、何よりも文化的なものであるからだ。アブラルの考えの正しさは、美術という点だけを見ても、独立を達成した後に、西欧流の美術学校出身者とはまったく異なるアカデミックな要素を持たない土着的な芸術家によって、非常に優れたポップアート作品が創造されていったことによって証明されている。それゆえ、間接的にはティンガティンガ派の芸術家はカブラル思想の申し子たちであるとも言えるのである。
「(…) 解放運動にとって重要な任務は、人民の文化が特殊性や普遍性をもつかどうかを証明することではなく、闘争の発展が要請するものに照して、文化を批判的に分析することであり、優越感や劣等感を抱くことなく、自らの文化を人類共通の財産の一部として世界文明のなかに位置づけることなのである。それは、その文化が現代世界とその発展的未来に調和的に参加する道を開くことになろう」というカブラルの言葉は文化的アイデンティティーがそれを担う一人一人の人間の尊厳を育み、新しい歴史の礎となることを表している。独立闘争の中で芽吹いたアフリカ文化は大きな花を咲かせる。その花の一つの名前。それがティンガティンガ派のリランガだ。
ティンガティンガ派とリランガ
白井顕二は『ポップ・アフリカの中で』の中でティンガティンガ派について詳細な説明を行っている。ティンガティンガ派はタンザニア出身のエドワード・サイディ・ティンガティンガ (1932-1972) を創始者とするアフリカの代表的なポップアートグループの名前であるが、白石は「(…) ティンガティンガが始めたのは、マゾニット (建築等壁板) の六〇cm四角の枠の中にエナメル塗料で描くスタイル」と書いている。ティンガティンガは遠近法に従わず、強烈な色彩を用いてダイナミックに、不思議な形の動物や人間の絵を何枚も描いた。そこにはアフリカに内在する躍動的な力が込められていた。彼は若くして死んだが、彼の技法は多くの画家に受け継がれ、彼らはティンガティンガ派と呼ばれるようになった。
このティンガティンガ派の中で最も輝きを放つ画家がジョージ・リランガである。この派の多くの画家が動物と人間をテーマとして絵画制作を行っているのに対して、リランガの作品はシェターニと言われるアフリカの精霊あるいは悪魔を対象としたものが殆どである。鮮やかな色彩の中で、手や足が長く、まるでダンスをするようにカーブしたシェターニが画面一杯に描かれている。「白い人を見て驚いてひっくりかえった」(1990)、「仲間同士でなにかわめいている」(1991)、「荷物運びを手伝います」(1993)、「赤ん坊を育てるのには母乳がよい」(1993) というように彼の絵のタイトルも独特である。白石顕二は『ポップ・アフリカ』の中でリランガについて、「彼は、もともとマコンデ木彫からスタートしたが、ひょうたん彫りもやれば、木版、銅版、パステル絵、グラフィックと、その活動のジャンルは幅広い。しかも、どの分野でも一流なのだ」と述べている。マコンデ彫刻とはタンザニアやモザンピーク周辺に住むマコンデ族の黒檀を使った彫刻であるが、ファミリーツリーと呼ばれる多数の人々の顔や肉体が重ね彫られた作品も数多く制作されている。日常生活においてもリランガのライフスタイルは独特であった。白石は「酒とタバコと踊りと音楽が大好き人間。(…) もっと愉快なのは、彼が中年ライダーであったこと。ホンダの七五〇ccに乗って市内を走りまわっている。広いヘルメット姿がなんとも爽快だ。ぼうようとした容貌からはまったく想像できない」と書いている。
リランガの作品の詳しい考察は次のセクションで行い、ここで他のティンガティンガ派の画家を一瞥しておこう。初期ティンガティンガ派の代表的画家はティンガティンガを除けば、サイモン・ジョージ・ムバタやカスパー・ヘンドリック・テドの名前を挙げることができるだろう。それに続く世代ではジャファリー・アウシやアブドル・アモンデ・ムクーラの名前を挙げることができる。彼らの絵はどれも鮮やかな色彩と遠近法的に従わない空間性、風景画ではなく動物、人間、妖怪など動態的なオブジェを主題としているという特色があるが、どの作品の中にもアフリカ的な力強さ、逞しさ、ユニークさ、ダイナミックさが画面一杯に溢れている。彼らの作品はヨーロッパの絵画史にも、日本や中国などの東洋の絵画史の中にも存在しない強烈なオリジナリティーを持つ作品ばかりである。だが、こうしたティンガティンガ派の絵画の中でもリランガの絵の独自性は際立っている。
リランガの作品の特徴
リランガの絵を初めて見たときの驚き。それはその色彩の鮮明さと描かれたシェターニや人間の奇妙な形への衝撃によって生じる。画面全体に描かれているシェターニや人間の姿は妙に手や足が長く、大きく曲がっている。顔も異常と呼べるくらいにデフォルメされている。耳が極端に顔から飛び出し、大きく口を開けたシェターニや人間。だが、そこに残虐性や悲劇性は感じられない。かえって不思議なおとぎ話の世界に登場する生き物を感じさせる。それはアフリカの持つ霊的力が描かれているからだろうか。リランガの絵にはリズムがあり、描かれた対象が楽しく踊っているように思われる。
だが、リランガの絵にはアフリカの伝統性も感じられる。先程紹介した白石の言葉にあるように、リランガ芸術の始まりはマコンデ木彫である。この木彫作品においては沢山の人間が群像的連なって彫られたものも少なくない。リランガの絵にある手や足が曲線状に絡みあっている作品の源流がマコンデ木彫にあるのは確かである。マコンデ彫刻の立体的構図が平面空間に転写されたものがリランガの絵の中核を構成していると述べ得るのだ。マコンデ彫刻の歴史はそれほど古くはなく、最も古く見積もっても300年程度であるが、この彫刻はBC.500年頃に始まった現在のナイジェリア中央部を中心として栄えたノク文化における彫刻美術の系譜を継いでいると見られている。つまりは、リランガの絵画の中にもアフリカの古くからの伝統文化が受け継がれていると考えられるのである。
アフリカの伝統性と独自性が絶妙にマッチした絵画がリランガの作品であると理解することができるが、今回の展覧会で特に衝撃的だった作品はリランガがヒロシマを描いた「広島シェターニ1:夫婦遍」、「広島シェターニ2:二人の男編」、「広島シェターニ3:親子編」、「広島シェターニ4:母親編」、「広島シェターニ5:友人編」という作品群だ。被爆地ヒロシマを訪れたリランガが創作した彩色された合板彫刻。それはマコンデ木彫作品に類似した形態をしているが、鮮やかな彩色が施されている。被爆地をテーマとした作品を日本人が制作したならば、このような作品を作ることは決してないであろう。日本人の創作した原爆投下の悲劇をテーマとした作品は良い悪いという評価は別として、いつも重く、暗く、じめじめと、べったりしており、大地にめり込み、染み込みむような作品ばかりだ。そこに創造的貧しさはないだろうか。画家の菊畑茂久馬は長崎の平和記念像の芸術的貧困性を強く批判している。歴史的出来事の大きさだけを後ろ盾として、創造性のかけらもないぼんくら作品と断言しているのだ。それに比べてリランガの作品はヒロシマ―被爆―悲劇というように日本人が一直線に結んでしまう物語性を断ち切る。断ち切るだけでなくヒロシマ―被爆の問題を新たな視点から再提示してはいないだろうか。それゆえ、われわれはこれらの作品を驚きの目を持って眺めるのではないだろうか。
リランガの美的感覚は確かにアフリカ的なものである。だが、アフリカを超えるダイナミズムを有している。それは美的創造の力であるが、魔術的な力でもある。この点について最後のセクションで詳しく検討しながら、このテクストのまとめを行いたいと思う。
ドイツの美術史家カール・アインシュタインはアフリカ美術、特に、彫刻と仮面に注目し、彫刻及び仮面作品の持つ始原的な力を強調したとディディ=ユベルマンは『時間の前で:美術史とイメージのアナクロニズム』の中で主張している。アインシュタインは『黒人彫刻』の中で、「芸術作品は運動表象に基づく時間をかけた解釈を排除したときのみ、すなわちあちこちの箇所から作品を眺め、そのつど解釈を試みるにではなく、一瞬の直観において把握したときのみ、時間を超越する。黒人彫刻は、私たちの運動体験をフォルムに統合することによって、時間を吸収する」(鈴木芳子訳:以後アインシュタインの言葉はこの著作からの引用である) と語っているが、ここで示されていることはベンヤミンが提唱したアウラという概念に通じるものである。瞬間が直線的に並んだ継続時間性を飛び越える。その飛躍性にこそアウラが存在する。
しかしながら、この飛躍性はアインシュタインやディディ=ユベルマンが主張しているように、アフリカの伝統的な彫刻や仮面作品にしか存在しないものであろうか。アインシュタインがアフリカ美術に注目したのは20世紀の初めであり、ティンガティンガ派の作品はまだ存在していなかった。だが、ディディ=ユベルマンは現在も活躍している美術評論家である。ティンガティンガ派の作品を見る機会がないとは思われないが、何故か1950年代以降のアフリカ絵画にはまったく触れていない。私の考えでは、アフリカの伝統的な彫刻や仮面作品の持つアウラを放つ時間的飛躍性 (ディディ=ユベルマンの用語に従えば「アナクロニズム」) はティンガティンガ派の絵画作品、特にリランガの作品に受け継がれているように思われる。
リランガの作品をもう一度よく見てみよう。上述したように彼の絵に描かれている人間もシェターニも西洋美術の基本である遠近法からは遠い位置にある絵画作品である。アインシュタインは「黒人芸術作品の空間直観は、立体空間を完全吸収し、統一的に表現する。遠近法や通例の正面主義は不信心ゆえ、黒人彫刻では禁じられている。芸術作品は神の全的存在をとらえ、空間的方程式をもたらすものでなければならない」と述べているが、この言葉はヨーロッパ美術の中心概念が正面主義と遠近法であることを、また、宗教的な規律から離れていったことを明確に語っている。さらに、アフリカの黒人彫刻がこうしたヨーロッパ的絵画の枠組みをはるかに超え、神との融合、原初的な力の源との一体を目指そうとしていることも提示している。この根源的なものとの融合性を目指すフォルムの創造という志向性は黒人彫刻の中にだけあるものではなく、ティンガティンガ派の絵に、そして何よりもリランガの絵に表現されたオブジェのフォルムの中に力強く示されているものでもあるのだ。
ここでもう一度、リランガが制作したヒロシマに関する作品の考察を行う必要があるように思われる。何故なら、この作品は非ヨーロッパ的な二つの異なる地域での社会・文化・歴史的な問題性が複雑に絡み合うものだからである。菊畑の長崎の平和記念像への批判には正統性がある。あの巨大なブロンズ像の何処に長崎の歴史的な悲劇性が刻まれているのか甚だ疑問だからである。ピカソの「ゲルニカ」はゲルニカの悲劇以上にゲルニカで起きた出来事を表現してはいないだろうか。あの絵によってゲルニカの無差別爆撃が歴史の一ページにはっきりと記録されたと言っても過言ではないだろう。歴史的に重大な出来事は確かに何らかのモニュメントを必要としているのかもしれない。だが、そのモニュメントにアウラがなければ、モニュメントの創造的な貧しさによって、出来事の大きさだけが強調されてしまうのではないだろうか。リランガが制作したヒロシマに関する作品。日本人として、これらの作品はあのヒロシマでの出来事を正しく表現してはいないと判断することは可能であろう。だが、リランガのアフリカ性が解釈したヒロシマに対する作品のフォルム全てをわれわれは否定できるだろうか。
リランガの作品を見ると、アフリカの強さというものやアフリカの原初性ということについてどうしても考えてしまう。われわれの東アジア的な志向性は歴史の悲劇性や事柄の重みのみを見つめて、出来事の一瞬の閃光の強烈さを捉えそこなっているのではないだろうか。リランガの捉えたヒロシマにはコミカルな軽やかささえも感じてしまうが、ヒロシマというテーマを東アジアの多雨多湿な気候の下に育まれた恨みや怒り、怨嗟、悲嘆といったものだけに限定する必然性はないのではないだろうか。アフリカ人にはわれわれとは異なる感じ方があり、彼らがわれわれと違った表現をしてもそれは当然のことなのだ。しかしながら、われわれはこうして表現されたものにまったく興味を示さず、相変わらず平和の像を長崎の出来事の象徴としている。広島の原爆ドームに匹敵するモニュメントを必要とした長崎。だが、作られたモニュメントはあまりにも凡庸で貧弱、出来事に圧倒され、朽ちていくだけの存在なのではないだろうか。それに比べて、リランガのヒロシマは少なくとも風化しようとする何かに対して新たな問いを突き付ける契機となるものではないだろうか。
アフリカ性とは何かという大きな問いに私は明確に答えることはできないが、ただ、アフリカ性の中にはわれわれにとって常識化し、忘れ去られようとする対象に対する新たな問いが内在しているように思われる。リランガの描くシェニータや人間は長い手足を曲げ、踊るようにして、跳ねるようにして、われわれに問いを発してはいないだろうか。「あなたの世界は私にはこう見える。あなたは私の世界をどのように見ているのか」と、彼の絵は語っているのではないだろうか。絵のフォルムだけではない。その原色に溢れた色彩の逞しさも、何かを語っている。「私の存在はこうだ。あなたの存在はどうか」と。強烈で、激しい他者の眼差しを通して見つめられたヒロシマの形。その問いかけを通して、異なる文化間の眼差しの対話が生まれてくるのではないか。そう思った私は、リランガの作品の新たな可能性を確かに感じていた。
はるか昔から存在する大地。はるか昔からシェニータは踊っていた。大地から大空に向けて。シェニータが踊れば、人間も踊った。ジェニータも人間も共に踊り、歌った。このダンスとこの歌は次第に遠くへ、もっと遠くへと伝わっていった。閃光が人々を皆殺しにした街にもジェニータと人間のダンスと歌がやって来た。あまりにも奇抜で、急テンポなダンスと歌を人々は唖然として眺め、怒りと嫌悪の声を上げた。だが、忘れないで欲しい。この喜劇的で、人を馬鹿にするようなダンスから生まれる笑いに大地が包まれるとき、争いが消え去っていくということを。
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〔culture0874:191104〕
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