私が会った忘れ得ぬ人々(15) 倍賞美津子さん――「どこか地が出ちゃう。化かそうとしてもダメね」
- 2019年 12月 6日
- カルチャー
- 倍賞美津子横田 喬
前回取り上げた倍賞千恵子さんの実妹・倍賞美津子さんも、姉に引けを取らぬかつての美人女優で且つ実力ある演技派として知られる人だ。随分昔になるが、今から三十五年前の一九八四(昭和五十九)年、当時『朝日新聞』記者だった私はこの女優さんを単独インタビューしている。彼女の簡便な横顔紹介を兼ね、まずは当の紙面を引こう。
――茨城ゆかりの芸能人に女優の倍賞美津子(37)がいる。東京生まれの姉・千恵子が四歳の昭和二十年、東京大空襲で焼け出され、筑波山の北の母の郷里・大和村(注:現桜川市羽田)に疎開する。田舎暮らし六年、美津子の方は疎開先で生まれた。食糧難のひどい時代のこと、「スイカやトマトを近所の畑から失敬しちゃって、おなかの足しにした。青くさいトマトの味は今でも忘れられないな」と美津子。やんちゃな個性がのぞく。
都電の運転士だった父に従い、一家は東京に戻ると下町・滝野川で長屋暮らしへ。芸事好きの姉妹はSKD(松竹歌劇団)を経て映画界入り、と同じコースをたどる。さっさとフリーになった美津子はプロレスラー、アントニオ猪木の妻となる傍ら、個性派の異色女優の道へ。映画『復讐するは我にあり』の肌も露わな体当たり演技で四年前、ブルーリボン助演女優賞。
豊かな肢体、成熟した女の美しさを買われて、テレビのCM“Ms.ニッポン”に登用され、話題を呼ぶ。カラッと明るく、「家庭第一、仕事はその次。いろんな役をやっても、どこか地が出ちゃう。化かそうとしてもダメね」。――
美津子は近年、主にテレビを舞台に活動。昨秋から新シリーズが始まったTBS日曜劇場「下町ロケット」(原作、池井戸潤)で主役・阿部寛の母親役を演じ、好評だった。柔らかい雰囲気や声などから、優しく包み込んでくれるような母親役が似合う。‘〇七年のテレビドラマ「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」で貫録あるオカン役を演じ、非常に好評。以降、主人公の母親や祖母役を演じる機会が目立って増えた。
前回の千恵子の項でも述べたように、両親は戦前の東京で市電の運転士をしていた秋田出身の父と車掌さんだった茨城出身の母のカップル。美男と美女同士の当時珍しい職場恋愛結婚である。戦後、茨城の疎開先から戻った両親と五人きょうだいは滝野川の三軒長屋で暮らす。二間と台所だけで風呂はなく銭湯通いだから、絵に描いたような下町暮らしだった。
三女の美津子は大人しかった次女・千恵子と違い、子供のころから勝気だった。末の弟が虐められていると代わりにとっちめたり、「女のガキ大将」だったとか。五つ年上の千恵子と同じく容姿に優れ、姉の影響もあって早くから劇場舞台に憧れる。が、映画には全く興味がなく、SKDをやめたら全く別な世界へ行きたかった、という。
が、二十一歳の頃、楽屋に一本の電話が入る。「勝新太郎です。映画に出てほしい」。偽物ではと疑い、怖いので友達に付き添ってもらいホテルへ行くと、本物の勝新がいる。うわぁと目を見張り、脚本を貰ったら、すごく面白い。共演に石原裕次郎・仲代達矢・三島由紀夫ら錚々たる名前も。‘六九年、五社英雄監督「人斬り」で勝新太郎が扮する土佐藩郷士・人斬り(岡田)以蔵の馴染みの女郎を演じて京都市民映画祭新人賞を受け、好スタートを切る。
同年の松竹入社第一作は森崎東監督「喜劇 女は度胸」。以後、森崎作品の常連になり、八本の映画に出演する。‘八五年の「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」では旅回りのストリッパー・バーバラ姐さんを颯爽と演じる。が、恋人(原田芳雄)は原発ジプシーという設定で、美浜原発の放射能漏れ事故~事故隠蔽へ暴力団が暗躍といった社会の暗部も描かれる。美津子は言う。
――監督は先の戦争中に青春期を過ごし、国家に対し凄く怒りを持っていた。役柄を掴もうと数日前に現地入りし、街歩きをしたり、銭湯で地元の人と話したり。土地の空気を丸ごと取り込むよう努め、役作りを工夫した。
姉・千恵子が確立した「しっかり者の長女」路線は踏襲せず、次女・三女の特質「自由でいて頼もしげ」なキャラクターで勝負に出る。ある種行き当たりばったり、出たとこ勝負の危うさは伴うが、誰もがふっと頼りにしたくなるキャラだ。スリムな体形でソプラノ声の姉と違い、胸や腰の大きいグラマーでハスキー声の彼女ならではの選択かも。
美津子は社会派志向を強め、独立プロの仕事も多くなる。演技派として転機を迎えるのが七九年の今村昌平監督「復讐するは我にあり」。緒形拳が扮する殺人強盗の妻役で出演し、全裸の入浴シーンでも話題になった。夫が家出してもへこたれず逞しく生き抜いていく生命力あふれる女性を見事に表現し、ブルーリボン賞助演女優賞、日本アカデミー賞優秀助演女優賞。美津子はこう言う。
――大変なシーンでも、役者は監督を信頼すればできる。血を吐くほど苦労して絞り出したセリフがとても大切だ、と教えて頂いた。優しくも残酷にもなれる人間の深さを教わった。
ほかにも、話題作では巨匠・黒澤明監督の八〇年「影武者」と九〇年「夢」、新藤兼人監督九五年「午後の遺言状」、市川準監督九七年「東京夜曲」などに出演。そして、八五年には前記の森崎監督「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」、神代辰巳監督「恋文」、崔洋一監督「友よ、静かに瞑れ」に出演。この三本の総合評価で、この年の数々の映画賞の主演女優賞を総取りし、日本映画界を代表する演技派俳優としての地位を確立する。
私生活では四十歳の折に、十六年連れ添った夫・アントニオ猪木と協議離婚。最初に姉・千恵子においおい泣きながら電話を入れ、「とりあえず、おいで」と家へ来るよう誘われた。
その後、ショーケン(萩原健一)との艶聞騒ぎなどもあったが、一人娘・寛子を女手一つでちゃんと育て上げ、高校~大学は米国へ留学させて無事に独り立ちさせている。
実は五十歳の時の’九七年、直腸癌が判明。患部の直腸を全摘出~人工肛門を着ける決断をし、大手術に成功する。長い療養生活から再起すべく、水泳やジム通いに励んで体力回復に努めた。夜は読書に当て、オルテガ・イ・ガセットの哲学書などを読み耽り、「心の貴族たれ」という言葉に励まされた、という。映画雑誌のインタビューに、「菩薩とマリアと、エロス。そういう女性に、私はなりたい」と答えている。
その少し前、倍賞姉妹は月刊「婦人公論」誌上で六頁にも渡る長い対談を交わしている。美津子の娘・寛子が赤ん坊だった時分、千恵子がベビー・シッターとして泊りがけで面倒を見たり。代わりに、千恵子が運悪く骨折した際は美津子の許に一か月も居候し、トイレの付き添いから入浴の世話まで面倒を見てもらったり。姉妹の親密さがつぶさに紹介される。美津子が「先に道標を作ってもらい、感謝している。凄い先輩」と呟けば、千恵子も「そんじょそこらに居ない(立派な)役者さん」と讃え、エールを交換し合っている。
仲が良く、共に一流であり続ける姉妹はなかなか居ない。父母の代に地方から上京してきた「東京二代目世代」の最も有名な成功例でもあろう。学歴や肩書に依ってではなく、仕事の場で独力で己を磨き上げた女性たちゆえ、とりわけ感服する。
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