反論「尾崎秀実の14日逮捕」は誤りか─「太田耐造資料」からゾルゲ事件端緒説を追う─(その4)
- 2019年 12月 6日
- スタディルーム
- ゾルゲ事件太田耐造渡部富哉
一)槙野亮一「尾崎秀実の14日検挙はあり得ない 」に反論する
1)書評「孫崎享著「『日米開戦へのスパイ』東條英機とゾルゲ事件」「日米の権力
者は『ゾルゲ事件』をいかに政治利用したか」 2
2)朝飯会と佐々弘雄に関する尾崎秀実の供述 5
第2回掲載………………………………………
3 )「南方調査の方法と企画を語る座談会」は14日夜に行われたのか 6
4 ) 三宅正樹(明治大学名誉教授)の14日検挙の否定説は編集後記の1行 10
第3回掲載………………………………………
二)尾崎秀実14日逮捕の裏付け調査に反論できるか
1)四谷駅橋上の高橋ゆう・古在由重会談と松本慎一 12
2)尾崎逮捕は藤枝丈夫を三菱美唄炭鉱に走らせた 13
3)中村哲(法政大学長)は証言する 14
4)石堂清倫の体験記録「検束と勾留」 15
5)北林トモの検挙はエディットと息子ポールの国外脱出の直後だった 15
6)ゾルゲを取り調べた特高外事課の大橋秀雄警部補の証言 18
7)尾崎秀実14日検挙の根拠に反論が出来るか 19
第4回掲載………………………………………
三)内閣書記官長『風見章日記』から何が読み取れるか
1)槙野亮一は『風見章日記』を読んだのか? 23
2)尾崎秀実は日本共産党員だった 24
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「尾崎秀実の訊問調書」 24
四)「ゾルゲ事件新聞記事発表文」に対する稟議書
1)検挙月日の公表は禁止する 25
2)新聞記事の公開になぜ「事件の端緒」が発表されなかったのか 27
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「、尾崎秀実の訊問調書」 28
特別報告
伊藤律ゾルゲ事件端緒説を覆す太田文書の手書きの部分を解明する
1)「北林トモに関する供述は青柳喜久代から」担当した検事たちの証言 32
2)太田資料の鉛筆の書き込み文書を解明する 34
3)ゾルゲ事件の検挙を指揮した検事たちの回想と証言 36
4)伊藤律遺稿・「ゾルゲ事件について」は語る 36
5)青柳喜久代とアメリカ帰りのおばさんという人 37
6) 伊藤律ゾルゲ事件端緒説はこうして作られた 39
三)内閣書記官長『風見章日記』から何が読み取れるか
1)評論家・槙野亮一は「風見章日記」を読んだのか?
評論家・槙野亮一が引用している「風見章日記」についても触れておきたい。
「兄の記録の裏付けをとるため、佐々淳行は有馬と風見の日記を調べた。しかし、なぜか、11月14日前後の記載はない。本来あるべき記述が削除されたのではないか」と書いている。(注、11月14日前後の記録ではなく文面からすると尾崎秀実逮捕の10月14日前後ではないか)
同書は5年ほど前に早稲田大学から出版されたが、槙野亮一は「風見章日記」を読んでいないと思われる。これは槙野亮一が孫引きしているようなものではなく、決定的に重要なことは、尾崎秀実の逮捕当時だけではなく、第一次近衛内閣成立当時の日記から、尾崎秀実に関する重要な記録の総てが『風見章日記』から消去されているという事だ。同「日記」によれば、尾崎秀実のゾルゲ事件に関する新聞記事が解禁されて発表された時は、刑事2人が風見章の私邸に張り込んでいた、と書いている。
風見章の行動の監視とともに、連絡に来る者の検挙もその任務のひとつだったのだろう。尾崎秀実の逮捕に関し解禁された新聞記事に関する風見の感懐は何も書かれていない。日記には当然書かれるべきはずの尾崎秀実の死刑判決や処刑執行についての感想も書いてない。極めて一般的な交際のことや記録は書いてあるが、尾崎と風見が関係する政治的な重要な記録の箇所のすべてを日記から抹消したのだ。
松本慎一が戦後書いた尾崎秀実の処刑前の教戒師と尾崎秀実の会話のやりとりなどを含めて、戦後になって尾崎秀実の処刑当日の日記に転載、引用して、日記の体裁をとりつくろったことは明白だ。つまりこの部分は後に挿入した作文ではないだろうか。その当時、日記に記録されたものではない。
当時、尾崎秀実の検挙を知って佐々弘雄(当時朝日新聞論説委員、専務理事)など尾崎秀実と交際のあった人たちは、尾崎秀実が逮捕されたとわかった途端に、「日記」「手紙」、「記録」類のすべてを焼却処理したという。犬養健や西園寺公一などでさえ検挙され、取り調べられたのだからそれは当然のことだろう。この風見章日記も同じことだ。最初に尾崎と関係する書類や手紙などすべての記録を焼却したのは素早く情報を入手した佐々弘雄ご本人ではなかったか。佐々弘雄は尾崎秀実によって朝飯会に参加したメンバーだったからであり、同僚の田中慎次郎(当時朝日新聞専務理事、論説委員、当局資料によると政治経済部長)でさえ検挙され取り調べられているのだからそれは当然の措置だろう。
評論家槙野亮一がここまで記載するなら、現在『風見章日記』は早稲田大学から出版されているから一読の上で反論すべきだっただろう。「風見章日記」には第一次近衛内閣成立のゾルゲ事件と尾崎秀実に関する最も肝心な時期のすべては抹消されている。尾崎秀実の検挙当時だけではない。しかし「日記」には尾崎秀実の処刑後、山手線の車中で尾崎秀実の妻英子さんと尾崎秀実の処刑50日後に会った回想や、細川嘉六、伊藤律などについての興味のある貴重な記録も多く書かれている。
『矢部貞治日記』によると、「21日、古井の話では尾崎は警察に捕まっているとのこと」と書かれ、同16日には「内閣総辞職を報ず」、翌17日には「夕方、東條英機陸軍大臣に大命降下を報ず。どうも割り切れぬ」と書かれているが、「朝飯会」のメンパーはもう少し早く尾崎逮捕の情報を入手しただろう。15日の朝飯会に尾崎秀実が出席しなかったからだ。
2)尾崎秀実は日本共産党員だった
拙文「尾崎秀実は日本共産党員だった」についても一言付け加えたい。従来は「尾崎秀実は日本共産党員ではなく、もっと上位のところに登録された秘密党員だ」などという供述調書の二番煎じの様な意見が主流であり、尾崎秀樹などによって定説化されていた。
「もっと上位のところとはコミンテルンに登録されていた秘密党員」だなどという者がいたが、コミンテルンは個人を対象にする組織でないことは共産党員ならば常識だ。
(注、例外として中国の宋慶齢(孫文の未亡人)の場合があるそうだ。のち彼女が死ぬ直前の1981年5月に本人のたっての希望により、中国共産党籍が与えられたという。長堀祐三教授の教示による。)
尾崎秀実の場合はソ連赤軍第4課に登録されており、ゲオルギーエフ氏からその記録の内容の説明を受け、表紙だけをコピーしてもらった。公開の許可がおりていないからだという。筆者が執筆した当時、会報編集者から、「尾崎秀実が日本共産党員だとするその根拠は何か」、「それは伝聞ではないか、他に根拠はないのか」「裏付資料がないのか」などとしつこく聞かれ、「伝聞」ではない。「証言」だと拙文の全文の解説をしても、なおも繰り返し質問され、説明する意欲を失った。非合法時代の共産党の入党の証拠、裏付けなどは本人及び推薦者の証言しかないのだ。それは入党紹介者及び本人の供述がない限り分からないのが原則だ。石堂清倫氏が言う通り、「共産党の飯を食った者でなければ分からない」のだろう。
ところが上記の『風見章日記』によれば、「昭和18年6月19日、斉藤茂一郎氏の招待にて歌舞伎座裏の京亭にて昼食す。近衛公のほか牛場友彦、岸道三、白州次郎三氏も同席す。
近衛公曰く、尾崎秀実の公判には20名ほどの特別傍聴人在りたるが、その中の一人より富田前内閣書記官長が伝聞したりとて語れるところによれば、尾崎は頗る冷静なる態度にて裁判長の訊問に答え、且つ率直に共産党員たるを自認したる由なりと。また曰く尾崎は風見よりは何事をも探知し得ざりしことを言明したる由なりと。」(『風見章日記』200頁)。
こうしてようやく拙文「尾崎秀実は日本共産党員であった」が裏付けられた。
以上でわかる通り評論家・槙野亮一論文や三宅正樹教授の主張は拙文「尾崎秀実14日検挙」説の反論には全くならない。
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「尾崎秀実の訊問調書」
上記によると、「昭和16年10月15日、目黒警察署において検事玉沢光三郎は裁判所書記大塚平八郎立ち会いの上、右被疑者に対し訊問すること左の如し」─(いわゆる「人定訊問」)というのは、14日に宮下弘、高橋与助ら特高が尾崎秀実に拷問を加え、深夜になってようやく尾崎秀実の自供を得た。その報告を受けて、翌15日、検事玉沢光三郎がいわゆる「人定訊問」といわれる第一回目の供述をとった。そこに保身にたけた官僚の対応があったと書いた。エリートである検事は凄惨な拷問の現場には立ち会わないのが通例である。
伊藤律が39年11月に検挙されたときも逮捕状などはなかった。「参考人の事情聴取」は治安維持法違反容疑者にはよく使われた手法のひとつだ。「勾引」は検挙と区別されていた。英子夫人の回想も14日は参考人の事情聴取であり、15日「勾留」=検挙された日が記憶され、「15日検挙」を固く言い渡されたのだ。
四)「ゾルゲ事件新聞記事発表文」に対する稟議書
1)検挙月日の公開は禁止する
ごく最近、毎日新聞記者から「ゾルゲ事件記事解禁に関する内務・司法両当局談」の稟議書(太田耐造資料)を国会図書館でコピーし、筆者にコピーが送られてきて、検討した。言われてみればそんな資料があるだろうとは思うものの、実物を拝見するのは初めてのことだ。よくぞ米軍情報部の押収を免れたものだと思った。
加藤哲郎教授よると、「太田耐造資料」はかなり膨大なもので、ゾルゲ事件関係資料だけでもみすず書房の『現代史資料・ゾルゲ事件』(全4巻)に匹敵する分量であり、前述した「歴史のなかでのゾルゲ事件」もかなり訂正する箇所があるという。何よりも水野成、犬養健、西園寺公一などの訊問調書など、みすず書房で収録されなかった資料がかなり大量にあるという。なかでも昭和天皇に対する「上奏文」が最も貴重な資料だという。この資料の詳細は加藤哲郎教授が報告するだろう。その目録を見るだけでもその分量の多いことに圧倒される。ゾルゲ事件研究は次世代に引き継がれる第二段階に入ったことを実感させられる。
司法省の記事解禁に関する、各省庁にたいする稟議書は、全文50頁ほどのタイプ打ちされたもので、ゾルゲ事件の記事解禁に当たって、司法・内務当局の談話(素案)の稟議書に対する、内務、外務、検察など関係省庁の意見書である。
表題は「国際諜報団事件に関する司法当局談」と記されており、解禁された新聞記事の本文は吉河光貞検事が執筆したとされている。
ゾルゲ事件に関する記事が解禁されたのは1942年5月16日のことであり、当時の新聞のタイトルは「『国際諜報団』を検挙 首謀者内外人五名起訴」(朝日新聞)とあり、その下部に「片言隻語も心せよ 不用意の中に機密漏洩」のタイトルで「司法・内務両当局談」と書かれている。
今回、発掘された資料はこの「司法・内務両当局談」の稟議書の素案に対する各関係当局の意見によって改定を積み重ねたものである。それを解禁された新聞記事と対照すると、どこが、どう改定されたのか、当局にとって不都合の箇所を具体的に知る事ができる。
最初の頁には司法省の稟議書(素案)に対する「内務省意見」が記録されており、本文(つまり素案)を黒く塗って、横に訂正文(内務省側の意見)が書かれ、鉛筆書きでその横に(1)「ドイツ大使館との関係・協力に対して感謝」などと書かれている。
時間の関係で筆者の「14日、尾崎秀実検挙説」に関連して、その稟議書はどのように扱われたかという極めて興味がある点に絞って以下報告する。
まず注目すべきは大審院検事局の意見(昭和17年5月13日)である。
─、検挙の日時を明確にするの要なきや、
二、重要機密事項等の記載中重要という形容詞を一般的に削除するの要なきや
三、諜報団の活動項目中第一枚目裏面7行の「漸次獲得し」を適当に緩和すること。
四、司法当局談中第2枚目の5を削除せられたし
五、西園寺公一に対する犯罪適示中「憂国有士」の「憂国」を削除するの要なきや
以上の大審院検事局の意見の5項目に対して、一項から五項のうち第一項、については×印。(つまり許可せず)二、は◎、三、四、五は「済」と決済が書かれている。
外務省非公式意見(昭和17年5月14日)は以下の通りである。
一、写真の掲載は絶対的に禁止する様せられたし
二、諜報団の活動状況の項目中二枚目の二行目「帝国の国策…策動し」を削除せられたし
三、司法当局談中、第一枚目6行目「もし…………慄然たるものがあるのである」を削除せられたし、
四、同当局談中第二枚目の五を削除せられたし、
五、西園寺公一の肩書中外務省嘱託を削除せられたし、
(以上の外務省非公式意見の総てに「済」との記載がある。この他に新聞記事掲載要領が以下の通りある。
一、発表文(司法省発表及当局談)以外に亘らざること。
二、本件に関する記事差し止め並びにその一部解除を為したる事実に触れざること。
三、記事の編集は刺激的に亘らざる様注意すること。 例えば
(イ)トップ扱い、その他特殊扱いを為さざること、
(ロ)四段組以下の取り扱いを為すこと、
(ハ)写真を掲載せざること
(以上について筆者は稟議した文書と新聞発表の双方を対照した記録を作成した。講演会当日、解禁された新聞は拡大コピーして展示することにしている。)
大審院検事局意見の(─)、検挙の日時を明確にするの要なきや、に対して、×が記されている。これを以て三宅正樹教授と評論家・槙野亮一から筆者への質問に対する回答にならないだろうか。
つまり大審院検事局の意見に対して、尾崎秀実の検挙の日付の公表は許可されなかったのだ。大審院検事局がとりまとめた意見に対して×印をつける大審院検事局を監督する立場にいる人物(または上部機関)は一体誰なのか? 因みに×印は5項目中この1項目だけである。従って解禁された新聞記事には当然ながら尾崎秀実の検挙月日は書いてない。
①それは単に記事公開に「大審院検事局が許可しなかっただけだ」、と受け止めることができるだろうか。この×印はもっと積極的な当局の意思表示と、その後の取り扱いを示していないだろうか。事実経過を詳細に調べた筆者にはそのように受け取れる。それが「14日検挙」の事実を隠蔽したことに結びついていると思える。
だが筆者にはそれが誰であり、どんな事情があったのかは政局絡みのことであり、国家権力の最深部の極秘の指令だから分からなかった。孫崎享著書は筆者の及ばなかったその点を追及した論稿ではないだろうか。
2)新聞記事の公開になぜ「事件の端緒」が発表されなかったのか
どんな犯罪でも新聞記事ともなれば「犯罪の端緒」の記載は欠かすことが出来ない重要な項目のひとつのはずだが、ゾルゲ事件の記事解禁には肝心な「事件発覚の端緒」が書かれていない。どうしてこの事件が発覚したのか。掲載した毎日新聞の記者もそこに目が届かなかった。これはゾルゲ事件の伊藤律端緒説と密接に結びついている問題だから、当然、そこにどんなことが書かれているか取材を受けたときに真っ先に目が向けられるが「太田耐造資料」の「新聞記事発表文」の稟議書にはこれに関することは何も書かれていなかった。
この問題は既に拙著『偽りの烙印』(五月書房1993年)第3章「伊藤律端緒説の謎を追う」のなかで「なぜ新聞記事解禁時に端緒説を公表しなかったのか」と小見出しを付けて詳述しているから『偽りの烙印』をご覧願いたいが、概略次のように書いている。
「その紙面のどこにもいつ、どういう経緯で捜査当局がこの事件を探知したのか、つまり事件の端緒については一言も書いてない。外事課の大橋秀雄によると、警視庁から東京刑事地方裁判所検事局に関係者が事件送致する際の意見書中『犯罪発覚の原因』は「尾崎秀実及び宮城与徳両名は省略として伏せてあり、ゾルゲ、クラウゼン、ヴケリッチら三名の外国人には尾崎秀実及び宮城与徳の検挙取り調べによる」としてある。
後に定説となる「伊藤律端緒説」は記事公開から3ヶ月後の昭和18年8月分の「特高月報」に初めて出現するのだ。この権力の最深部の刊行物が世人の目に触れることはあり得ないが、日本帝国主義の敗戦がそれを可能にした。1949年2月のウイロビー報告がそれである。記事が公開された時にそれが書かれなかった理由は「伊藤律年譜」を詳細に記録したときに気がついた。新聞発表から半月後の6月4日、伊藤律・長谷川浩の予審が終結し二人はともに6月28日に保釈出所となった。
特高や思想検事たちは伊藤律が保釈になることを考慮に入れて「伊藤律端緒説」の発表を控えたのだ。収監され隔離された政治犯がシャバに出れば真っ先に新聞をむさぼり読むことは当然であり、ましてや尾崎秀実の身の上を案じていた伊藤律のことだからそれは当然だろう。“伊藤律端緒説” が若しこのとき公表されれば、思想検事が仕掛けた罠はたちまちばれてしまうし、伊藤律は存在を賭けて徹底的に否定し、抗議するだろう。
それが戦中のことでもあり、若し出来ないとしても今後のために記録して残しておくに相違ない。思想検事はそれを恐れて公表しなかったのだ。
後に伊藤律がそれは罠だったと気がついたのは27年間の異国の獄中生活の中で、きびしく自己と対決しながら、克明に記憶を呼び起こし、張り合わせていくという壮絶な作業を経なければならなかった。」と『偽りの烙印』は伊藤律からの「インタビュー」によって書いている。
(ゾルゲ事件の端緒については後述の「伊藤律端緒説を覆す太田耐造文書の手書きの部分を解明する」でさらに詳細に検討する)
3)「現代史資料・ゾルゲ事件」2巻「尾崎秀実の訊問調書」
「「特高月報」昭和17年8月分「国際共産党対日諜報団並びに軍機保護法、国防保安法
秀実の10月15日検挙説であり、定説の根拠のひとつになっているのである。一般の社会人にわかるはずはない。
14日に逮捕された尾崎秀実は特高による熾烈極まる拷問を受けた。この事実を隠蔽する
ためという事情もあったのかもしれない。または孫崎享の著書に記載されている東條内閣誕生にまつわる国家権力の最深部の暗闘もあったのであろう。
『愛情は降る星のごとく』によって「15日検挙」が広まったことは事実だろう。尾崎秀実自身が「15日検挙」と発言していることは既述の通りだ。家族にどうして「勾引」と「勾留」の区別が理解されるだろうか。14日の「勾引」はやがて夫はそのうちに帰ってくるだろうという期待があったのだろう。そのために英子夫人には尾崎は「娘は学校に行ったか」と聞きながら、妻には言葉も交わさず引き立てられて行ったという。しかし当日の深夜に尾崎秀実は自供し、「勾引」は翌日になって「勾留」=(検挙)に代わった。
従って遺族には「尾崎の検挙は15日」と言い渡されたのだろう。
「愛情は降る星のごとく」を引用するのは妻英子が「尾崎秀実の検挙は15日」としている からであり、当局も捜査の都合上、「14日勾引」は固く口止めされた。それは宮城与徳の検挙にも実例がある。宮城与徳の検挙を知らずに訪れた九津見房子、秋山孝治、他が次々に検挙された事が前述した「特高月報」に記載している通りである。
14日検挙の事実を知っている者は尾崎秀実の他には妻英子と娘の揚子しかいない。(多分、松本慎一はのちに真相を知っていたと思われる。何故なら「尾崎秀実の検挙の2日後、近衛内閣は崩壊した」と書いているからである。)そのことを遺族に確認した者がこれまで一体誰かいただろうか。誰もいなかったではないか。
筆者は拙文「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」(2005年11月、尾崎・ゾルゲ墓参会の報告)に前述した米国議会図書館の資料「尾崎秀実14日検挙記録」を添付して、今井清一教授(注、尾崎秀実の娘揚子の連れ合い、横浜市立大学名誉教授)に「前掲書」とともに送り、14日尾崎検挙の確認をもとめた。記録が残っていないから期日は不明だが、拙文を送ったのは多分2005年の拙文の発行当時のはずだ。
当時、今井清一教授から「その米軍の資料の存在は知っている」という返事があり、『尾崎秀実著作集』の月報があることなどの回答があったが、そのほかのことは何も書いていなかった。
2017年になってから日露歴史研究センターの会報が50号で停刊と決まったころ、突如、今井清一教授から連絡があり、続いて本年1月、今井清一教授から本文に引用した米国議会図書館資料の「尾崎秀実10月14日検挙」の資料のコピ―が送られてきた。しかしその資料についての感想や意見は何も書いてなかった。この事実をどのように理解すべきだろうか、それは遺族の意向と筆者は受け取った。
以上で三宅教授の質問と評論家槙野亮一論文に対する筆者の回答は紙数がないので終わるが、太田耐造資料の公開というこの機会にもう一度「歴史家」としての今井清一教授に本文を送って意見を求めることにする。
ゾルゲ事件研究は現状を動かすものにはならないか。
評論家槙野亮一の一文についても反論しておきたい。槙野亮一は次のように書いている。
「ゾルゲ事件の裁判記録を読むとゾルゲが日本陸軍将官から直接入手した情報や、駐日ドイツ大使館付武官から間接的に入手した軍事上の情報があったが、入手経路は一切排除破棄されてしまっている。ゾルゲ・尾崎情報に軍関係のものがとぼしいといわれるが、乏しいのではなく、権力の中枢からの排除の意図が貫徹していたと言わざるを得ない。
これらの日本側の事情に加え、旧ソ連・現ロシアの公文書館に所蔵されているゾルゲ関係文書(ゾルゲの多数の報告電報とそれに対する上級機関の評価・処理結果など)が公開されていない。しかも、その公開は当分、期待し得ないのである。したがってゾルゲ事件研究を試みても、現状を大きく動かすものにはならない」。と結論している。
軍事上の情報がなく、入手経路は一切排除破棄されていればゾルゲ事件研究は成り立たないのか。そんなことは最初から承知の上で日露歴史研究センターを立ち上げたのだ。これが1996年以来22年間継続してきた日露歴史研究センターの最後を飾る評価なのか。この評論家は「特高月報」とみすず書房『現代史資料・ゾルゲ事件』だけにたよって結論している。
1936年にGRU(ソ連赤軍第四部)からゾルゲに対して「現役の陸軍の将校を獲得せよ」
との指令がきた。恐らくゾルゲにとって最大の難問だったのでないかと思われる。宮城与徳が組織した中には陸軍伍長の小代好信(下士官)の存在は明らかになっているが、これまでは「陸軍の将校の獲得」とは小代好信だと思われてきた。ところが警察庁の資料によるとそのほか、陸軍中尉橋本隆司の存在が明らかになり、「北樺太国境付近の警備状況、上敷香の兵営について、また軍特務機関の構成、①東亜局、欧局、米局、洋局及び、②ハルビンに於ける教育実情、③特務機関の土肥原中将について、などの情報が宮城与徳を通じてゾルゲに通報さされていたことも明らかになっている。勿論これは槙野亮一がいう通りないに等しい微細なものだ。
「太田耐造資料」のゾルゲ事件関係部分の公開は次世代の研究者に引き継がれ、ゾルゲ事件研究を加速させることになることは間違いない。復刻の作業もすでに始まっている。(注、『ゾルゲ事件史料集成・編集復刻版・太田耐造関係文書【全10巻】』編集・解説加藤哲郎、不二出版)加藤哲郎教授によるとその膨大な資料の中でも最も貴重な資料は「天皇に対する上奏文」であるという。
筆者の個人的な研究の継続から見ると何と言っても次に述べるようにゾルゲ事件の端緒がこの資料によって完全に解明されたことだ。さらにこれまで誰も試みなかった中共諜報団事件に関する中国側の3人の主要な人物の訊問調書が公開され、日本側の中西功や西里竜夫の訊問調書、さらに水野成、川合貞吉などの調書が公開されたことだ。日露歴史研究センターでは2013年9月に上海で第9回国際シンポジウムを開催したことで日中相互の研究者の交流が進んだが、さらにこれを加速させることは間違いない。
評論家槙野亮一が締めくくった結語とは全く異なった世界がいま広がろうとしている。
筆者はアンドレイ・フェシューン氏から提供され、後に『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』(社会評論社、2003年)に掲載された「秘録ゾルゲ事件─発掘された未公開文書」やNHK取材班下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』、チャルマース・ジョンソン著『尾崎・ゾルゲ事件─その政治学的研究』などの著作を生み出し、現在ではミハイル・アルキセーエフ著『中国に於けるソ連軍事諜報機関・1930年~1933年』が会報に連載中だったが、アンドレイ・フェシューン氏によればゾルゲの中国時代の活動でわからないことは何もないという。そのアレクセーエフ氏は、次は日本に於けるゾルゲの活動について書くという。
当然そこにはロシア側の資料が公開されるだろう。
少なくともここには戦後生還してソ連に帰国したマックス・クラウゼンの極秘電報による通信の実情が書かれるはずであり、駐日大使館付武官のイワノフ中将との連絡の実体験が記録されるだろう。ドイツ大使館に於けるゾルゲの活動も当然記録される。
今回公開された太田耐造資料の公開も、或いは日露歴史研究センターの会報が国会図書館に毎号寄贈されてきたという実績も多少は影響したのかもしれない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1090:191206〕
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