ヘーゲル研究会余禄―動物権animal rightから自然権nature rightまで
- 2019年 12月 13日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
先ごろのヘーゲル研究会に、長く闘病生活を送られたU先生も快癒して久しぶりに出席。ヘーゲルの専門研究者不在で、ほぼわれわれデイレッタントだけで進められてきたこの2年間だったので、なにかほっとした感がありました。「法哲学」の序論と緒論にかんし、たまたまその回の報告者だった私は、やや緊張した面持ちで、まずヘーゲルが法の理念を自由とし、法哲学体系の出発点として自由意志を措いたことの絶大な意義を強調しました。日本でもそれほど昔でもない我々の親の世代(戦中派)までは、法の理念なり目的は国家意思の貫徹であり、個人はそれに仕える限りでのみ存在意義を有するとされていたことを考えると、ヘーゲルの法理念は近代へのパラダイム転換を体現しており、まさにフランス革命の遺産相続という意味を持つと述べました。個人は国家のためにあるのではなく、むしろ国家の方が個人に対してその存在理由を立証しなければならないということになったーーこういうのを「挙証責任の転換」というのだと、もう半世紀も前にわが敬服する内田義彦教授の著書から教わったのです。
そのときU先生は私の報告にコメントするのかと思いきや、突然「愛」についてどう思うかという問題提起をされた。たしかに若きヘーゲルはある時期、キリスト教の愛を哲学的な原理として現実(既成性)との葛藤と宥和ということを主題にして所論を展開していたことがありました。しかし法哲学の緒論でいきなり愛では私も正直面食らってしまいました。ただしそのあと先生はカトリックの孤児院で育てられたという背景を持つ方だと知り、愛へのこだわりに納得がいったのですが。
U先生は最初につづく研究会でも、突然「動物に人権はあるのか」と問いかけられ、これにも我々一同やや困惑せざるを得ませんでした。しかし困惑はさせられたものの、私は研究会のあともしばらくこの問題提起が脳裡から離れませんでした。そんな折も折、私は動物の人権にかかわるショッキングな事実を知ることになります。
「メス牛はどうして毎日乳が出るのか」――思えば不思議なことですが、答えはコロンブスの卵めいていますが、妊娠しているからでした。人工授精で「強制妊娠」させて、妊婦状態にして乳を搾り取るのです。まさに搾取であります。メスの成牛は、出産後数か月の休養期間を除いて廃牛になるまで、ずっと妊娠状態を強いられるそうです。したがってメスの乳牛は廃牛時には肉体は超過搾取の結果ボロボロになり、食肉にはならないそうです。
そのうえ、日本では放牧飼育はほとんどなく大概がつなぎ飼育ですから、それは牢獄生活に等しく、動物として野山を駆け巡り草をはむ自由も奪われているのです。ブロイラーもそうですが、アメリカ式大規模工業式農業がいかに動物たちから動物らしく生きる権利を奪っているのか、農業生産性がいかに動物たちの犠牲の上に達成されたものであるのか、少しだけ考えただけでも理解できます。
ところがこの動物権の侵害についてのU先生の啓発につづいて、口惜しくもアフガンで暗殺された中村哲医師から、重大なインスピレーションを授かることになりました。
「川にだって意思も人権もあるんだ。それに逆らってはならない」、と。
自然に内在する条理に逆らってはならない、逆らえば、自然は必ず仕打ちをするという、一見中世風の教えですが、これこそ人類の知恵というべきであり、21世紀のコンセプトなのです。人権概念や人間の尊厳理念が、人間にとどまっている間は人間は己のエゴからまだ自由ではなく、したがってその狭隘性のために人権度や尊厳度の位階制がつきまとうのです。人権の旗手だったはずのスーチー氏が、ビルマ族仏教徒にムスリム・ロヒンギャよりもより多くの人権性や尊厳性を感じてしまう悲喜劇が生まれてしまうのです。
いずれにせよ、三人寄れば文殊の知恵、瓢箪からコマではないですが、研究会から学ばせていただいているその一端をご紹介しました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9258:191213〕
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