4-1.イエスの変貌-始祖(教祖)としての権威化と使徒たち
前回(その2)の終わりで、イエス自身の、また取り巻き組織(教団)の変質について触れ、またそれに対するユダのイエス批判(反発)があったのではないか、と述べた。私は、当然この三者は密接な相関関係にあったとみている。
しかし、ユダに関する記述や追跡調査記録は、管見による限り、四大福音書にごく簡単に触れられている以外にはないようだ。それ故、この問題を追いかけるには、逆に、イエスおよびその教団の変質から類推するほかないのではないか。そこで今回は、イエス自身がどのように変わっていったか、またそれと並んで取り巻きの門弟たち、とりわけ使徒たちがどう変貌していったかを追いかけてみたい。もちろんあくまでルナンに即してではあるが。
この本によれば、若きイエスの人柄は、やさしく思いやりがあり、誠実で、繊細な感覚の持ち主である。しかし少々一本気で情熱的な性格だったようだ。また、よく知られているようにイエスもその父(ヨセフ)も職人(木匠=大工)であった所為か、宗教家(教祖)としてイエスが独り立ちした時にみられた多分にエキセントリックな振る舞いには、職人気質によく見受けられる一徹さがあったのではないかと私には思える。
既に触れたが、イエスの生地は、ガリラヤのナザレである。ここはそれまでに一向名が知られていなかった。その「ナザレ人」であるイエスが、どうして「ベツレヘム」生まれに変えられていったのだろうか、このことも、この「イエスと教団の変様」と大いに関係している。
ここでは若いイエスの性格などをあまり詳細に追いかける余裕はないので、大雑把な素描だけでご勘弁願う。
若い頃のイエスの人望は、主にそのやさしさ、愛情の深さに起因していたと思える。だから子供や女性には特に愛されていたという。使徒以外に女性の弟子が多かったのもうなづける。
イエスの神は、旧約聖書に出てくるアブラハムと異なり、「心の内なる神」である。アブラハムの神は、外なる超越神であった。それゆえ神により彼の信仰の度合いが試された時、彼はいとし子のイサクを神に献げようとした(燔祭)。しかし、イエスの神はそれと全く異なる。ここにイエスの教えの独自性があったように思う。ルナンは次のように述べる。
「イエスは妄想を持たない。神は彼の外にある者に向かってのようには、彼に語らない。神は彼のうちにある。彼は神とともにいることを感じている。彼は「父」について語る事柄を彼の心中から汲出すのである。彼は絶えざる交わりによって神の胸中に生きる。彼は神をみない、が神の言葉を聞く。…イエスは自分が神であるという不敬な考えを一度も述べてはいない。彼は自分を神と直接に交わるものと信じ、神の子と信じている。人間の胸中に存在した最も高い神の意識は、イエスの抱けるそれであった。」
このような自己の内なる「敬神」に基づく、いわば「私的宗教」に等しいはずのイエスの宗教が、それならば、なにゆえに教団を形作り、公化することになったのか、この問題へのアプローチは普通考えられるほど容易くはないと思う。
というのは、このような私的な宗教を担う教祖は、教祖というよりは教師(例えばソクラテスのような)に等しい。取り巻きの集団も、教団というよりはもっとソフトな結びつきの、家族、兄弟関係と考えるほうが自然であろう。このようなハイミッシュ(heimisch)な集団から、教団といった「固陋」あるいは「孤陋」な組織が生まれる由はないはずだからだ。
実際にルナンもこの『イエス論』の結論部でこう書いている。
「彼の教理は、少しもドグマ的なものでなく、彼はそれを決して書こうとも、書かせようとも思わなかった。これこれのことを信ずるからででなく、彼の人柄を慕い、これを愛するから、彼の弟子であった。彼の話を聞いた人々の記憶に従って集めたいくらかの文章、および、特に彼の道徳的模範、彼の残した印象、これらが彼に関して残ったところのものである。イエスは教義の建設者でなく、信条の作者でなく、世界の新精神に通ぜしめた人である」。
それでは、かかる「ゲシュタルト・チェンジ」(形態変換)が生じたのは何に起因するのであろうか?当然予測しうるのは、様々な対外的な関係の変化とそれに応じて起きるであろう組織内部の変化ということである。
この書によれば、その最初の転機が訪れたのは、バプテスマのヨハネのもとから離れてガリラヤに帰郷した頃のことだという。
「(イエスは)ヨハネのために布かれた厳密な取り調べにかけられるのを恐れた。そうして一向自分が有名でもないのを見れば、死んだとてそれが自分の進歩に何ら役立つはずのありえないこの時に、危機に身をさらしたくはなかった。彼は重要な経験をして思慮を深め、自分とたいそう異なる偉大な人間との交渉から、自分自身の独創性への自覚をくみ取って、真の故郷、ガリラヤに戻った」。
この文の後に続いて、ルナンはイエスが「権威者」として振る舞い始めたということを指摘している。彼は自分を「神の子」であり、「『父』の心を知る者」として、「世界の改革者」と考えるようになったという。
だが残念ながら、このきわめて重要な部分へのルナンの追究は粗雑である、そこに何らの必然性も見いだせないからだ。ただ次の点だけは大いに留意すべきである。というのはこの点にこそイエスの創始した宗教の根本的な考え方(本質)があると思われるからだ。
「自然そのものをさえ含む根本的改革、かかるものがイエスの基礎的思想であったわけである。爾来かれは政治を放擲したようだ」。
「イエスは、ある意味で無政府主義者である。彼はこの世の政治について何の観念も持たないからである」。
「世界の改革者」イエス・キリストの目指すものは、現実世界の変革による民衆の安寧ではない。「自然そのものをさえ含む根本的改革」とは、天国(神の国)における平安であり、神に近い場所に座ることでしかないといえる。実際にこの本の中で福音書から引用されるイエスの説教は、全てがこの目的に沿ったものと言って過言ではない。
イエスは、アブラハムが外部に置いた「神」を、われわれの心の内部に据え替えた。しかしその神は、実際には、ユダヤ教と同じく「内なる外(他者)」でしかないのである。例えば、イエスは「徳」の大切さを説く。アブラハムの戒めは、モーセと同じく外なる超越神によって命ぜられる戒律である。それに対して、イエスは自己の内奥にその超越神を置き替えてはいるが、「戒律」という点では変わらないのである。この点をルナンは必ずしも明確には捉えきれていないようだ。この「戒律」性は、イエスが自己と神との一体性をより強く感ずるにつれて、外部への「命令」という性格を帯びてくる。
「イエスは、次第に命令的となってゆく。一思想に付きまとわれ、今後はその驚くべき天資とその生活の異常な環境とが拵えた道を、一種の宿命的平静をもって、歩いてゆく。…今後彼の教えは公となり、盛大となる」。
「『人の子』というのはセムの諸言語、特にアラムの方言では、単に『人』と同義語である。しかしダニエル書のこの重要な章句は、人々の心を打った。そうして『人の子』という語は、少なくともある宗派では、世界の審判者、やがて開けようとしていた新時代の王者とみなされるメシアの一称呼となった。従って、イエスがその称呼をもって自分を呼んだのは、彼がメシアなることを宣言したものであり、また、彼が『日の老いたる者』から託せられた十分の権力を身につけ審判者として出現するはずの終末の日の迫れることを確認したものである。…メシアはダビデの子でなければならないから、人々はおのづから、メシアと同義語であるダビデの子という称呼を彼につけた。イエスは自分の生まれが全くの平民であるので、少々当惑を感じたものの、喜んでそう呼ばれた。彼の好きな称呼は、外面的には謙虚であるが直接メシアへの希望と結びついた『人の子』という名前であった。彼はこの語で自分を指すのが常であった。だから、彼の口において、『人の子』は『我』という代名詞と同義であった」。
「イエスの権威は、かくて日々増していった。そうして自然、イエスは、人に信ぜられるに比例して自己自身を信じていった。彼の活動は、はなはだ限られたものであった。彼の活動はテペリア湖の盆地に限られてをり、さらにこの盆地の中でも、彼の好きな地方があった」。
ここにみられるように、当初イエスの布教範囲は極く狭い地域に限られている。ということは、信者、門弟も僅かな数の集団だったと想像できる。それではいかにして、このような私的な一地域宗教に過ぎなかったはずのイエスの教えが、(たとえ彼らがイエスを指してメシアだと言いふらしていたにせよ、)かくも広範な影響力を持つに至ったのであろうか、ルナンはその一因として次のことを挙げている。
「イエスの考えた神の都には多くの意味を持たせなければならない。もし彼の思想が、時の終わりは近い、これに備えなければならない、というだけのことであったら、彼はパブテスマのヨハネをしのぎはしなかったであろう。近く滅びる世界を棄てること、現世を少しづつ脱れること、来ようとする世を待ち望むこと、これが彼の説教の究極の言葉であったのである。イエスの教えは、いつもはるかに広い意味を持っていた。イエスは人類の新しい状態を創造しようと思ったのであって、単に存在する世界の終わりの準備をするだけではなかった。…彼の最期に近いころのいわゆる道徳が、不滅の道徳、人類を救った道徳であるとせられたのは、極めて真実である。…折々彼は、神の国はすでに始まっている、誰でも神の国を自己のうちに持っている、もし資格があるなら、それを得ることができる、めいめいが真の回心によて、神の国を穏やかに創り出すのである、と述べている」。
つまり、パブテスマのヨハネは、世界の終焉の近いこと、最後の審判が目の前に迫っていること、つまり危機意識を煽ることによって、最後の審判で地獄に落ちないように心せよと警鐘を鳴らした。それに対してイエスは、来世(天国)での平安を得るために、現世での生活を律するべきだと説いたのである。先述したように、初期のイエスの影響力は全く微々たるものでしかなかった。しかも当時、イエスが起こした程度の新興宗教の教祖はこの地方にはあまた多くいたようだ。つまり、イエスは格別目立った存在でもなかったといえる。
「イエスは、生涯の初めのうちは、大した反対にあわなかったようである。彼の説教は、ガリラヤが極度の自由を有していたし、あまたの教師たちが至る所におこっていたから、かなり限られた人々の間でのみ、光彩を放っていた。しかしイエスが奇跡と公然の成功との輝かしい道に入ると、嵐は、うねり始めた。彼は一度ならず、隠れ逃げなければならなかった」。
つまり、イエスはこれ以後、いよいよメシア(「神の子」=「人の子」)へと変質し、奇跡を起こさしめる存在へと変貌することになる。これにはある意味、「そうせざるを得なかった」という外的事情も働いているとみることができる。
因みに「メシア」という言葉を「広辞苑」で調べると、次の意味になる。
「もとヘブライ語で「油を注がれた者」の意。①古代ユダヤ人が待ち望んだ救い主。「キリスト」はそのギリシア語訳。②キリスト教で、イエスが救い主たることを表す尊称。メサイア。」
イエスによってもたらされた「奇跡」がいかなるものであったかは、近代人ルナンにとってはあまり興味を引かなかったようだ。カウンセラー的な役割だとか、あるいはせいぜい以下のようなことがあり得たかもしれないと、多分に推測で書いているからだ。
「(イエスの取り巻きの人々は)エルサレム人の不信心を痛烈に打つ一大奇跡を、折々望んだようである。死人の復活ということが、一番人を納得させうるもののように彼らには見えたに違いない。マリアとマルタはそのことをイエスに打ち明けた、と想像される。イエスがこの種の二、三の奇跡を行ったという風評は、早くも立っていた。…『ラザロはよみがえろうとも、人々はそれを信じまい』。後、このことに関し妙な勘違いが起こされた。上の仮定が、事実と変わってしまったのである。人々はラザロのよみがえったことや、かかる証しを否定するのには容赦すべからざる片意地が必要だということなどを、話した。ラザロの『腫物』とライ病人シモンの『ライ病』とが混同された。そして言い伝えの一部分では、マリアとマルタとは、ラザロという弟を持ち、これをイエスは墓から出でしめた、ということにされたのである。近東の都会で喋られる事柄が、どんなに不正確な、どんなにとりとめもないものでできているかを知るならば、この種のうわさがイエスの生前からエルサレムに広がり、イエスに不幸な影響を与えたということは、不可能なこととは見られない。」。
以上のことからうかがい知ることができるのは、イエスは周囲の信徒に「担がれていた」らしいこと、また信徒たちは、イエスという「みこし」を担ぐことで、自分たちの宗派の勢力圏、影響力を拡大しようと図っていたようだということ、そしてイエス自身が、その渦中で、だんだん自分自身にそういう役割を課していること(平たく言えば、その気になってきているということ、自己暗示)である。この点については、次回でもう少し詳しく触れたいと思う。 (つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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