ひたすら働いたあの頃―令和米騒動の原風景

――八ヶ岳山麓から(528)――

わたしの家は、戦後の農地改革で5反歩(0.5ヘクタール)ほどの田畑の持主になった元小作で、馬のいない小前のものだった。

春先、田の氷が抜けるとすぐに苗代づくりが始まった。馬のある家は犂(すき)で、小前のものは唐鍬(備中鍬)で耕した。田の土手は重い槌で叩いてかため、あぜぬりをする。代かきは、馬のある家は代車(しろぐるま)で、小前のものは唐鍬で耕土を砕いた。雪解けの水は冷たく、はだしで田の中に入るのはつらかった。いまは耕耘機で耕すから楽だ。
そこに苗床をつくり、わずかに芽が出た種もみを焼いたもみ殻とともに播く。黒いもみ殻は太陽熱を吸収するためである。わたしの村は海抜高度ほぼ1000m前後であるうえに、雪解け水がつめたかったために、苗の生育は遅れがちであった。

当時は村内に長野県の高冷地試験場があり、わたしの小学4年生ころからこの試験場を中心に保温折衷苗代という新技術が広がった。それは播種が終わった苗床の上に油紙をかけ、温床をつくるものであった。小学6年生のとき、(4月の25、6日だったと記憶する)思いがけなく苗代の油紙の上に雪が降ったことがあった。父と二人で雪をほうきで払いながら、その冷たさに泣いたことを覚えている。のちに油紙は透明のビニールシートに変わり、保温効果を高め苗の成長を促進した。
一方、苗の成長を睨みながらほかの田の代かきをする。当時は水口にS字状の水路(ぬるめ)をつくり、少しでも暖かい水を得ようとした。土手の草や共同入会地から刈ってきた草や小枝を鋤きこむ。刈敷(かりしき・緑肥)である。去年の藁の堆肥や馬小屋の敷藁も田に入れる。田植えの準備ができた田ではトノサマガエルがにぎやかに鳴く。

6月半ばが田植えである。小中学校は1週間の「田植え休み」に入る。低学年のものは苗運び、5,6年生ともなれば一人前に田植えをした。集落の区長は標高の順に目印の旗を動かして田に水をいれる手配をする。田植えは旗の示す期限内に終らせる。たいていは親戚や友人知人と「ゆい(労働交換・たすけあい)」をやった。
6月とはいえ田の水は冷たく、昼飯のときは、田植え衆はこたつに当たって冷えた手足を温めた。いまは育苗業者から機械用の苗を買い田植機で植えるから「ゆい」はなくなった。田植え機はハナは不具合があったが、間もなく能率が上がるようになった。
田植えが終わると、昼間暖かくなった水を逃さないため細かく水管理をした。稲の成長とともに、虫追いと田の草取りがあった。夏の熱い日差しの中、腰を曲げ泥田の中を手でかき回すのは本当につらかった。いまは除草剤を使うからその点はずいぶん楽になった。
稲の生長期にはイモチ病が心配だった。これは稲の葉や節、穂首を黒く腐らせる病気である。特効薬「セレサン石灰(水銀剤)」は1950年代の終りころから使われるようになった。手回しの散粉機を使ったが、一時はヘリコプターで村中に撒いた。間もなく薬害の恐れがわかって中止された。

8月初め出穂である。お盆までに稲の花が咲くかどうか、咲いても受粉するか、冷たい雨の日が続くと誰もが心配顔になった。最高気温が27~8℃の晴れの日が続くと受粉ができて安心した。その後は暴風雨が心配だった。稲が倒れると収穫は減る。
わたしが中学2年14歳のときだったと思う。この年の夏は低温・長雨だったために穂は出たものの、村中の稲はほとんど穂がまっすぐに立ったままであった。わたしも自分の田の稲穂をにぎってみたが絶望的だった。学校でも「われの田はどうだ?」「皆無だ」といった会話が交わされた。稔りのない田にソバを播く家もあった。
翌年の新米が出るまで押し麦をコメに混ぜた麦飯を食う家が多かったが、わたしの家ではこの年、畑の小麦のできがよかったので、麦飯や手打ちのうどんを2ヶ月くらい食べて過ごした。この凶作で高校進学をあきらめた人もいたと思う。
学校では稲の生育期間の1日の平均気温を足して1000℃に達した時が収獲適時だと教わったが、中学生でも目で見ればわかった。学校は「稲刈り休み」になった。稲刈りは馬や牛にやらせることはできないからどの家も人手でやった。わたしは不器用だったので、稲刈り鎌が滑ってよく指を切った。いまでも左手小指に2ヶ所傷が残っている。
刈った稲は「ハゼかけ」をして乾かしあとで脱穀するか、その場で足踏み脱穀機で籾(もみ)にして家に運び、ねこ(むしろ)に広げて乾かした。玄米にして1反歩(0.1ヘクタール)10俵つまり1ヘクタール当たり6トンとれると「せどり」といって喜んだ。

食糧管理法のもとでの強制的なコメの「供出割当」は太平洋戦争末期に始まり、敗戦後も食料不足の間は続いていた。この間コメは政府が統制し、農協以外の者には売れなかった。「供出割当」は水田面積に比例して定められ、いまは紙袋を使うが、当時は俵に玄米4斗すなわち60キロを詰め、農業事務所の職員がコメの検査をした。ちなみにコメ重量は籾から玄米にする(籾摺り)と30%、玄米を白米にする(精米)と10%程度減少する。もちろん代金は農協の口座に振り込まれる。「供出」分と自家用の余りを「ヤミ」で売る家もあった。駐在警官が仲買のヤミ屋やヤミ農家を捕まえるとだれもが警察を非難した。
コメにゆとりが生じると、政府は「供出割当」をやめ「売渡申込」制度にした。これは高校1年のときで、玄米60キロの価格が初めて1万円を越えた。やがて政府はコメの買い取り制度をやめてしまった。それが今に続く市場によるコメ取引の始まりである。

農業用機械は歩行型の耕耘機が一番早かった。1970年代に入って自動で稲を束ねる「バインダー」が登場した。それから10年もたたないうちに倒伏した稲でも90%は刈れるという自動脱穀収穫機(コンバイン)が登場し、田植えから耕耘、刈取りの水田稲作機械化が完成した。
農業の機械化は村の風景を変えた。耕耘機の導入とともに小型の木曽馬を含む牛馬が村から姿を消し、同時に畜糞も無くなり有機肥料の欠乏をもたらした。だが衛生向上には役立った。それまで我が村では牛馬を人と同じ屋根の下で飼っていたのである。
もうひとつ村の風景を変えたのは、田の規格化である。構造改善事業の一環として圃場整備と交換分合をやり、農道や畔はまっすぐになり、1枚が2反歩(0.2ヘクタール)ほどの田が並んだ。この大事業には反対もあったが、これを実施したために機械を使えば高齢者でもコメ作りができるようになった。

機械化が進むと同時に化学肥料の施肥量が増し有機肥料は減少した。化学肥料は50年代半ばから70年代初めまでの間に80%程度増加し80年代後半まで消費の高原状態が続いた。
農薬は敗戦後すぐにDDTやBHCが登場したが、その後殺虫剤・殺菌剤・除草剤の使用量は1960年代半ばから70年代初めまでに3倍程度増加した。60年代から農薬の副作用が認識され、やがて水銀剤やDDT、BHC、パラチオンが禁止されたが、80年代月までは使用量は減らなかった。そのためか、わたしの従兄は肝臓を病んで60歳代でなくなった。
農業の機械化と化学化は腰を曲げる苦渋労働を少なくし、栽培の早期化を進め、単位面積当たり収量(単収)を高めた。そしてコメは手間のかからない作物になった。これによって農家はレタス・セロリー・ブロッコリーなどの新しい野菜の栽培を拡大できた。同時に農家の後継ぎでも町の工場へ通い、土日休日だけ農作業をやる兼業農家が急増した。このため定期バスが増発され通勤時は超満員になった。

厳密な水管理と機械化、カネのかかる多肥料・多農薬の農法によって、高冷地のわが村でも、一時1ヘクタール当たり6トンの収穫が可能になった。だが、コメ余りが生まれて減反政策が実施され、コメの価格が下がると、農家でも「労賃を考えるとコメは買って食った方が安い」状態が生まれた。この60年の間に耕地面積も農家も激減した。増えたのはいつ減価償却ができるかわからない農業用機械である。わが村は何のためにコメの増産に励んだのだろうか。
(2025・06・18)

初出:「リベラル21」2025.6.24より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6791.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14288:250624〕