明日は参院選の投票日である。誰に投票するか、いやどの党にするかも、まだ決めてない。日頃の不勉強のせいであることは自覚している。でも、こんな人間の一票がどこへ行こうと、現実政治にはなんの影響もないのだから、不勉強な人間は投票に行かなくてもいいのではないか。いやそういう無自覚な票はないほうが、それこそ投じられた一票の価値が上がって、むしろいいかも知れない、とも思う。
イギリスではジョンソン首相が野党ばかりか与党内からも「やめろコール」を浴びて辞任するそうである。ジョンソン首相といえば、イギリスのEU離脱問題で大活躍、首相の座を射止めてここまで3年、何事にも自信満々、大声で自説を述べたてていたが、今回は多勢に無勢、やんぬるかなというところか。しかし、保守党党首はやめても、首相をやめるまでにはもうしばらく粘るというから、その悔しさが分かる。
私も昔、政治記者のはしくれをつとめたことがある。時はまさに「角福戦争」として歴史に残る1972年の田中角栄、福田赳夫両氏が自民党総裁の椅子を争った、あの50年前の日々である。
政治の現場に近づいて、まず驚いたのは政治家諸氏のポストに対する並々ならぬ関心である。話には聞いていたが、なるほどこういうものかと得心がいった。最近も自民党の麻生副総裁が「総裁選で負ければ冷や飯云々」と言っていたから、事情は今も同じだろう。
なまじそんな実態にわずかでも触れたばかりに、その後、自国の政治にさっぱり関心を持てなくなってしまったのだが、最近のウクライナ戦争を見るうちに、奇妙な思いが萌してきて、じつは戸惑っている。「やめろ!やめない!政治」はすばらしい、と。
見渡してみると、議会が政治の中心にある国では人事をめぐる争いが議員の活動の大きな部分を占めていることは確かだ。権力のあるポストにいる人間にはたえず「やめさせて、そのポストを取ろう」という圧力がかかる。ポストのない人間はたえずチャンスねらって「自分もポストに」と虎視眈々としている。
そしてそれについての外からの見方は、「見にくい」とか「汚い」とかが一般的であるが、同時に人間に欲がある以上、人事に関心が集まり、それで争いが起こるのはやむを得ない「必要悪」であり、目くじらをたてても仕方がない、と許しているのが現実であろう。
一方、世界には議会はお飾りに過ぎず、大統領あるいはそれに準ずる最高統治権者が独裁的に政治を司っている国もある。誰のことを言いたいか、お察しのようにロシアのことである。
ウクライナに軍隊を侵攻させたロシアのプーチン大統領はウクライナをかつてのようにロシアの「属国」とすることを目的としているようだが、そんな時代離れの暴挙を押しとどめる人間が彼の部下は勿論、議会にもいない。マスメディアには、侵攻直後にテレビに「このニュースは嘘」と書いた紙をもってカメラの前に立った勇敢な女性がいたが、彼女に続く人はその後現れない。
そのウクライナ出兵について、プーチンが政権幹部を広間に集めて安全保障に関する会議を開き、その場で1人1人に出兵への賛否を問う場面がテレビで公開された。中には答えに口ごもる出席者もいたが、「どっちなんだ、はっきりしろ」と追及されて、結局「賛成です」と答えていた。
これを見て、独裁政治とはなんと効率のいいものか、と私も思った。与党内での意見集約、野党の反対をどう抑えるか、世論対策は・・・など、一切お構いなしでまっすぐ目的に向かって行動できる。なるほどこれでは、独裁者に民主を説いても聞く耳は持たないはずだ。
しかし、今はどうなのだろう。電光石火の作戦でゼレンスキーを降伏させ、西側へ逃げようとするウクライナを膝下に抑え込むという目的は達成されたとは言えない。半年近くもウクライナを痛めつけるだけ痛めつけたが、その分、ロシア軍の暴虐が世界中のテレビに映し出される日々が続いている。自国のイメージが毎日、底なし沼に沈むように落ちてゆくのを、ロシアでは誰もどうにもできない。
プーチン自身はどうか。おそらく焦りに焦っているだろう。最近のニュースではロシアは「ウクライナの非武装、中立化」の達成まで軍事作戦を続けるそうだが(パトルシェフ露安保会議書記の7月5日発言)、そんなことが可能だろうか。
問題は今、ロシアには「どうすべきか」を声を上げて議論する場がないことである。作戦実施を決める時には大統領の一声で効率よく決められたが、予定が狂った今は、周辺の人間はプーチンの顔色を窺うだけで何も言わず、プーチンもまた困った顔もできずに1人で頭を抱えているのだろう。
これが「やめろ!やめない!」の「民主政治」だったら、話は簡単だ。反対派の「やめろ!」の合唱が「やめない!」の声を圧倒して、プーチン退陣となり、2月以来の「戦争」はとにかく終わりとなる。「やめろ!やめない!政治」のいいところは、その際、プーチン自身が自らの非を認めず、反対派の「浅慮」を罵倒しながら辞められることだ。「おれはまだ戦えると思うが、やめろというなら勝手にしろ」と。独裁政治はその抜け道がないために、悲劇にブレーキがかからない。
民主政治における一票は、投じた人間がどういうつもりで投じたかにかかわりなく、民意の一部として、誰にも逆らえない力を持つ。だから独裁者は民主を恐れる。しかし、民主には弱点もある。一票ずつの力は極微だから、数がなければ力が弱まる。当選者を決めるのも数だが、それ以前に「民主」自体の力も票そのもの数に支えられている。
とすれば、明日はなにはともあれ投票所か。
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