――八ヶ岳山麓から(49)――
尖閣諸島国有化に反発した反日デモが荒れ狂ったとき、記者会見で記者と石原東京都知事との間で次のようなやりとりがあった。
「知事はしきりに『シナ』というが、相手が嫌がる呼称を使うべきではない」
「じゃあ、何て呼んだらいいの?」
「『中国』でいいのでは」
「中国とは岡山県と広島県のことだよ。向こうの英文で書かれてるインターネット見てごらんなさい。SINAと書いてる」
「そうではなく、向こうが嫌がるいい方をすべきでないと」
「嫌がる理由はないじゃないか。孫文が作った言葉じゃないか。シナ人が、日本人がシナというのを嫌がってるの?」
「そう思う」
「君が思ってるだけじゃないの。ナンセンスだね」(毎日ネット2012・9・22)
今年3月、河村たかし名古屋市長の「南京事件」否定発言があってしばらくしてから、石原東京都知事は首都大学東京の卒業式で、卒業生に向かって「中国を『シナ』といわないとだめだ」と発言した。これを翌日の中国「環球時報」が伝えたから中国のインターネットでは怒りの声がわっと出てきた。
「支那・シナ」は侮蔑語だという「通説」を真っ向から否定したのは高島俊男である(『本が好き、悪口言うのはもっと好き』文春文庫)。だからといって高島氏が石原都知事の応援団というわけではない。
高島氏は、「支那」は元来中国の歴史を通した名称であって、もともと軽蔑の意味をまったく含まないものだったという。私なりにその主張をまとめてみると……
古代インドでは中国を「シナ」あるいは「シナスタン」と呼んでいた。仏典の漢語への翻訳のおり、これを「支那」「震旦」としたのである。『平家物語』や『西洋紀聞』にも「支那」「震旦」はある。19世紀に入って洋学が盛んになるにつれてChinaあるいはSino―などの翻訳語として「支那」が使われるようになった。
大正より昭和初年にかけて、日本人特に一般大衆のあいだに、中国人に対する軽侮の念がかなり普遍的であったことは事実であろう。だが、それは『支那』『支那人』という呼称の問題ではなく、何か他の呼称をもって中国人を呼んだとしても、軽侮という事態は同じことであった。だが、魯迅や郁達夫のような「支那」に抵抗を感じなかった中国人は、日本人に接したり日本語でものを書くときは「支那」を使っていた。
1930年に中国政府は日本政府に対し「中華民国(英語ではNational Republic of China)」の国号を使うよう要求し、「支那共和国」とした公式文書の受け取りを拒否すると通告した。第二次大戦後の1946年に、中国政府からこれについて重ねて厳しい要求があった。日本政府は新聞・雑誌社、各大学に(歴史・地理・学術語を除いて)「支那」の使用禁止を通達した。「支那」が消えたのは新聞・出版界が政府通達に従ったからである。
「中国」は、今日「中華民国」「中華人民共和国」の略称、あるいは通時的名称として使われているが、元来は「わが国(天下中央の地)」の意味である。
私は以上の高島説を受入れる。相手を見下した意味がないかぎり「支那」が使われた文章を見ても抵抗はない。だが、ことばは歴史によっても使い方によっても意味が変わる。日中十五年戦争の時期、「支那」には以前よりも軽侮の意味が強く込められた。
知る限りでは、現代中国ではほとんどの人は、「支那」がChinaあるいはSino―の訳語とは知らない。かりに知ったとしても、「支那」ということばによって、日本に侵略された悲惨と屈辱を思うのは変わらない。同じ出自としても「China」と「支那」とでは今日雲泥の差がある。日本人が「支那」といえば中国人がいきりたつのは当然である。
定時制高校勤務のとき、在日朝鮮人の生徒キム君が「子どものとき、ケンカになると僕も相手を『チョーセンジン、チョーセンジン』とはやしたてていましたね。『チョーセンジン』が朝鮮人をバカにすることばだと知ったのは、自分が朝鮮人だとわかってからですよ」と話したことがある。いま「朝鮮人」に差別の意味は少なくなったが「バカチョンカメラ」の「チョン」は朝鮮の意味である。
教師になりたての頃、「東(南)シナ海」「インドシナ半島」は差別の名残だから、これを「東中国海」だの「インド中国半島」と呼ぶべきだという主張があった。だから当時は「シノロジー」ということばをみて、「支那学」とやると差別的だからカタカナ語にしたのだろうと思った。だが、「東シナ海」や「インドシナ」などに軽侮の意味はない。逆に「東中国海」などというのは中国にへつらっていると感じる。
冒頭紹介した記者会見での石原都知事の発言はいいかげんで、知性のレベルがどのくらいかよくわかる。石原氏が「シナ」を語るときは、尖閣問題で「寄らば切るぞとやればいいんだ」といったように、中国を罵倒し挑発するときである。「支那・シナ」は石原流だとどうしても侮蔑語になる。公人としては失格だし、元作家にしてはことばに対して鈍感だ。彼の「シナ」はきわめて耳障りである。
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