2021.2.1今から100年前、第一次世界大戦後の世界は、感染症の世界的大流行=今でいうパンデミックの恐怖に覆われていました。いわゆる「スペイン風邪」で、当時の世界人口18億人の3人に一人近く、約5億人が感染し、5千万~1億人が死亡したと言われます。第一次世界大戦の戦死者よりも、多くなりました。最大の犠牲国は、死者2千万近くといわれるイギリスの植民地インドでした。日本の社会科学に巨大な影響を与えたマックス・ウェーバーは、敗戦国ドイツ革命の果実であるワイマール共和国の帰趨を見ぬままに、いのちを落としました。ロシアでレーニン、トロツキーと共にボリシェヴィキ革命を率い、反革命派への「赤色テロル」で知られたヤーコフ・スヴェルドロフ全露中央執行委員会議長も、犠牲になりました。レーニンの愛人イネッサ・アルマンドの同じ頃の死は、インフルエンザより怖いコレラとされていますが。戦後の国際情勢再編に、「民族自決」など14箇条の平和主張を背景に決定的影響を与えるはずだったアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、パリ講和会議の最中に罹患して、ドイツに過酷な賠償を負わせるヴェルサイユ条約が英仏主導で結ばれることを許しました。結果的にナチスの台頭と第二次世界大戦の遠因を作った、と言われました。パンデミックは、世界を変えます。
当時「スペイン風邪」と呼ばれた理由は、「パンデミックが始まった1918年は第一次世界大戦中であり、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であったため戦時の情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていた」ため、とされています。今日ではA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)と推定される病源の実際の感染ルートについては、19世紀までのモンロー主義を捨てて参戦したアメリカ軍の兵士がヨーロッパにもたらし、それが最大死亡国インドなどアジア、アフリカにも広がったする説が有力ですが、未だ確証はありません。100年後の新型コロナウィルスのパンデミックが中国・武漢の人獣感染症から広がったことから遡って、「スペイン風邪」も当時のヨーロッパの中国人労働者が持ち込んだという説も復活していますが、何やらトランプの「チャイナ・ウィルス」に通じる陰謀説に近いもので、実証は困難です。ちょうどいま、WHOの調査団がようやく武漢に入りましたが、最初の感染源の学術的特定は難しいでしょう。次々と変異種が現れ、感染力も増して、すでに1億人の感染者、200万人の死亡例です。感染源の問題については、今や数十万本の医学・獣医学・薬学等の学術研究論文が現れ、ワクチンの製造・接種も始まっていますから、医学史の将来に委ねましょう。むしろ、世界的感染症対策、被害と格差の極小化を進め、ワクチンなど免疫・治療薬の国際共同開発に向かうべきでしょう。
日本での「スペイン風邪」流行は、1918−19年の欧米第3波が収まっても、1920年1月にもピークがあり、21年1月まで続きました。速水融教授の名著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』にもとづくと、「内地」人口の2人に一人が罹患し、作家島村抱月や大相撲の真砂石、皇族の竹田宮恒久らが死亡しました。忘れてならないのは、世界最大の犠牲がイギリス植民地インドであったように、「帝国」日本でも植民地朝鮮・台湾が「内地」より死亡率が高く、当初1918年の大相撲力士3人の死亡は、「植民地」台湾巡業中に発症し「相撲風邪」「力士風邪」と呼ばれたことです。当時の「平民宰相」原敬首相も発病し、富山の女性たちの運動から始まった「米騒動」は、「スペイン風邪」によって収束を余儀なくされました。そして対策も今日と同じで、「検疫・検査と隔離」が基本、まだワクチンはなく、治療薬も風邪薬ですから、学校閉鎖・集会禁止に「マスク、手洗い、うがい」とならざるを得ませんでした。デマや流言飛語も飛び交い、当時の対策は内務省の「流行性感冒予防心得」による治安政策と一体で、消防団など「自粛警察」風取締になりました。関東大震災の前哨戦です。すでに100年前にサンフランシスコでは「マスク条例」が作られていましたが、当時の日本の新聞では「マスク不足」が報じられ、菊池寛や与謝野晶子の文藝素材になりました。死の恐怖と社会不安を孕んだパンデミックに対して、世界の感染対策はWHOなど国際機関や医学・薬学の発達もあり、100年前よりはるかに進んでいますが、どうやら日本の対策は、100年前の経験からあまり学ばず、戦時兵力・労働力のための厚生省開設や関東軍防疫給水部(731部隊)の人体実験・細菌戦などの国策遂行・閉鎖性・人種差別・精神主義の亡霊を引き摺っています。旧軍の流れでの感染研・専門家会議・分科会、感染研・地方衛生研・保健所ルートでのPCR「行政検査」抑制とデータ独占、補償なき自粛・休業要請で、その帰結として、国産ワクチンを作れないどころか、ワクチン輸入・接種さえ世界の60か国以上に先を越される、ミゼラブルなものになりました。「感染症対策小国」です。その理由と経緯は、昨年出した拙著『パンデミックの政治学ーー「日本モデル」の失敗』(花伝社)をご笑覧ください。スペイン風邪から100年の日本の公衆衛生政策は、経済発展・成長政策への従属・ 周辺化が続き、まともな検査も受けれずに自宅待機や救急輸送途中で多くの犠牲者を出す、今日のコロナ禍を産み出していると思われます。
「スペイン風邪」の脅威が欧米では収束に向かい、アジア・アフリカではなお猛威をふるっていた1920年に、ベルギーのアントワープで「平和の祭典」オリンピックが開かれました。4年前の1916年が第一次世界大戦で開催できず、なんとしてでも開きたいというIOCクーベルタン男爵の熱意に押されたものとされ、29ヵ国2591人の選手が参加しました。選手宣誓が初めて行われ、日本ではテニスの熊谷選手が初めて銀メダルをとったことで知られています。すでに1年延期された2020東京オリンピックを、圧倒的な中止・延期世論やスポンサー企業に逆らってでも強行開催したい日本政府・東京都・大会組織委員会は、この1920年アントワープ大会開催の経験を、最後のよりどころにしている気配があります。東京の感染者が急増した昨年12月に、JOC(日本オリンピック委員会)は、「アントワープオリンピック企画展」を開き、NHKも加わって、「パンデミック下でもオリンピックは可能」というプロパガンダを、緊急事態宣言下で行なっています(2月末までオリンピック・ミュージアム)。実際のアントワープ大会を見てみると、戦火が収まり「スペイン風邪」の打撃も相対的に少なかったベルギーでの開催でしたが、ベルギー政府には財政的余裕がなく、ほとんどIOCの独断でした。ドイツ・オーストリアなど戦敗国の参加は排除されました。資金難で宣伝不足、競技施設も貧弱で、選手の宿舎も兵舎の改装など急ごしらえでした。一般観客はゼロに近く、IOC関係者の仲間内の「祭典」でした。日本からテニスの熊谷一弥がシングルス、柏尾誠一郎と組んだダブルスで2位に入り、日本のオリンピック史上初のメダルを獲得しましたが、二人とも日本からの船旅なしの、三菱・三井のニューヨーク支店勤務員でした。熊谷の回想によれば、「設備も不完全、秩序不整頓」「これがオリンピック大会の晴れ舞台とはお世辞にも申しがたい」ものでした。「スペイン風邪流行直後にも関わらず衛生面の配慮も足りず、選手たちの不評をかった。何より、資金難による宣伝不足は市民、国民の関心を呼ばず、空席ばかりが目立つ大会であった」ともいわれます。この面を、競技施設はコロナ対策に使わせずに温存し、特別のPCR検査やワクチン接種で何とか無観客でも強行しようというのが、日本政府・東京都の現在の姿勢です。また医療資源が必要とされ、動員されようとしています。果たしてそんなものを、「コロナに打ち勝った証し」として、世界の政府・アスリートと苦境下の人々は認めるでしょうか? 1940年「幻の東京オリンピック」の教訓をも踏まえて、決断が迫られています。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
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