――八ヶ岳山麓から(354)――
先日知人と日米開戦だの真珠湾爆撃だのを話していて、話題が「ノモンハン事件」に及ぶことがあった。私自身はこの「事件」をひと通り知っているつもりであったが、このとき、知人が紹介した本を自分でも読んでみようという気になった。
その本とは、鎌倉英也著『隠された「戦争」―「ノモンハン事件」の裏側』(論創社、2020)である。同書は同じ著者によるほぼ同名の書、『ノモンハン 隠された「戦争」』(NHK出版、2001)の復刊であり、その母体は、著者自身が制作にあたったNHKテレビ番組『ドキュメント ノモンハン事件~60年目の真実~』(1999.8.17放映)の取材記録である。
このドキュメント放映以後、日本側から「ノモンハン」を見た半藤一利『ノモンハンの夏』(文春文庫 2001)や、おもにモンゴル人を語った田中克彦『ノモンハン戦争――モンゴルと満洲国』(岩波新書 2009)が出版された。以下述べることは、この秀逸の2冊の内容とないまぜになっているところがある。
「ノモンハン事件」とは何か。
それは1939年夏、日本の傀儡国家満洲帝国(中国東北部)と、当時のソ連支配下にあったモンゴル人民共和国(外モンゴル=現モンゴル国)の間で起こった、国境地帯の領有権をめぐる戦争のことである。その実体は日ソ両国間の戦争であった。
この戦争を日本では「ノモンハン事件」と呼ぶが、ロシアとモンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ぶ。「ノモンハン」とは戦場近くにあった「ノモンハーニー・ブルド」という自然崇拝の小高い塚のことであり、「ハルハ河」とは国境紛争の的となった川の名である。
日本がこれを「戦争」と言わずに「事件」とするわけは、天皇の命令のない「非公式」のもので、最終的にソ連・モンゴル側の領土要求を認め、敗北に終わった不名誉ないくさであったことにある。
戦いは4ヶ月間であったが、双方大砲、戦車はもちろん爆撃機・戦闘機を繰り出す本格的な戦争で、日本・満洲国側の死傷者は全将兵3分の1、死者は1万8000という損害を出し、ソ連・モンゴル側もほぼそれに匹敵する多大な犠牲を出した。
本書に戻ろう。鎌倉英也氏が「ノモンハン事件」に関心をもつきっかけは、1996年に急逝した作家司馬遼太郎の特集番組をつくるため、作家の書斎を訪れたときにあった。そこで見たひとつの段ボール箱には、「ノモンハン事件」の取材記録がぎっしりと詰まっていた。
その後、1999年に鎌倉氏は思いがけず、ロシア軍事史公文書館がそれまで極秘扱いであった「ノモンハン事件」の関連資料を開示するというニュースを知った。氏はただちにモスクワに飛んだ。同行はカメラマン1名と録音マン1名、それにロシア語に堪能な政治学者1名である。現地ではこれに通訳兼渉外担当のロシア人1名が加わった。
取材の目的は、その文書の中から、「ノモンハン事件」がなぜ国境紛争にとどまらず戦争にいたったか、背後にソ連とヨーロッパ列強のどんな力学が働いていたか、そして「事件」の教訓が生かされず、なぜ太平洋戦争に突っ込んでいったかを探ることにあったという。
あらかじめ公文書館側が揃えてくれた文書は5万枚を超すと思われた。文書取材の予定期間は約10日である。大車輪で、1)戦争被害に関する文書、2)ソビエト軍の兵站・輸送戦略に関する文書、3)スターリンの極東戦略を証拠づける文書、4)日本軍捕虜に関する文書、5)スターリンの戦争評価を選び出した。ソ連軍中枢から発せられた重要文書、ソ連軍兵士の口述記録、翻訳された日本人捕虜の手記・遺書等々がこれらに含まれていた。
2か月後、一行はモンゴル・ウランバートルに飛ぶ。そこでモンゴル人通訳の助けによって「ソ連・モンゴル友好条約」など外交機密文書を入手し、個人の体験談を聞き、さらに「モンゴル粛清博物館」を訪れた。粛清とは、ソ連がモンゴル人に下した酸鼻極める殺人のことである。
翌月は旧式なロシア製ヘリコプターをチャーターし、8時間かけて「ハルハ河戦争」の戦場へ飛んだ。平原を撮るため、昇降口のドアを取り払い、搭乗者は命綱をつけての飛行である。荒れ果てた平原に残るソ連軍司令部の跡地は、平原が手に取るように見渡せる小高い丘の上にあった。対する日本・旧満洲軍の陣地跡は、どこへ後退しようにも隠れる場所のない低地にあった。降り立ってみれば兵器の残骸の山があり、地の砂には人骨とおぼしき白いかけらがまぎれていた。
これらの記述に並走させて鎌倉氏は、日本国内のノモンハン関連文書も紹介している。それには、関東軍が開戦に踏み切った根拠とされる「下達」も含まれている。ノモンハンの希少な帰還兵への対面取材も行われたことがわかる。
こうして得られた膨大な資料の山から浮かび上がるのは、局地的な戦争の背後にある大国の野心とかけひき、それにまきこまれたモンゴル人の悲惨さである。ソ連は満洲事変以降極東に侵出した日本を警戒し、満洲国に接する外モンゴルに対して露骨な支配を続けていた。そこではソ連の手によって、「ノモンハン」以前から「反革命」「日本のスパイ」といった罪名で、首相から僧侶、一般牧民に対してまで大量の政治的殺人(粛清)が行われていた。
モンゴル・満洲間での国境紛争が起こるや、スターリンはソ連軍司令官を代えて鋭敏なジューコフを戦場に送り込んだ。彼は冷静な戦況分析を行うとともに緻密な作戦を立て、成功のためのあらゆる努力を注入した。
対する日本参謀本部は、ロシア軍弱体という根拠のない憶測に立つ関東軍作戦参謀辻政信、服部卓四郎らを制御できず、「国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定して、これを第一線部隊に明示し、無用の紛争惹起を防止する(べし)」などと、事実上の独断専行をゆるす「下達」を発していた。
その後の関東軍は、6月に参謀本部が発した作戦の自発的中止の要請?を無視したうえに、ソ連軍の戦力補強が驚くべき迅速さで行われていることもまた信じなかった。当然の結果として兵士たちは、悲惨極まりない運命を強いられた。
わたしが心を打たれたのは、軍事史公文書館で発見されたロシア語に翻訳された日本人兵士の日記である。ソ連軍に圧倒され追い込まれた極限の状況は、読んで身に染みるものがあった。またかなりの兵士がソ連軍の捕虜となったが、中には「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」によって、日本側に帰らなかった人がいた。このドキュメントにはその人たちのその後もリアルに語られている。
関東軍に関わる国内文書の幾つかの存在、ソ連とモンゴルの間で交わされていた友好条約(いうなれば二国間安全保障条約)の存在、日ソ両国の兵隊として動員され、あるいは粛清に突き進んでいく過程の様々な証拠、ソ連軍司令官の指令の記録、日本人捕虜が手記に残した苦しみ、生存者たちの生々しい証言等々は、動かぬ歴史の証拠として、特に私の心に残った。
ここで特筆すべきは、このドキュメント作成に当たって鎌倉氏がすべてを実証的方法で語ろうと努力したことである。氏は復刊にあたって第9章を加え、「ノモンハン事件」が太平洋戦争の序曲であったことを述べるとともに、記録保存の重要性に言及した。
――「近現代史に関わるドキュメンタリーを制作していると、世界各国の様々な公文書館や資料館に取材する機会が多い。そこでしばしば驚くのは、自分たちに不都合だと思われる記録さえしっかり残されていることだ」
そして、ついこの間おきた安倍政権による文書の改竄、隠蔽を列挙し、2013年に成立した「特定秘密保護法」を見る限り、この政権が国民や住民の「知る権利」に基づく情報公開に積極的とは言い難いとして、日本政府の情報閉鎖ぶりを批判している。本書は、この第9章によって、さらに価値あるものとなったと思う。
私は、自分が視聴料を払っているNHKにも骨のあるジャーナリストがいるのを知ってうれしかった。同時に、いつも権力者よりのNHKがこうした歴史的事件の掘り起こしに多額の資金を投じたことを意外に思った。これはまれなことであろうか。
(2021・12・12)
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