5 .イエスの磔刑
ローマの執政官ピラトはイエスにある種の興味を抱いていたようだ。ヘーゲルが『エンチクロペディ―』のどこかで書いていたが、法廷でピラトはイエスに次の尋問をする。「真理とは何か?」ところがイエスはそれに対して一切答えず、ただ権威ある者としてふるまったという。
ユダヤ教の祭司(ラビ)たちは、彼(イエス)を自分たちで裁こうとはしていない。彼らにとっても敵(支配者)であるローマの権力に引き渡し、ローマの法によって裁きをつけようとする。ここには重要な宗教上の意味がある。そのことをルナンは次のように述べる。
「イエスの死の真の理由は全く宗教的なものであったけれど、敵(ラビ)は彼を国事犯として官邸に送ることに成功した。敵は異端者という理由でなら、懐疑的なピラトから刑の言い渡しを得ることはなかったであろう。この考えに従い、祭司らは群衆をしてイエスに対し、十字架の刑を要求せしめた。この刑は元来ユダヤのものではない。もしイエスの処刑が、もっぱらモーセの律法によるのなら、イエスは石で撃たれたことであろう。十字架は奴隷のため、また死者にさらに辱めを加えようと思う場合のための、ローマの刑罰であった。人はこれをイエスに適用し、イエスを街道の追いはぎ、強盗、山賊として、あるいはローマ人らが剣による死の名誉を与えなかった下層階級に属する敵として取り扱った。異端の教理論者をでなく、架空の『ユダヤ人の王』を人は罰したのである」。
面白いのは、それでもピラトはイエスをかばい、死罪に値しないと判断していたようだ。そこで、そのピラトの裁定が下る前に、どうしてもイエスに死を求めたい彼らは、それならバラバ(本名はイエス)を放免する方がよいだろう、それとも世間の非難を浴びるつもりか、と迫る。ここにきてピラトも、やむなくイエスを死刑に処する以外になくなったという。
「祭司らはピラトの提議と戦うために、エルサレムで大変人気を集めていた一囚人の名を群集に暗示した。不思議な偶然であるが、この者もイエスという名で、バラバまたはバル-ラバンとあだ名されていた。これは大変有名な人物であった。一揆を起こし人を殺し、刺客として捕らえられたのである」。
普通、バラバは凶悪な強盗(追いはぎ)の類で、悪逆非道の者として知られていたという風になんとなく思っていたのだが、「一揆を起こし人を殺し、刺客として捕らえられた」とあることから推測すれば、むしろ「反体制」的な活動家だった(?)とも考えられるのである。つまり、先に「世界の改革者」としてイエスを紹介したのをご記憶だと思うが、二人は、ある意味で同類なのである。もちろん、バラバは現実界における改革者たらん(?)とし、イエスは観念界にとどまっているという違いはあると思う。しかし、両者ともに既存の権力に対しては否定的だったと考えられうる。
確か、スウェーデンの作家ラーゲルクヴィストが書いた『バラバ』という小説では、バラバはイエスの代わりに助命され、イエスの磔刑の時に近くでそれを眺めていたとなっていた。この小説ではバラバはその後「クリスチャン」に転向して生きるというよく出来たストーリー展開だったように思う。
イエスの処刑された場所は、ゴルゴダの丘と呼ばれている。「ゴルゴダ(Golgotha)という名は、『頭蓋骨』を意味する…おそらく、禿頭の形をした、草木の生えていない丘を指していたようである。この丘の跡は正確にはわからない」。
ルナンは、この地方を実際に旅行している(というよりは、当初は仕事―「政府の命で古代フェニキアの学術調査」―で訪れている)から、ゴルゴダを探したのであろう。
そして「磔刑」というと、よく絵画や映画などでみられるように、高い十字架に架けられた囚人(この場合は、もちろんイエスその人)が、両脇から槍で一突きされて絶命するという風にわれわれはインプットさせられている。しかしこの本によるとそうではない。十字架は足がほとんど地面に届く程度の低いもので、両手、両足を釘で打ち留められ、出血などで絶命するまで、そのまま放置されるという極めて残虐な刑罰なのだ。肉体的に丈夫な者は、そのまま一週間も生きていたと言われるが、イエスは、虚弱ゆえに、短時間で絶命したそうで、その死を確かめようと槍で脇腹を突いてみたというのが真相らしい。
話が前後するが、非常に大事な個所なので、ここでイエスが捕縛される数日前の状況について書かれている個所を見てみたい。ここには、泰然自若として死を迎える「神の子」としてではなく、「人間」イエスの苦悩が見事に描き出されている。それゆえに多くの人の感銘を呼び起こしたのである。
「いつもは大変陽気で、朗らかなイエスの心は、この最後の頃、深い哀愁に満ちていたようである。捕えられる前、イエスが悩みの一時を、何かしら予感せられた苦悶のようなものを抱いたことは、どの話を見ても一致している。ある話によると彼は突然叫んだ、「今わが心騒ぐ、おお、父よ、この時より我を救いたまえ」。その時天より声が聞こえた、とイエスは思った。御使いが来て彼を慰めた、という人々もいた。よく広まっている話によると、このことはゲッセマネの国で起こった。イエスは、ケバとゼベダイの二子だけを連れて、眠れる弟子たちから石を投げて届くぐらいのところへ離れた。そうして彼はうち伏して祈った。彼の心は憂えて死ぬばかりであった。恐ろしい苦悶が彼を抑えつけた、しかし、神の御意に任せる心が打ち勝った。この場面は、あの共観福音書の編纂を支配したところの、そうして、共観福音書をして、話を取り次ぐにあたり、便宜とか効果とかの理由に折々従わしめたところの、本能的技巧によって、イエスの最後の夜、イエス就縛の時におかれている。もしかような話が本当だとするなら、かくも感動的な事実を親しく見たであろうヨハネがそのことを彼の弟子に少しも語っていないこと、第四福音書の記者が、木曜日の夜のことをたいそう詳しく話しているのに、この挿話を挙げていないことは、ほとんど了解できない。ただ言えることは、イエスの受け取った使命のおおきな重荷が、最後の幾日かの間、ひどくイエスを圧えたということである。人間らしい性格が一時目覚めたのである。彼はおそらく彼の技を疑い始めた。恐怖、躊躇は彼を捉えて、死よりも悪い失神の中に投じた。大いなる観念のために、自己の休息も生の正常な報酬も犠牲に供した人間というものは、死が初めてその姿を眼前に現わし、万事の空なることを説伏せようと努めるとき、いつも悲しく自己自身の上に立ち戻るものである」。
このイエスの最後の日々について書かれた個所は、「死」という人生の最終局面に向き合ったとき、その「人間」がそれまで押し殺していた感情のすべてが赤裸々に現れるという意味で、あまりに人間的であり哀れさを呼ぶとともに、やはりある種の感動的な場面でもある。しかし、繰り返し述べたように、イエスの「神」は、最後まで「内なる他者」でしかなかった。それを「運命」とか「天命(神の御意)」と呼ぶにしてもである。イエスは、否、イエスをその代理とするわれわれ人間は、この「運命」(他者)から永遠に自由になれないのであろうか、…。この点を自問し、考えてみることがこの小論の課題でもあった。
この書の総括は「序論」にある
この書の「序論」を最初に読んだ時は、宗教(特にキリスト教)に対する私自身の無知(無関心)のせいもあって、全く味気ない思いだった。しかし、今、読み返してしてみると、非常に興味深い内容であるのに一驚を喫する。一言で言い表せば、これはイエスと福音書に関する文献学的な研究として書かれたものといえる。ただ、ここでこの「序論」について詳しく触れるなら、それだけでまだまだ到底終わりそうもない分量になりそうなので、この際、あえてかい摘んでの紹介にとどめたい。
「序論」は大きくは二つの部類よりなっている。第一は、イエスに影響を与えたとみられる同時代かそれ以上前の論者や書き物についての検討である。第二は、共観福音書及び第四福音書(ヨハネ福音書)に対する検討とコメントである。第一は次の内容を扱っている。
「イエスと、彼の生きた時代とについては、他の多くの散乱した史実は別として、五大集録がわれわれに残されている、すなわち1.福音書および広くいって新約聖書の諸書、2.『旧約聖書外典』と呼ばれる諸編、3.フィロンの著作、4.ヨセフスの著作、5.タルムッド…。」
ここではフィロンとヨセフスについて触れた点を紹介するにとどめる。
フィロンは、紀元前25年頃~後50年頃のアレクサンドリア生まれのユダヤ人哲学者である。彼は、モーセの律法への忠誠心を保持しながらもプラトン哲学を研究したため、彼において「ユダヤ人とギリシア人の思想の伝統が完全に融合されている」と評される。彼は新プラトン学派の先駆ともみなされている。ルナンはこのフィロンを非常に高く評価して次のように書いている。
「フィロンの著作は、イエス時代に宗教上の重要問題に専念する人々の内で醗酵していた思想をわれわれに教えてくれるという、計り知れぬ利益を含んでいる。なるほどフィロンは、ユダヤ教の、イエスとまったく別の地方に生きてはいたが、イエスと同じく、エルサレムで盛んだったパリサイ的精神からは極めて遠かった。フィロンは誠にイエスの兄である。フィロンはナザレの預言者がその活動の絶頂にいたとき、62歳であった。そうしてこの予言者より少なくとも10年長く生きた。生の偶然が、彼をガリラヤに招かなかったとは、なんという残念なことであろう!彼がわれわれを教えてくれなかったとは!」
次にヨセフスは、後37年頃~のユダヤ人歴史家である。ローマに住んでギリシア語で『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』などを書いている。ルナンは次のように述べる。
「ヨセフスは、特に異教徒に向かって書いており、その文体には、フィロンと同じ純粋性はない。イエスやパブテスマのヨハネや、ガウランのユダなどに関するヨセフスの短い覚書は、潤いなく、色彩に乏しい。…イエスに関する章句は全体として正確であると思う。この章句は、まったくヨセフス流のものであり、この歴史家は、イエスについて話していたに違いないような調子で、イエスのことを記載しているのである。しかし、誰かキリスト教徒の筆が、そこに二、三の語を加えて、冒涜に近い文句を和らげたり、おそらくはまた、少々の表現を削除するか、訂正するかして、この作品を修正しているようである。…このユダヤ人の歴史家のおかげで、ヘロデ、ヘロデア、アンテパス、ピリポ、アンナ、カヤパ、ピラトらは、いわばわれわれの触れうるところの、そうして、鮮やかな現実性をもってわれわれの眼前に生きているところの人物となっているのである」。
いずれも非常に興味深いのであるが、門外漢でもあるためこれ以上の詮索は慎んで、次に進みたい。これに続いて、共観福音書及び第四福音書(ヨハネ福音書)に対する比較検討、および編集問題が扱われている。これまた非常な興味をそそる個所であるが、ここでは要点のみ紹介させていただく。今まで述べたことですでにご了解済みだと思うが、ルナンの立場は以下の見解にある。
「福音書はその一部が伝説であることは明らかである。なぜなら福音書は、奇跡や超自然事で一杯であるから。…どんな時期に、どんな人が、どんな状態で、福音書を編纂したか、これが主要問題である。…四福音書は、それぞれ、使徒物語や、福音物語そのものの中に知られた一人物の名を、冒頭に掲げている。もしこれらの表題が正しいものなら、福音書は、その一部が伝説であることに変わりはなくとも、価値を高めることは明らかである、なぜならそうした表題のゆえに、われわれはイエスの死に引き続く半世紀へ遡り、さらに二福音書の場合には、イエスの行為の目撃者たちにさえ遡ることとなるからである」。
こういう見解の上で、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書が、さらにヨハネ福音書(第四福音書)が再検討されている。
以下、粗雑な素描になるが、概ねこういうことが言われている。ヨハネ福音書は、布教のため宗徒によって後に作られた、よくできた宣伝用の福音書である。それ故、ここには伝説の類や、美談などが多く集められている。
「ヨハネ福音書は、共観福音書のものと大変違ったイエス一生の構想を示しており、他方では、共観福音書の伝えているロギア(話)と少しも共通なものを持たない調子、話法、態度、教理において、説話をイエスに語らしめているのである。この第二の関係については、相違がはなはだしいので、はっきりどちらかを選ぶ必要に迫られる。イエスは、マタイの言うように語ったとすれば、ヨハネの言うようには語らなかったはずである」。
ルカのものは、マタイ、マルコのものを参照しながら、それらを推敲し、再編集して、うまくまとめたものと思われる。「ルカの作品はどうかというのに、その史的価値は明らかにずっと低い。これは二次的史料である」。そのため、先行する両福音書の逸話を不自然に結びつけた個所もあるが、よく編集されている。
「ルカ福音書は、すでに在る文書に基づき、順序正しく編んである。選び、削り、組み合わせ得る人の作物だ。この福音書の記者は、確かに使徒行伝の記者と同一人物である。ところで使徒行伝の記者は、聖パウロの伴侶であるらしく、この称呼はルカにとって全くふさわしいものである。…少なくともただ一つ疑いないことは、第三福音書と使徒行伝との記者が、第二使徒時代の人である、ということである」。
そして最後に、マタイ、マルコの福音書については、こう書かれている。
「マタイ、マルコ両福音書は、とても同一人物の特徴を備えているとは言えない。これらの福音書は非個人的編纂物であり、記者は全然姿を見せない。
「問題のこれらの福音書は、イエスに最も近く接したキリスト信者の家庭の或るものから生まれ出たものらしい、と言い添えておこう。マタイの名をつけた原文の最終編纂は、ガウラン、ハウラン、バタネアなどのような、パレスチナ東北の諸地方のどこかで行われたものらしい、ここには、ローマ人の戦争のころ、多くのキリスト教徒が避難していたし、第二世紀にイエスの親族たちはなおここに見受けられたし、最初のガリラヤ的方向は、他所よりもずっと長く、ここで保持せられていたのである。
「共観福音書に類のない抽象的形而上学の教訓をギリシア語で書いたのは果たして、ヤコブの弟、ゼベタイの子、ヨハネであるか。元来ユダヤ的である黙示録の著者が、きわめてわずかの年月中に、かくまで、その文体、思想を脱ぎ捨てえたであろうか」。
やはりどうしても、イスカリオテのユダに触れないわけにはいかない。彼はイエスを「権力に売り渡す」前からイエスが一番寵愛したヨハネとは犬猿の仲であったようだ。私はここにも不穏な闘い(今日的に言えば、党内権力闘争)の臭いを嗅ぎつける。
「ゼベタイの子の権威を高めようという意図、ゼベタイの子が、イエスのお気に入りであり、弟子の中で最も明敏であったこと、あらゆる厳粛な場面に(最後の晩餐、カルバリ山、墓において)首位を占めたことを示そうという意識は、一頁ごとに現れている。ヨハネのペテロに対するある競争心は消えなかったが結局は兄弟のような間柄、これと反対に、ヨハネのユダに対する嫌悪、おそらくユダが裏切る以前からあった嫌悪、これらがここかしこに滲み出ているように見える」。
一言だけ付け加えさせていただく。ルナンに一番影響を与えたと思われるのは、青年ヘーゲル派のシュトラウスである。シュトラウスが書いた『イエスの生涯』(1835₋6年)が当時の学界に衝撃を与え、ヘーゲル学派が三分裂したことはすでにご承知のとおりである。そして私がルナンを読むきっかけとなったのは、若きヘーゲルが書いた、いわゆる『初期神学論文集』を苦労しながら少しづつ整理し検討していることに関連している。このことはまた、いずれ機会があればまとめたいと思っている。 (了)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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