「包摂」の議論は「排除」のシステムを乗り越えられるか。――論文「No hay caminos, hay que caminar――日本の「第三の道」への疑問」(王寺賢太)のレビュー

著者: 木村洋平 きむらようへい : 翻訳家、作家、アイデア・ライター
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※ この論文は、『情況 2012 12月別冊』【特集「<公共>に抗する~現代政治的理性批判」】p.45~75 に所収のもの。

2000年代に盛んになった新自由主義に対抗して、「社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)」をキーワードとし、雇用や社会保障の問題を、総合的に解決するような「生活保障」を目指す議論が生まれた。それが、著者がここで「第三の道」と呼んでいるものだ。近年、「第三の道」は、ゆきすぎた新自由主義を見直すための、有力な方向性として、取り上げられることも多い。

こうした「第三の道」は、北欧型の充実した「大きな政府」をもつ社会を成功事例としており、そこを足がかりに、「現代の日本版」を構想する。そうした論者のひとりとして、著者は、宮本太郎(『弱者99%社会』の著者。)を引用しながら、「第三の道」を概観しながら、次いで、それに大胆な批判を加えてゆく。結論を言えば、「包摂」の議論は、「排除」のシステムを乗り越えられない、(それどころか、構造的に、強化さえしてしまう。)というのが、著者の立場である。では、論文を概括していこう。

(1)旧来の日本社会から、「第三の道」への転換

まず、議論の前提として、旧来の仕方で日本社会を維持できなくなった事実がある。それは、男性がサラリーマンとして稼ぎ、女性が家事と育児を担当し、企業が社会保障の大半を担う、流動性の低い社会である。しかし、この古い枠組みから、「非正規労働者」「高齢者」「女性」といった「弱者」が、こぼれ落ちていく。とりわけ、新自由主義が盛んになった90年代以降のことだ。こうして、これまでの枠組みのなかでは、自らの生活を成り立たせられなくなるひとびとが出てくること、これを、社会からの(弱者の)「排除」と言う。そこで、「排除」されたひとびとを、再び社会のなかに取り込もうとする「包摂(ほうせつ)」が、大切である、と「第三の道」の論者たちは説く。社会の側を改革してゆくことで、この包摂を可能にしようというのが、「第三の道」の議論の主旨である。

そのための具体策として、宮本太郎が挙げているものは、たとえば、

・正規雇用と非正規雇用の「均等」待遇を実現すること
・失業者が職業訓練を受けられる制度を作ること
・子育て支援をして出生率の回復を促し、ひいては次世代の労働力を確保すること
・女性が働きやすい環境を作ること
・ワークシェアリングや退職年齢を一律にしないことで、雇用の柔軟化、流動化を促進すること

などなどである。

こうした政策を掲げる「第三の道」は、小泉政権に代表される「新自由主義」がもたらした弊害である、格差と貧困を解決するために、是非、必要なのだ、と主張される。そして、時代の閉塞を打破するためにも。そこには、たしかに論者たちの善意があり、それを疑うこともできない。

(2)「第三の道」の「包摂」は、「排除」のシステムを補完するのではないか。

これらの主張に対して、論文の著者は、疑問を呈する。その要旨は、「結局のところ、社会的包摂は、排除の市場経済とそのシステムを前提としており、それを補完するものにすぎないのではないか。だとすれば、「第三の道」を採ることは、排除の原理を温存したまま、ゆけるところまで突っ走ることにしかならないのではないか。」となる。

ちなみに、タイトルの”No hay caminos, hay que caminar”は、「道はない。歩かねばならぬ。」という意味で、彼ら「第三の道」を採る者たちのモットーと呼べるであろう、と著者は言う。つまり、「突っ走るしかない。」ということであって、著者はこれを「前方への逃走」とも呼ぶ。

どうして、こういう批判が可能なのか。それは、「包摂」の論者たちが掲げる政策が、実のところ、「女性」や「失業者」や「高齢者」といった、これまで市場経済の外にあったひとびと(それに加えて、「次世代の若者たち」まで)を「総動員」して巻き込んで、市場経済に組み込もうとする運動だからである。

たとえば、「社会保障は、雇用創出になる」と言われて、ここ十年ほどの間に、介護の事業が多く立ち上げられたが、それは低賃金の重労働を生み、女性や非正規のひとびとにとって、厳しい労働環境をもうひとつ増やす、という、「排除」の市場経済を広げた結果になってしまった。

「包摂」は、「排除」のシステムの根本的な変革にはなっておらず、むしろ、そのシステムの外のひとびとを、中へと巻き込む活動にさえ、なっている、というのが著者の批判の根幹である。

(3)財政問題の解決?

また、「第三の道」は財政問題の解決についても、「前方への逃走」をおこなう。日本は巨額の債務を抱えているが、これを解決するためにも、さきのように「総動員」体制で、労働をして、そのさきに「イノベーション」(創造的な破壊)を待つのが、そのやり方である。イノベーションは、技術革新とも呼ばれるが、これによってのみ、大きな経済効果が生まれるのであって、単純労働をしていてもダメである。「第三の道」は、イノベーションを起こすことが重要であり、それによって、大きな経済的な付加価値を生み出せる、と主張する。

けれども、イノベーションとは、そもそも起こるか起こらないか、わからないものであって、言い換えれば、創造的になるかどうかわからない「破壊」である。イノベーションに期待するということは、結局、さきのモットーをくり返すこと、すなわち「道はない。歩かねばならぬ。」ということで、「前方への逃走」を加速することではないだろうか。

(4)債務放棄について

では、「第三の道」がダメなら、代わりにどうすればよいのか。著者は、そのための方策がはっきりとあるわけではないが、ひとつ、「債務放棄」を提案することはできると言う。巨額の債務に怯えながら、突っ走るよりは、いっそ清算してしまってはどうか。

[以下、引用。]まだ見ぬ「イノベーション」に向けて総動員体制を駆動させるよりは、(中略)債務を放棄する手順を詰めてゆくことのほうが、よほど具体的ではないか。[引用ここまで。]

そして、タイトルの意味を少しずらして、「道はない、歩きさえすればよい。」と訳して、論文は終わる。

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最後に、感想を記してみたい。

批評的な観点から言うと、2000年代にとくに重要性が言われた「包摂」の論陣に対して、疑問を呈する、という仕事は、大切であると思った。言論の多様性のために、である。そして、その批判のためには、まず、「包摂」の議論を俯瞰してまとめる、という作業が要る。それを為すだけでも、価値のあることだ。

もうひとつ、「包摂が、排除の原理を温存し、補完するものになっていないか。」という論点は、この論文でもっとも刺激的な箇所であった。「包摂の逆説」とでも名づけられそうだが、ここを議論として太らせるためには、どんどん細部に突っ込んで、具体的な分析を重ねないと、まだ、なんとも言えない。ただ、方向性を示し、新しい言説を作り上げた点だけでも、価値があるだろう。

ふたつ、この論文に賛意を示したけれども、どちらの点も(「包摂」の議論のまとめ方も、逆説の示し方も。)不十分である、という感触が残る。どこかスマートでない。整理整頓されて、順番に論じられていない。その甘さは、たとえば、雇用や社会保障をひっくるめた「生活保障」の問題と、財政問題のつなぎ方が曖昧で、ただ、ふたつの論点を並べて、財政問題の方で締めくくりをしただけにも見える、論文の構成にも感じるものだ。

ともあれ、「包摂」の議論に関して、大きな可能性をもつ種を宿した論文であった、と思う。

そして、個人的な観点から最後に一点、こういったことをよく考えているひとりの著者が、日本の債務について、デフォルト(債務不履行)を現実的な、積極的に採るべき方向と考えていることも、ひとつの意見として、貴重だと感じた。

初出:ブログ【珈琲ブレイク】http://idea-writer.blogspot.jp/2013/03/no-hay-caminos-hay-que-caminar.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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