2011.9.1 8月はアメリカ滞在でしたので、1か月ぶりの更新です。アメリカ東部で、地震がありました。ワシントン、ニューヨークをハリケーンが襲い、死者も出ました。帰国した日本は、台風シーズンです。地震も続いています。そのたびに、冷や冷やします。原発は、大丈夫かと。停電は、ライフラインはと。3・11は、自然と人間の関係、天災と人災の区別、近代文明と安全・安心の意味を、問いかけました。まだ被災地は「復興」にはほど遠く、生活の基盤はできず、がれきの山は残されたままです。事故後に福島第一原発から、いまや広島原爆168発分のセシウム137、2.5倍のヨウ素131が放出されたとか。文科省が最近発表した土壌中のセシウム137の土壌汚染放射能地図は、朝日新聞が8月29日に概要を図のように報じましたが、チェルノブイリ原発事故で「強制移住」の対象となった値を超えた場所が約8%に上ります。多くは警戒区域や計画的避難区域などに指定されている地域ですが、福島市や本宮市、郡山市などの一部も含まれます。3・11直後から4月まで、福島第一原発事故はスリーマイル島なみの「レベル5」なのかチェルノブイリなみの「レベル7」なのかという論争がありましたが、いまだに原子炉を安定的に制御できないフクシマは、もはや確実に、人類史上最悪の放射能汚染事故となりつつあります。まだ2号機・3号機で水蒸気爆発がありうると、小出裕章さんは見ています。8月16日に作業員の一人が急性白血病で亡くなったと、東京電力は30日に発表しました。東京電力が福島第1原発に高さ10メートル以上の津波が到達する可能性があると認知し、2008年に試算結果を出しておきなから、今年3月まで保安院に試算結果を報告しなかったことが、8月25日にわかりました。もっとも経済産業省原子力安全・保安院も、東日本大震災4日前の3月7日、試算結果を東電が報告した際、保安院の耐震安全審査室長が「設備面での対応が必要ではないか」と口頭で指導しただけというのですから、ほとんど同罪です。保安院自身による原発シンポジウムでの「やらせ」は、次々に明らかになり、8月31日にも5件が新たにわかりました。退陣目前の官首相が、27日退任あいさつで福島県知事を訪れてのべたのは、「放射性物質に汚染された土壌やがれきについて、中間貯蔵施設を福島県内に設置したい」「放射線量が高い地域で住民が長時間にわたり居住や帰還が困難な地域が生じてしまう可能性が否定できない」という唐突な申し入れ、あの4月の松本健一内閣参与との「原発周辺は10年、20年は住めない」という話が、今頃になって現実となってきました。いや廃炉や核燃料の最終処理を考えれば、何万年、何十万年という気の遠くなるような将来の地球人類への負荷を、私たちは、背負ってしまったのです。
菅首相がようやく辞めて、野田佳彦前財務相の首相就任が決まりました。海外の報道を待つまでもなく、白けた政権交代です。8月のアメリカでは、来年の大統領選挙に向けた共和党の候補者選びが白熱し、オバマ民主党政権との政策的対決のあり方を競い合っていました。日本の政治は、3・11などなかったかのように、原発・エネルギー問題も、震災復興・災害対策も、沖縄や尖閣の対米・対中外交の問題もほとんど語ることなく、消去法的な民主党内力学で「財務省の操り人形( eine Marionette des Finanzministeriums)」をこの国の顔にしました。9月のヨーロッパ旅行を控えて、大いなる憂鬱です。ドイツの友人たちに「ヒロシマからフクシマへ」を説明するだけでも大変なのに、「カンからノダ、Who? 」まで準備しなければなりませんから。「どじょう(loach)政治」の翻訳をあきらめると、「増税」と「靖国」ぐらいしか、説明材料はありません。日本国民に対してさえ、この国家的危機にどう立ち向かうかを明らかにできないのですから、9月国連総会で5年間に6人目の首相を迎える国際社会では、存在感をもてないでしょう。本来「国民の生活が第一」に立ち返るべき民主党ですが、鳩山内閣の普天間基地移転問題で迷走をはじめ、3・11で方向感覚を失った菅内閣を受け継ぐ野田内閣は、いったいどこへ漂流していくのでしょうか。アメリカへの追随と霞ヶ関官僚への依存は間違いないでしょうが、「国民の生活」からは、ますます離れていきそうです。そして、「原子力村」利権とは無縁な国民と民間企業の方は、それぞれの「節電」努力によって、この夏に「原発なしでも可能なエネルギー需要」のあり方を学んで、乗り切ろうとしています。
永田町の政局や霞ヶ関の官僚制に期待はできなくても、私たちの意見表出のルートは、開かれています。本サイト特設「イマジン」にあるように、ウェブ上には無数の震災・原発関連サイトがあり、「国民の生活」に根ざした討論が、日々展開されています。9月19日に、東京明治公園で、内橋克人、大江健三郎、落合恵子、鎌田慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井喬、鶴見俊輔さんのよびかけた「脱原発1000万人署名運動」の総まとめ、「さようなら原発」5万人集会が開かれます。その前後に、「9月脱原発アクションウィーク」のさまざまなイベントが企画されています。もちろん、東京だけではありません。「脱原発系イベント・カレンダー」には、北海道から沖縄まで、全国の予定が書き込まれています。こどもたちの放射線被ばくを心配するお母さんたちの集いが目立ちます。日本ばかりではありません。『世界が見た福島原発災害ーー海外メディアが報じる真実』(緑風出版)の著者、仙台の大沼安史さんの発信するブログ「机の上の空」は、アメリカ滞在中も毎日覗いて大変重宝しましたが、そこにあるように、イタリア在住の日本人有志が「日本国政府に「脱原発」政策の実現を求める公開嘆願書」運動を始め、全ヨーロッパに広がっています。その嘆願書は、「日本は、ヒロシマとナガサキという、人類にとっての癒せぬ「原爆の深い傷」を負った世界で唯一の国として、今こそ、フクシマという厳しい現実と真摯に向き合い、これ以上のヒバクシャを出さない、未来の世代への責任ある選択をする倫理的な義務があるはずです。そして、その選択に必要な叡智と技術、勇気が、今日の日本にはあると信じます。私たちは、真に民意を反映した政策の実現を切に日本国政府に願います」と結ばれています。3・11を経た民主党の代表選挙でも、国会での首班指名でも、原発についての国の姿勢が真剣に問われないのなら、今こそ「民意」の所在を、私たちの行動で示すときです。
前回8月更新トップで掲げた、 20世紀メディア研究所の占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」をもとにした1945-50年の日本における「原子力の平和利用」言説の私の分析には、多くの反響がありました。なかでも「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく受け入れられ、「鉄腕アトム」以前から少年マンガの世界では「原子力へのあこがれ」が広がっていた話には、いくつか具体的な情報が寄せられました。その一つ、『愛媛新聞』49年1月13日広告欄から拾った、<「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬が発売>の件で問い合わせがあり、調べたところ、なんと「あとむ製薬」は、1948年広島市安芸区に設立された薬種会社で、その後も社名を変えて、ヒロシマで存続しています。しかも、どうやら「あとむ製薬」は、もともと漢方薬から出発したようで、「ピカドン」も滋養強壮剤だったようです。これが「お薬博物館」にある富山県黒部産の「風邪にピカトン」という置き薬(1包40円)、富山市電子図書館にあるらしい「かぜに新ピカトンM( UESHIMA SEYAKUSYO)」とは別だとすれば、朝鮮戦争期の日本には「ピカドン」(「ピカトン」であっても包み紙から瞭然)という薬が、ヒロシマから発して全国で流通していたことになります。もちろん「ピカドン」といえば、丸木位里・俊夫妻の絵本『ピカドン』が1950年にポツダム書店から発行され、GHQのプレスコード規制(事後検閲)により、発売直後に発行禁止処分にあいました。「ピカドン」に原爆の悲惨や戦争の記憶をだぶらせ、被爆体験をフクシマまで貫こうとする肥田舜太郎さんのような言説もあります。「『ピカドン』が憎い」という小谷静登さんの叫びは、今でも心を打ちます。同じヒロシマに発するこの「ピカドン」への二重性、一方で「ピカドン」を憎み、呪い、他方で「ピカドン」に生命力の回復を託す心性こそ、1954-55年に原水爆禁止運動と「原子力の平和利用」を同時出発させる、戦後日本の両義性の原型でしょう。
私がアメリカに発つ直前、8月3日の『朝日新聞』に、「被爆国になぜ原発? 問われる『だからこそ』の論理」という塩倉裕記者の論説記事が載りました。そこに「日本人は原爆の唯一の被害者だから、平和な原子力を研究する権利を最も持つ」とする武谷三男の「だからこそ」の論理が、加納実紀代さんの「ヒロシマとフクシマのあいだ」(『インパクション』6月号)を用いて、紹介されました。前回指摘した『朝日新聞』1946年1月22日社説「原子力時代の形成」、47年9月10日社説「原子力の平和利用」、48年2月29日記事「原子力に平和の用途」等の自己分析がない点では画竜点睛を欠きますが、重要な問題提起です。ただし、戦後日本の左派の原子力論をリードし実践した武谷三男の言説は、「だからこそ」に尽くされない重層性があり、歴史的にも変化します。たとえば「原子力とマルクス主義」という論文があり、ソ連の科学技術発展に理論的希望を見いだしながらも(『社会』1948年8月号、『武谷三男著作集』4)、実際にソ連で原子力発電が出発し、日本でも Atoms for Peace から原発導入に入る頃には、「原水爆時代から原子力時代へ」という論理で、未だ技術的には未成熟で「原子力時代」にはほど遠いという実践的批判の立場を貫きます(「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)。当時の「原子力時代」礼賛論への批判です。問題はむしろ、武谷に限らず、日本の物理学者・社会科学者が、東西冷戦の文脈の中で核兵器と原子力発電をどのように位置づけていたかという点にあるのではないか、というのが、私のさしあたりの仮説。アメリカで入手したPeter Pringle & James Spigelman, The Nuclear Barons(Holt, Rinehart & Winston ,1981), John Krige, American Hegemony and the Postwar Reconstruction of Science in Europe (The MIT Press, 2008)がこの点で大変役立ちそうですし、今月滞在するドイツからは、Reinhard Zoellner, Japan. Fukushima. Und Wir(udicium Verlag, 2011)が早くも到着しました。日独原発の歴史的比較を含んだ、刺激的な本です。3・11で春学期が5月から始まったために、夏休みが短くなり、本格的読書の時間がとれません。9月はヨーロッパ滞在のために、15日の更新はパスし、次回更新は10月1日とします。ご了承ください。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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