「国債は政府の負債かもしれないが、国民の債権(資産)でもある(だから国債増発に何の問題もない)」という議論がまかり通っている。もっとも、そういう議論が見られるのは先進経済国の中でも日本だけで、欧州ではこの種の議論を展開するエコノミストに出会うことはほとんどない。ただ、現代経済学はマクロ経済勘定(国民経済計算)の議論が苦手で、個々のエコノミストにはこの種の議論を展開する者がいないわけではない。しかし、何度もハイパーインフレを経験している欧州では与太郎談義が主流になることはない。
落語の与太郎は「売上」と「利益」の区別ができない「愚か者」として描かれるが、日本のアベノヨイショや政治家は「国民負債」を「国民資産」だと喜ぶ「与太郎」である。
分かり易い事例で解説しよう。年収の2倍3倍の借金を背負っている友達が、与太郎からお金を借りる。与太郎は借り手からもらう借用書は自分の資産だから、喜んでお金を貸す。確かに、借用書は借り手の負債だが、貸し手の債権証(資産)でもある。しかし、これで「資産」が増えたと喜ぶ与太郎は「愚か者」だ。だから、与太郎は「もっとお金を貸して借用書を書いてもらったら、その分だけ資産が増える」と考える。アベノヨイショとアベノミクスの虜になった政治家が考えることは与太郎と五十百歩である。国債を発行すれば国民の資産が増えるなら、もっと国債を発行すれば、税金など納める必要がなくなる。国債発行ほどの錬金術はない。政府が借金をしても、国民の資産が増えるなら、これほどお目出たいことはない。
この与太郎談義の間違いの出発点は何処にあるのだろうか。
会計規則と経済実態を混同していることだ。複式簿記では、誰かの負債は誰かの債権として記帳される。政府の国債負債が国債購入者の債権であるというのは、たんなる会計規則上の話に過ぎない。素人は「債権」という言葉だけで、資産を保持したと思い込むが、それは帳簿上の話。
GDPの2.5倍まで膨れ上がり、さらに増え続ける日本の国債残高は、短期的にはともかく、長期的に償還が不可能である。これが国債発行の経済実態である。野放図な国債発行の典型である戦時国債が戦後のインフレで無価値になる歴史は、人類が何度も経験してきたことである。長期的に償還不能な累積国債はどのように処理されるのか、それが30-50年の長期で見た日本の経済社会にとって最大の問題である。償還されない国債はいずれ紙切れになる。「債権」はただの帳簿記帳の用語に過ぎず、「国民の債権が増える」というのは帳簿記入をなぞっただけ。紙切れと実態の区別ができない与太郎は「愚か者」である。
安倍の与太郎
首相の座を降りた安倍晋三は全国を回り、得意げに講演していた。
「子どもたちの世代にツケを回すなという批判がずっと安倍政権にあったが、その批判は正しくないんです。なぜかというとコロナ対策においては政府・日本銀行連合軍でやっていますが、政府が発行する国債は日銀がほぼ全部買い取ってくれています」。「みなさん,どうやって日銀は政府が出す巨大な国債を買うと思います?どこかのお金を借りてくると思ってますか。それは違います。紙とインクでお札を刷るんです。20円で1万円札が出来るんです」、「日銀というのは政府の、言ってみれば子会社の関係にある。連結決算上は実は政府の債務にもならないんです。だから孫や子の代にツケを回すな、これは正しくありません」(2021年7月10日に開催された三条市での講演)。
地方の聴衆といえども、さすがにこの話に相槌を打つ反応はなかった。「どこが間違っているか分からないけど、そんなうまい話があるはずがない」と考える聴衆は、安倍晋三のアジテーションに無反応だった。聴衆は直感的に、「安倍の話は怪しい」と思ったはずだ。でも、何がどう間違っているのか理解するのは難しい。
しかし、この安倍の議論は自らが考えだしたものではない。アベノヨイショたちの議論を自分なりに理解(戯画化)して描いたものだ。深く物事を考えることができない安倍晋三は、「日銀がお金を出してくれるから、国債発行に何の問題もない。なぜなら、政府と日銀は同じ政府セクターで、日銀は政府の子会社だから」と考えたのである。
アベノヨイショたちは、国債発行を擁護するために、「日銀が引き受けた国債は日銀の債権であり、日銀と政府は同じ政府セクター内の親会社-子会社関係にあるから、政府の国債負債と日銀の国債債権を相殺すれば、国債債務は消滅する」という議論を展開し出した(高橋洋一や故森永卓郎など)。これもやや複雑な関係を含むが、「アベノ与太郎談議」の域を出ない。なぜなら、「国債がこれほどうまく消滅させることができるなら、もっと国債を増発して、日銀が引き受ければよい」ことになり、借用証が増えて喜ぶ与太郎と大差ないからだ。まさにアベノ与太郎談議である。国債負債と国債債権が相殺されるというのは頭の中だけの話だ。もしそれが実行されたなら、とんでもないことが起きる。
日銀が引き受けた国債を相殺する実際の行為は、政府債務の帳消し(徳政令)である。もし日銀が政府債務をないものにすれば、日銀は中央銀行としての役割を終え、国際的信用を失い、ハイパーインフレが起こり、日本経済が大混乱に陥る。それが「実際の相殺」が意味するところである。ここでも会計上の帳簿記入と経済の実態(現実)が混同されている。
ただ悲しいことに、現代経済学はこの種の誤った議論を正すことができない。高橋・森永の議論もまた自らが編み出した議論ではなく、スティグリッツが政府の招聘講演(経済財政諮問会議、2017年3月)のわずか2行で触れたことを根拠にしている。スティグリッツは深く考えることなく、政府の国債債務は日銀所有の債権で一夜にして消滅する(Cancelling
government debt owned by government (BOJ). Overnight reduction in gross
government debt – allaying some anxieties)」
と自らの考えを披露した。高橋洋一はこの一言に飛びつき、鬼の首でも取ったかのように小躍りして国債相殺論を展開し始め、森永がそれに追随した。それが森永の「ザイム真理教」を生み出す出発点になった。
ノーベル経済学賞受賞者ですら、まことに不用意な議論を展開するという典型である。そのレベルは与太郎と変わらない。まさにここに、現代経済学の経済社会認識のレベルが如実に現れている。
政府の国債残高(国債負債)と日銀の国債引受額(国債資産)は相殺することができない。国民経済計算を学んだことがなく、経済の実態について深く考えたことがない経済学者が陥る陥穽である。私はこれを「スティグリッツの誤謬」と名付けた。素人や三流エコノミストだけでなく、ノーベル経済学賞受賞者ですら簡単に嵌る理論の罠である。
この詳しい議論は、拙著『幻想と現実』(https://www.morita-from-hungary.com/j-02/02-02.html#gsc.tab=0、161-163頁)を参照されたい。【ブダペスト通信2025年No. 43(12月6日)から】
「リベラル21」2025.12.16より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6931.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14568:251216〕












