中国政治の春の大行事、全国人民代表大会が5日から13 日まで開かれた。見慣れた行事ではあるが、今年はどうも例年よりさらに作り物に見えて、見物にも力が入らなかった。
というのはほかでもない、昨秋10月の中国共産党第20回党大会の最終日、覚えておられるだろう。議場の演壇、最前列中央の習近平総書記に向かって右隣りに座っていた胡錦涛前総書記が、議事の始まる直前に何者か不明の2人の男性に肘を抱えられて退場させられるという一幕があった。
すでに傍聴席には中国だけでなく各国の記者団も入っていたから、その一部始終は多くの目とカメラに記憶、記録され、世界中に伝えられた。中國当局が事後に新華社の英文記事でのみ伝えたのは、同氏は「体調を崩して退席した」という説明であったが、現場の光景は明らかにそれとは違い、胡錦涛は議案と見られるファイルを指さして、なにごとかさかんに説明しようとしたが、外から来た男性2人に力づくで議場外に連れ去られたのであった。
その後、胡錦涛の真意がどこにあり、なぜ議場外に出されたかの説明は、すくなくとも外部世界にはなにも聞こえてこなかった。しかし、あの数十秒は中国共産党という組織内部の深い亀裂の存在と、いざというときの処理の仕方、作風とでもいうべきものをはっきりと外部世界に知らしめたのであった。
それを意識したのか、今回の全人代では初日に(胡錦涛直系の)李克強首相が最後の政府活動報告を終えた後、まず習近平国家主席とついで李強次期首相と握手する場面があり、会場の拍手を浴びたが、これがまた演出じみて、なにかうそ寒いものが背筋に走るのを感じないわけにはいかなかった。
共産党大会に話を戻せば、9600万人にもおよぶ党員の中から5年に1度の大会に出席できるのは約3000人の代表である。大会前には各地、各分野で代表の選出がどのように行われたかがよく新聞記事になるほど大事な行事である。であれば、その代表1人1人の発言権は尊重されてしかるべきであり、まして大会に出席する権利はよほどのことがない限り守られなければならないはずだ。
しかし、あの時、なぜ胡錦涛が退場させられるのかを問う声は会場のどこからも上がらず、李克強、汪洋、胡春華といった同氏直系の要人たちは、出口へ向かう胡錦涛が背後を通っても振り向くことさえしなかった。おそらくあの場で胡錦涛に同調したり、同情したりといった行動に出れば、その後の自分の立場がどうなるかに自動的に頭が回転するように出来ているのであろう。
くどくどと昨秋の出来事にこだわってしまったが、あれ以来、なにを見てもあの事件を背景に置いて考える習慣が出来てしまったので、お許しを願いたい。
そこで、今度の全人代である。共産党大会があった翌年の全人代、とくに「10年で共産党の総書記交代」の慣例が生きていた時代のそれは、新総書記のもとでの組閣という意味で新鮮味があったのだが、今回はトップの習近平だけが変わらず、その他がほとんど交代という変則的な、それも要人のほぼ全員を習直系が占めるという「王政復古」と見まがう形となった。
それで中國は何処へ向かうか。その答えが出るにはもうすこし時間がかかりそうだが、それを考える手掛かりになりそうな兆候はすでに表れているようなので、今回はそれをお知らせしておく。
今年の全人代では、政権の考え方を窺わせる発言が3人から行われた。まず今回の大会を最後に引退する李克強首相による政府活動報告、国家主席に三選された習近平の演説、それと李強新首相の記者会見である。このうち一問一答の記者会見が一番中身がありそうなのだが、日本を含む西側の外国人記者の質問が認められず、つまり鋭い質問がなく、あまり参考にならないので取り上げない。
したがって、取り上げるのは李克強、習近平の演説である。といっても、演説原稿はスタッフがあちこち考えながら複数でつくるのだろうから、それほど個人的色彩が色濃く現れるわけではない。しかし、それでも個人差は出るはずなので、それを見ることにする。
まず李克強の政府活動報告。これはあくまで報告が先でその後に今年の目標がくるのだが、経済関係の目標数字を挙げてみると、GDP成長率は5%前後、新規就業者1200万人前後、都市失業率5.5%前後、消費者物価上昇率3%前後、国民収入の増加率は経済成長率と同程度、国際収支は基本的に平衡、穀物生産量は6.5億トン以上、というところである。
全体として、コロナの影響から回復しつつある経済をそのまま延長するといった目標で、退任する首相としては特別にどこに力を入れるとか、なにかを切り替えるとかいった発言は控えている印象を受ける。
この李克強報告については3月6日付の『日本経済新聞』が面白い分析をしているので、それを紹介しておく。
同紙が過去11年分の政府活動報告のキーワードを調べたところ、今年の報告は「安定」を意味する中国語の「穏定」という単語が33回も登場しており、前年22年のそれより38%も増えているという。「穏定」の意味を含めて「穏」一字だけが使われた場合を加えると、全部で90回も登場したそうである。退任する首相としては、なにごとも「安定第一で」というのが置き土産ということであろうか。
この記事に触発されて、習近平の演説を読んでみると、こちらは「強国建設」という言葉が目に付く。「強国を建設する」とか「強国戦略」とかを加えて数えると、12回あった。「穏定」に比べると少ないが、演説時間も半分ほどだし、「穏定」(「安定」)という一般的な形容詞に比べれば、「強国建設」は極めて具体的、かつ政治目標としてはいささか刺激的である。さほど長くない演説で同じ目標を12回も繰り返すのは、そこに力点があると考えてよいだろう。
ということは、これからの習近平中國は李克強の「穏定」でなく、「強国」を目指すのか。では「強国」とは何だ。
「強」を形容詞とする言葉を思い出してみよう。強者、強豪、強敵、強情・・・、どれもあまり親しみやすくはない。できれば敬遠したい相手だ。国でも同じだろう。習近平は中國をそういう国にしたいというのか。これまでの中国の表向きのスローガンとは違う路線だ。
古い話で恐縮だが、私が北京に駐在していた1970年代の後半は毛沢東、周恩来が世を去り、鄧小平が実権を握って、「4つ(農業、工業、国防、科学技術)の近代化」に取り組み始めた時代であった。その頃、中國はしきりにアジア・アフリカに生まれた社会主義政権の国々の元首を招いていたのだが、到着した元首の歓迎宴で中国側の首脳が述べる挨拶に必ず含まれたのは「国に大小なく、革命に先後なし」という一句であった。大国だからえらいわけではない、早く革命を成し遂げたからえらいわけではない、という意味だ。
言うまでもなく、世界で最初にボリシェビキ革命をなし遂げた故をもって、社会主義の盟主と自任していたソ連を皮肉り、自国を謙譲の美徳の持ち主と印象づけるための殺し文句であった。今、習近平はそれをみずから捨てて、「強国」として、世界に君臨しようというのである。
これは大きな変化だ。掛け値なしに自ら強国としてふるまうとはどういうことか。これまで中国が「大国」として一目置いていたのは米一国だ。台湾との関係でも、他国にはきびしく、しかし米にはいろいろ例外を認めてきた。米から台湾への武器の売却を認めているのはその最たるものだ。自ら「強国」を目指すとなれば、他国は黙ってオレに道を譲れ、逆らうな、と言っているようである。そうなのか。
昨年2月、北京での習・プーチン会談の後、「中ロ友好関係に上限はない」(当時の楽玉成外務次官)という言葉がこぼれ出てきた親密な関係は本物であったか、と思わせる習の「強国」への執着である。中國共産党は習の独走を許すのか。そこに軋みはないのか。
報道によれば、習のロシア訪問も近いという。「ロシアへの武器援助」などという物騒な話が「瓢箪から独楽」ともなりかねない。3期目の習近平政権の正体に眼をこらさねば・・・
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