「悪夢」のアベノミクス

 「黒田バズーカ砲」で始まった目先の景気浮揚を狙うアベノミクスは、コロナ災禍に遭遇して、元の木阿弥になりそうだ。自然災害であれ人災であれ、危機的状況の勃発時に、経済政策の正否が明々白々となる。アベノミクスの政策的正当性が疑問視されながら、株高や円安を成果と錯覚した人々は、アベノミクスを礼賛した。危機的状況でこそ、経済政策の真価が問われる。アベノミクスは膨大な資金投入で経済成長を図ろうとしたが、その目的を達成できずに、国家債務を積み上げただけだ。
 「元の木阿弥」と言っても、すべてが元に戻るわけではない。ボンボン宰相の火遊びのお陰で、資金供給のために日銀が引き受けた膨大な国債や株式が不良債権として残り、他方で政府の累積債務が上積みされた。これが目先の利得のために払った代償である。政治家も国民も、ポピュリスト政策の結末を直視すべきだ。「経済成長路線に乗せることができなかった」では済まない。そんなことは初めから分かっていたことだ。にもかかわらず、年金資産までを株式投資に流用し、官製相場で特定株主に漁夫の利を得させ、円安で特定企業が円安差益を貯め込んだ。なんのことはない、一部の人々と企業が「濡れ手に粟」を掴み、積み上がった負債が将来世代の国民に先送りされただけではない。日本社会は膨大な国家債務を抱える脆弱性を、さらに深刻化させた。これほどの不合理・不公正はあるだろうか。安倍内閣の罪は重い。万死に値する。まさに「悪夢」のアベノミクスである。

 アベノミクスが「高度成長をもう一度」というまったく根拠のない景気浮揚策にすぎず、国民の歓心を煽るものであることは、このブログでも何度となく指摘してきた。安倍内閣は国家財政を毀損させ、日銀資産の不良化と政策手段の狭隘化をもたらし、将来社会の持続可能性を土台から掘り崩した。
 戦後の若い世代が大量かつ持続的に新規労働力として市場に入り、消費財市場が拡大し、生産が持続的に拡大した高度成長時代は、すでに過去の時代である。日本経済と日本社会ははるか昔に青年期を終え、熟年期から老年期に入っている。今や人口減少が始まり、経済も社会も縮小する時代を迎えている。にもかかわらず、「高度成長をもう一度」という根拠のない政策を強引に推し進めれば、一部の企業や社会層が利得を得ても、社会は累積債務を積み上げるだけのことになる。政権を維持することしか念頭にない安倍政権の短期的ポピュリスト政策は、経済の一時的高揚の勢いに乗じて、自民党念願の憲法改正と自衛隊の海外派遣を狙ったものだ。しかし、その浅はかな「目的」の実現のために、ボンボン宰相は日本社会に途方もない債務を累積させた。「悪夢の内閣」、「戦後最低内閣」であることは間違いない。

 円安と株価上昇をアベノミクスの成果と誇ってきた安倍晋三だが、このボンボン宰相は政府の累積債務がもたらす深刻な結末に思いが及ばない。もっとも、それはたんに安倍晋三の頭にないだけでなく、アベノヨイショの「経済学者」も同類である。彼らは国家財政の赤字など、なんとでもなると考えている。しかし、国家の累積債務は国の体力にかかわる重大問題である。コロナ災禍であれ、大地震であれ、原発事故であれ、日本社会が大きな困難に遭遇した時に、累積債務で体力を失った政府がとりうる政策は限りなく制約される。余力の無い政府が赤字国債をさらに積み上げれば、確実に円の暴落が始まり、インフレ昂進を避けることができない。超インフレによって国家債務は減額されるが、国民資産もまた減価し、国民と国民経済は未曾有の困難に直面することになる。だから、長期的視野を欠く経済政策は百害あって一利なしなのだ。短期の景気浮揚ではなく、社会の安定的持続を政策目標にしなければならない。
 「安倍晋三とその仲間たち」は危機的な事態を迎えても、自分たちの責任を絶対に認めないだろう。天災が困難をもたらしたと主張するだろう。そうではない。天災に遭っても、余裕をもって国を再建できる体力をもっているか否かによって、政策の真価が明らかになる。体力が十分にあれば、日本株や円貨が売り浴びせられることはない。しかし、疲弊した日本経済が巨大な天災に遭遇すれば、その足許を見透かされよう。危機を迎えても、それを克服できる体力があるとみなされれば、日本売りはない。ところが、その体力をアベノミクスは限りなく衰えさせてきたのだ。
 日本の公的年金資産は年間GDPの三分の一程度しかない。200兆円にも満たない。にもかかわらず、なけなしの年金資産を株式投資に流用し、富裕層に散々儲けさせた挙げ句、定期的に襲われる金融危機で資産を減らしたらどうなるのか。ただでさえ小さな資産である。10兆円も20兆円も資産を毀損して良いわけがない。国会で「株式投資で年金資産が毀損したらどうなるのか」と聞かれて、安倍晋三はしゃあしゃあと、「当然、給付に影響がでる」と答えている。ボンボン宰相のお遊びで、年金が溶けてしまうことなど許すことはできない。ボンボン宰相の個人財産をすべて補填に回しても高が知れている。しかし、少なくとも政治家個人の責任をはっきりさせるために、自らの私財を投じて政策失敗を国民に謝罪すべきだ。

 これにたいして、野党はどうか。長期的視野に立って、アベノミクスに対抗できる政策を提示してきただろうか。野党も、与党と同じように、短期的思考のポピュリズムに陥っていないか。消費減税などと言うピント外れの政策で右往左往するのではなく、年金資産の保全と、毀損の政治責任をしっかりと問わなければならない。ボンボン宰相だって、人気回復のために消費税減税を打ち出すことに躊躇しないだろう。その程度の政策に、国民の受けを狙って野党が躍起になっているようでは、アベノミクスと五十歩百歩だ。与党も野党も、ポピュリズムの罠に陥って、そこから抜け出すことができないのだ。
 財政赤字の累積についても、与党だけでなく、野党もきわめて鈍感だ。国の借金などどうにでもなると考えている点で、野党も同じ穴の狢だ。政治家がこうだから、国民も「なんとかなるのではないか」という幻想から抜け出すことができない。まさに、政治家も国民も「今だけ良ければ良い」という超短期志向にどっぷり浸かっている。
 安倍晋三だけでない。政治家も国民も、毎年積み上げられる国家財政赤字の行く末に思いを馳せることができない。経済学者と称する面々も、「これだけ債務を累積させても国家財政が破綻していないのだから、この状態を続けても問題無いのではないか」という楽観論に支配されている。「原発は百%安全」、「大地震は来ない」のと同じで、「国家財政は破綻しない」というのは浅はかな期待であり幻想である。市井の人々がそれを信じるのは仕方がないとしても、政治家や「経済学者」と称する者が幻想を振りまくのは、社会的犯罪である。
 政治家も国民も、財政赤字は現世代の浪費が将来世代に回した「付け」であるという実感をもてない。日本社会がこの問題に真正面から向き合わなければ、将来、必ず、国民は立ち直れないほどの大きな困難に直面する。

 天からお金が降ってくるわけではない。国が負担するとは国民が負担するということだ。現世代が社会的消費(社会保障サーヴィス・給付)を浪費しているとすれば、社会的消費を減らすか、負担を増やして赤字が出ないようにするしかない。後者は私的消費の一部を削減して、社会的消費に振り替えることを意味する。だから、消費増税で私的消費が減るのは当然のことである。GDPが減るから消費増税は間違いというのは筋違いだ。しかも、GDPがどのように算出されるのか、GDPがどれほど国民福祉にと結びついているのかを知らないで、GDPを語ることは止めた方がよい。社会保障の水準を支えるものは何なのか、持続的に安定した社会を維持するために何が必要なのかを考えるべきだ。GDPの定義も知らずに、あたかもGDPだけが国民経済の豊かさを測る指標と考えているGDP至上主義は、考え方として間違っている。多くのエコノミストと称する連中も、GDPが実体経済を反映する指標だと考えている。このGDP至上主義が国民経済の行く末を過らせる。GDPを増加させることが社会を幸福にさせることではない。
 アベノミクスを批判する者は、アベノミクスが依って立つ短期的思考とポピュリズム思考から脱却する必要がある。短期志向とポピュリズムが野党をも支配しているとしたら、日本社会に未来はない。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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