● 2023.8.1 日本の8月は、1945年の敗戦を想起させる一連の日々が続きます。広島・長崎の原爆投下、ポツダム宣言受諾、天皇の玉音放送、戦没者慰霊の流れで「一億総懺悔」にいたる敗戦・被占領体験を、テレビ番組や新聞・雑誌の特集が報じます。どうも8月に「戦争の記憶」を凝集して、あとは経済成長・大国化や日米同盟・象徴天皇制など「戦後平和国家」を謳歌しかねないメディア構造が、1950年代から続いているようです。「戦争体験の継承」は、1995年の「戦後50年」あたりがピークで、その後は体験者が高齢化・死亡して先細りせざるをえないなかで、むしろ「新しい戦前」の方が、若い世代に実感される時代へと移っています。そのネタは、目前で進行するウクライナ戦争から、北朝鮮の核ミサイル、台湾有事、防衛費倍増、大メディアの大本営発表風情報統制、自民党中心で野党も巻き込む翼賛政治化等々、巷に溢れています。21世紀における「戦争体験の継承」から「新しい戦前」への備えは、自然な流れに見えます。宮崎峻監督の「君たちはどう生きるか」は、その流れを架橋し、加速するでしょう。
● 作家の森村誠一さんが、亡くなりました。代表作『人間の条件』は、敗戦・占領下の日本人女性の生き方を一つのベースにしたものでした。下里正樹さんと組んだノンフィクションの『悪魔の飽食』は、4月に亡くなった常石敬一さんの学術研究『消えた細菌戦部隊』と共に1981年に刊行され、関東軍731部隊の人体実験・細菌戦という、日本の「戦争被害」「悲惨さ」だけではなく、東アジア民衆への「加害者責任」を、目に見えるかたちで問題にするものでした。南京大虐殺、従軍慰安婦問題などと共に、以後も「戦争体験」の重層性を、問いかけるものでした。私も、2017年に『「飽食した悪魔」の戦後』という森村さん・常石さん等の研究を追いかけて、隊員たちの戦後の軌跡を追跡する書物を出しましたが、森村さんは、出版社の方に、励ましと謝辞の電話をかけてきたとのことでした。お会いできなかったのが残念です。
● その731部隊研究の世界に、西山勝夫教授らの「留守名簿」公開を補強する、重要な史料の発見がありました。明治学院大学の松野誠也さんによる、関東軍防疫給水部=731部隊正式発足時の「職員表」の発見です。「留守名簿」がおおむね1945年の敗戦時のものだったのに比して、「職員表」は1940年の本格的発足時の記録ですから、その組織構成等を対照することで、人体実験や細菌戦に関わった医師たちの具体的役割が明らかになるでしょう。さらに松野さんは、私と小河孝教授で本格的検討を始めた関東軍軍馬防疫廠=100部隊の「職員表」を見つけたとのことで、まだまだこの問題に関わる若い世代の研究者の活躍の余地があることをも、示してくれました。大いに期待します。
● 私の『「飽食した悪魔」の戦後』のなかで、特に自然科学や生物学に関わる研究者の方々から疑問を呈された、一つの論点がありました。それは、戦後米国占領軍がなぜ731部隊の人体実験データと引き換えに石井四郎ら731部隊医師たちの戦争犯罪を免責し極東軍事裁判で裁かなかったのかという文脈で、ニュルンベルグ裁判で問題にされたナチスの人体実験と比較しても日本の細菌戦は米国にとって魅力的な生物兵器開発だったのではないか、と問題提起したのに対して、何人かの善意の読者や講演会参加者が、第二次世界大戦時の日本がドイツよりも「進んだ」軍事技術を持つことなどありえない、と質問し疑問を呈してきたことでした。私は、当時のヒトラーの軍事科学への関心が、フォン・ブラウンによるV2ロケット開発や潜水艦Uボートにあり、軍事予算も科学者動員もそこに集中的に配分されたために、日本軍が「最終兵器」として膨大な予算と人員を費やした生物兵器開発が相対的にナチスのそれを凌駕していた、とエド・レジス『悪魔の生物学』の「ドイツの生物戦プロジェクトはささやかなもので、実際の兵器は一つも製造していなかった。……それとは対照的に、日本は第二次世界大戦が始まるずずっと前から、大規模な細菌戦プログラムに乗りだしていた」を引いておきました(加藤『「飽食した悪魔」の戦後』203−204頁)。
● 最近、ゾルゲ事件の研究に取り組むことで、731部隊研究のこの点を補強する、二つの知見を得ました。一つは、愛知大学・鈴木規夫教授と一緒に翻訳したオーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』のなかで、マシューズが最新のロシア語のインテリジェンス情報を使ったことです。ノモンハン事件時の日本側司令官小松原道太郎中将がソ連側のハニートラップによる情報提供者であったのではないかという、米国インディアナ大学黑宮広昭教授の所説に関連して、マシューズは、ロシア国防省中央公文書館の小松原道太郎に関係する史料からすると、小松原がノモンハン事件時に日本側情報をソ連に流したという証拠はないが、小松原がハルビン特務機関長であった時代にはソ連情報部にリークしていた可能性があり、「秘密資料には1932年8月、ハルビンで行われた東京参謀本部ロシア課長による、対ソ連兵器としての生物兵器の重要性に関する恐ろしい報告が含まれていた。この報告は非常に憂慮すべきもので、トゥハチャフスキー元帥、スターリンは自ら読んだという」という、まだ731部隊創設以前の、石井四郎が陸軍軍医学校に防疫研究室を作った時点での生物兵器構想の漏洩が、示唆されていたといいます(同訳書269−270頁)。ゾルゲ自身は、1937年にはハルビン郊外の「コレラ、ペスト等の細菌研究所」に注目していた形跡がありますが(加藤『「飽食した悪魔」の戦後』34−35頁)、このマシューズのいう小松原の生物兵器情報がソ連に伝わったとすると、ソ連はアメリカより10年早く(アメリカの日本の生物兵器への注目は1941年)、日本軍の生物兵器開発を危険視し、備えていたことになります。
● もう一つ、ゾルゲ事件は「マスタースパイ」ゾルゲによる1941年独ソ戦情報と日本南進情報をモスクワに伝えて、スターリンによる「大祖国戦争勝利」に導いたという、米国陸軍ウィロビー報告からマシューズの最新著にいたる流れの歴史的評価に関わります。世界の研究者が、ゾルゲと尾崎秀実による日本の御前会議での南進情報のモスクワ通報に注目し、プーチンのウクライナ戦争にあたっても、「大祖国戦争の英雄」ゾルゲを礼賛してインテリジェンスの重要性を強調する文脈で語られてきました。私はフェシュン『ゾルゲ・ファイル』中のゾルゲ諜報団の送電内容と、ゾルゲを「二重スパイ」と疑っていたモスクワ赤軍情報部でのその受容の仕方等からして、戦後の情報戦ではともかく、当時の歴史的事実として果たしてゾルゲ情報がそんなに大きな役割を果たしたのかに疑問を持ってきました。名著『独ソ戦』でゾルゲにほとんど触れなかった大木毅さんの新著『歴史・戦史・現代史』に手がかりを求めたところ、ゾルゲは出てきませんが、日米戦争開戦後の日独同盟のソ連観には「ねじれた対立」があったといいます。つまり「独ソ和平斡旋を望む日本側」の石原完爾をはじめとする勢力と在日ドイツ大使館に対して、他方に「日本の対ソ参戦を慫慂する」リッペントロップと在独日本大使館の大島浩らという、「東京とベルリンが枢軸側の外交をめぐって相争うがごとき様相」があったといいます(同書63頁)。
● これ自体、興味深い論点ですが、大木氏はさらに、尾崎・ゾルゲらが検挙された1941年10月、ベルリンの陸軍軍医学校で731部隊の北条円了が生物戦に関する講演を行い、日本の生物戦準備の進捗を人体実験データをも示唆して報告し、ドイツ側の立ち後れを批判し、ヒトラーが禁止していた「攻撃的生物戦」の実行を促した、というのです。それでヒムラーの生物戦研究所が作られ、1943年にはダハウの強制収容所で日本の技術と標本をも用いて人体実験が行われた、というのです(57−60頁)。私としては我が意を得たりですが、森村誠一さんや常石敬一さんがこうした事実と資料を得ていれば、日本の731部隊・100部隊の歴史的評価にも、いくばくかの論点を加えたことでしょう。「戦争の記憶」をもとにした研究が、「新しい戦前」の問題意識と結びついたとき、これまで自明とされていた史実や当然とされていた解釈がくつがえされる可能性があることを、示しています。731部隊研究の松野誠也さんのように、ゾルゲ事件研究やロシア・ウクライナ関係史についても、「新しい戦前」を意識した若い世代の研究が出てくるよう望みます。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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