「技術に完全はない」の捉え方 -原発推進派と反対派との対話から-

 

 本サイトでは京大原子炉実験所の小出裕章氏の講演会案内を掲載しているが、その小出氏と原発推進派の杤山 修氏(前東北大、現原子力安全研究協会)を交えた原子力に関するオープンフォーラム(2007年と2008年の2回開催)の記録がインターネット上に公開されている。

 大雑把にまとめると、原発推進派は、技術は完全なものではないから、考えうる限りの施策によって危険を取り除いて、安全に稼動させることができるのだ、と説く。一方、反対派は、技術は完全なものではないから、重大な危険性が拭い切れない以上、原発は停止すべきと主張する。

 「対話を繰り返すうちに、本当の合意に至ることもあるかもしれない」という小出氏の言葉が重要である、との主催者の指摘には全く同感である。しかしながら、同時にどうしようもない対立点が依然として数多くあることを再確認できたのも事実である。

 エネルギーという観点から、二酸化炭素地球温暖化を追い風として、原子力は地球にやさしいエネルギーと宣伝されている。しかし世界各国での原発建設計画などを見るにつけ、地球環境への配慮やエネルギーの節約などは二の次で、とにかくエネルギーが欲しい!、という思惑が透けて見える。確かに石油のハバート曲線に見られるように化石燃料の採掘には限界がある。鉱物資源もまた大国や資源メジャーによる囲い込み競争が激化する一方であり、尖閣諸島問題でレアアースメタルの輸入が滞ったときに生じた大騒動は記憶に新しい。

 いかなるエネルギー資源も地球上に埋蔵されている量しか採取できないのは自明である。しかし純分の低い原油からの精製や品位の劣る鉱石からの製錬が我々の技術力によってどんなに可能となっても、生産コストが高ければ経済原則に則って間尺に合わないと捨象されてしまう。小出氏が断定するように原子力エネルギー代替として化石燃料で全てを賄えると言われても、不安を拭い去ることはできない。

 しかし、その不安以上に繰り返しなされる杤山氏の次のような技術とかけ離れた発言には強い違和感をもった。「人間は本能に従って、より、さらに幸せになろうとし、その結果、このような状況を招いた」(第1回フォーラム報告書17頁)「ものすごく物を使ってしまうという社会ができたのは、ヒトが他人よりも幸せになりたいという根源的な欲に起因している」(同24頁)「豊かな社会をつくり、維持していくためにはエネルギーは必要である」(第2回フォーラム報告書20頁)「廃棄物というのは、発生させることによって利益を得た人、つまり発生者の責任だということが原則だと思います。ですから極論を言えば、電力を使うすべての人が発生者責任を担っているということになります。ただし原子力の場合は対価を払って電力会社から電気を買っているので、電気代を払った段階で、廃棄物の責任も電力会社にも移っていると考えるのが普通だと思います。」(第1回フォーラム報告書14頁:太字は筆者)。

 

 杤山氏も言及している「持続的社会」では、不幸もシェアされることで持続を目指すから、根源的な欲ばかりを追求することができなくなる、と考えておいた方がよい。豊かさを幸福の尺度にできない時代がやってくる。杤山氏の発言を読む限りでは、人間の欲望は原発を容認する、と解されるが、過剰生産、大量廃棄を是認する現在の社会・経済システムや国益と称する資源の独占を生み出す源泉が一人一人の人間個人の欲望の賜物とは言えまい。原発の安全性には問題がないのだ、それには自信がある、との主張を繰り広げるだけでは不十分なのであって、将来どのような社会が形成されてゆくかまで予測し、そのときの原発の位置づけを論じるべきと考える。杤山氏の「私たちが300年後に世界がどうなっているかなんて想像できる道理もありません。」(第1回フォーラム報告書17頁)はその通りだが、想像できないものはわからない、と割り切られても困る。想像できる範囲の将来でとりあえずは結構だから、そこで起きる恐れのある技術的な課題を何とかしていくのが、杤山氏いうところの「研究者・技術者の責任であり、使命」であることを、もう一度肝に銘じてほしい。

 ところで、欲、幸福、豊かさ、といった抽象的概念を持ち出さねば推進できない技術って、一体どんな技術なのだろう。それこそ、正月の新聞広告ではないが、「経済は理系を求めている」ならぬ「原子力技術は文系を求めている」のだろうか。折角、専門家同士で技術的な討論ができる環境が提供されたのだから、それに徹することで推進派と反対派で共通点を抽出し、双方で解決に取り組める可能性が見出せれば意義ある対話になったと思う。「技術に完全はない」という認識では、推進派も反対派もおそらく一致しているのだろうから。

 エネルギーの浪費や人間の豊かさへの欲望を駆り立てる社会・経済メカニズムや産業構造を変革することの困難さは容易に想像できる。将来、「だから、やはり原発を一層強固に推進するのだ」か「しかし、敢えて変革への道という困難に立ち向かうのだ」のどちらかを選択する場面に我々一人一人が立たされるかも知れない。どちらを選択するにせよ、ずっと後になって、そのときした選択を後悔しないためにも、相対する立場を知ることには有益である。やや散漫な印象を受けるが、一読をお薦めする。

「第1回原子力に関するオープンフォーラム『高レベル放射性廃棄物』に関する専門家と専門家の対話(2007年10月27日)記録」http://www.procom.niche.tohoku.ac.jp/pdf/nuclearopenforum.pdf

 

「第2回原子力に関するオープンフォーラム『高レベル放射性廃棄物』に関する専門家と専門家の対話(2008年 8月30日)記録」
http://www.procom.niche.tohoku.ac.jp/pdf/nuclearopenforum2.pdf

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0310 :110124〕