「秘密工作に充てる財政規模は、戦争に比べると、圧倒的に少ない額で済む」

書評:『世界を変えたスパイたち』春名幹男著(朝日新聞出版2025.2)

この本の副題は「ソ連崩壊とプーチン報復の真相」である。つまり、これはスパイにまつわる近現代史について書かれたものではなく、あくまでソ連崩壊の直前から、今日まだ終結をみていない「ウクライナ戦争」に焦点を絞り、政治の表舞台をその背後から考察した研究書である。まさに「舞台裏で蠢くスパイたちの動向」を、関連する外国資料(主に英語圏の文献)から丁寧に拾い出し、一つ一つを綿密に精査関連付けながら追認したものだ。それゆえスパイ活動に従事した何人もの人物の実名までが紹介されている。さすがにかつて敏腕記者として鳴らしたキャリアは伊達ではない。しかも決して堅苦しい本ではない。むしろ、「お堅いはず」の政情分析を補うに余りあるほどのエピソードがふんだんに挟まれていて、いくつかの章では「スパイ・サスペンス」小説を読んでいるかの錯覚すら覚える。

だからと言って、私=評者がこの著者の主張に全面的に賛成しているわけではない。

著者が構想時に立てた以下の仮説―「ウラジーミル・プーチン大統領の反欧米的立場の背景に「リバンチズム」(revanchism=報復主義)があると欧米で伝えられていること…。つまりプーチンはソ連崩壊の報復として、親友とみられるドナルド・トランプを当選させようと2016年米大統領選挙に介入し、更に親欧米に転換したウクライナ侵攻を決断した。という仮説を証明できないかという問題意識が浮かんだ。」―に、いささか強引すぎたのではないだろうか、という疑問を持っているからだ。

もちろん、語学力に乏しい私ごときが、いまさら著者が読破した膨大な外国資料に直接あたって研究するなんてことは無謀の極みである。そこで、いくつかの類書と比較しながら、あるいは最近のニュースなどをも勘考しながら、ともかくも本書の意義と疑問点を何点かにわたって、仕分けし紹介してみたいと思う。

  1. プーチンの「リバンチズム」論

著者の紹介から推してみるに、プーチンの「リバンチズム」という見方が欧米では横行しているようである。一つの改(解)釈としては確かに面白いと思う。しかし、それではプーチンはなぜ「戦争」という手段を選んだのか、なぜ「ウクライナ」なのか、別の手段でもって、今、多くの問題を抱えるEU内の諸国を切り崩すことも考えられたのではないのか、欧米からの強烈な反撃を覚悟の上で、なぜ開戦に踏み切ったのか。その辺りのところに割り切れない思いが残る。

また、プーチンおよび現今のロシア指導部が、思想的にはかなり右派であることはよく知られているが、そのプーチンが、社会主義国ソ連崩壊のリベンジをしようと躍起になるのは、なんとも不自然に思える。

むしろ直接的には、ウクライナを経ながら欧米からロシアへの政治的、経済的な干渉(新自由主義的な政策)があったのではなかったのだろうか、そのことへの危機感がウクライナを舞台に爆発したということの方が納得しやすい。もちろん、われわれの一般常識を超えたレベルで政治が動いているらしいことはわかるのだが…。

この本の中で経済問題が等閑視されているというのではない。第3章では「経済戦争」が取り上げられ、スターリンの農業政策の決定的な失敗により出来上がった「歪んだ経済構造がソ連の崩壊を招いた」と指摘されている。

「ソ連時代は、石油・天然ガスなどの天然資源の輸出で外貨を稼ぎ、その外貨で食糧を輸入して国民生活を維持するという脆弱な経済体制だったが、プーチンは、石油輸出では石油輸出国機構(OPEC)側について『OPECプラス』の一員となり、石油価格の操作に自ら関与。食糧供給では小麦輸出量が世界一となり、自国での消費に加え、『グローバル・サウス』の国々にも輸出、友好国を増やした。イランと北朝鮮には武器を供給させた。」

ロシア(ソ連)の弱体化が、ウクライナの領土復活要求を含めて、欧米からの進出を招いたという見方がある一方で、ウクライナをめぐって欧米とロシア双方の新自由主義政策が衝突したという別の見解(ナオミ・クラインなど)もあった。いずれにせよ、これらの立場から考えれば、プーチンの「リバンチズム」は、少し出来すぎだと思えてくる。

例えば松里公孝(東京大学教授)は『ウクライナ動乱 ソ連解体から露ウ戦争まで』(ちくま新書2023)で以下のような一見解を紹介している。

「ロシアの軍事専門家ワシーリー・カシンによれば、経済の構造転換の必要こそが、露ウ戦争準備過程におけるロシア大統領府の極端な秘密主義の理由であった。いくつかの産業分野(例えば航空産業)は消滅し、別の産業分野(例えば航空機産業)は急に生まれたか復活した。外資に頼っていた地域は極端な不況に陥った。…ロシア指導部が開戦後10か月間、兵器増産よりも制裁の打撃を抑え込むための経済構造の転換を優先していた事実は、ロシアの戦争目的の一端を表している。」

ここでは国内の「経済構造の転換」(産業再編成)を「露ウ戦争」を利用しながら行ったこと、この戦争が起きなければ、プーチン政権の「経済構造の転換」は、国内の大混乱の中に沈みかねなかったことが示唆されている。欧米の新自由主義的な経済攻勢に対応するために経済構造の転換をやることがまず先決であった。プーチンにとって、戦争準備=軍備増強は、その後だったことは、まさにソ連崩壊後のロシアを象徴的に語っている。

2. スパイによる政治工作は、戦争に比べて格段に安上がりだ

現代において、このことの持つ意味は極めて大きい。一例として著者はこの書の中で次のことを挙げている。

「米国がソ連軍のアフガニスタン侵攻に対して費やした工作費は、総額約30億ドルと桁違いに少ない。…秘密工作に充てる財政規模は、戦争に比べると、圧倒的に少ない額で済むのだ。米ブラウン大学の調査研究では、米国の「対テロ戦争」戦費総額は約8兆ドル(現在のドル価値で、1千兆円以上)、しかも7千人を超す戦死者を出しても、米国は対テロ戦争に勝てなかったのである。」

著者は、今日の「世界の大変動」を1981年7月に行われたオタワ・サミットでのミッテラン・フランス大統領とレーガン・アメリカ大統領の出会いと、「対ソ秘密工作での協力」をもって嚆矢としている。

つまり、この場でフランスのスパイが入手した秘密文書(KGBが西側先進国から大量のハイテク技術をひそかに獲得している、との4000ページにわたる秘密情報)が、レーガンに手渡され、レーガン政権はそれを基に「対ソ戦略」を画策し、その結果1991年ソ連は崩壊したという訳である。

ソ連崩壊の決定的な要因が何であったかの議論はしないが、少なくとも上記は非常に大きな要因ではありえただろう。

レーガン政権がソ連に対して仕掛けた秘密の工作は「四つの工作」として紹介されているが、ここではそれに触れることは控える。興味のある方はぜひ直接本書に当たっていただきたい。ただし、著者が、この情報を旧友R氏(元国家安全保障会議=NSCスタッフ)から得たということだけは付け加えておく。

近・現代の戦争はかなりの部分プロパガンダに負っているといわれる。お互いのだまし合い(政治宣伝)の背後で蠢いているのは、スパイによる情報活動、政治工作であろう。それがどのレベルまで巻き込んでのものであるか、確かなところはわかりようがないが、この本の中では具体例を挙げながらかなりの程度追跡調査されているように思う。

この本の類書にジョン・ポンフレット著『鉄のカーテンをこじあけろ』(朝日新聞出版2023)というのがある。著者は春名と同じく元記者(「ワシントンポスト紙」)である。

そしてこの書の中身を提供しているのは、元ポーランドの「情報機関員」だった人々である。この本に関する詳細は、かつて筆者=私が「ちきゅう座」に投稿した以下の書評をご覧いただきたい。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/〔culture1206:230802〕この本の中に、「それ(スパイ工作)がどのレベルまで巻き込んでのものか」に関する興味深い記事があったのでそれを紹介したい。

ワレサと言えば、元「連帯」の指導者で、90年にポーランドの大統領にまでなった有名人だが、そのワレサに関して、この本の解説者・吉留公太(神奈川大学教授)は次のように述べている。

「ワレサの過去も『浄化』の対象になっている。2000年の前歴裁判は、当時存在した証拠を基に、ワレサと旧体制期の内務省公安局(SB)との関係を『白』と判定した。しかし2016年2月に国民記憶院は、ワレサが1970年から76年にかけて SBの情報提供者であったことを疑わせる証拠をキシチャク元首相の残した文書類から見つけたと発表し、翌年には筆跡鑑定を基にワレサが SBの協力者であったと結論付けた。ワレサは反論しており論争は現在も続いている。」そして、「非合法時代の『連帯』がCIAに支援を受けたこと」も指摘している。

つまり情報機関のネットは、春名がこの本の中で縷々述べているように、恐ろしいほど広く深く張り巡らされていることがわかる。

3.「世界を変えたスパイたち」

著者がこの本の中で強調したかったことの今一つは、現在のロシアの大統領プーチンが、元KGBの長官だったことであり、そのプーチン政権の下で「新KGB国家」が新たに誕生させられた、ということにある。そしてプーチン政権に逆らう者たちは次々に抹殺、あるいは収監ないし追放の憂き目にあったという不気味な事実があったことはよく知られている。更に恐るべきは、その上彼らが超大国アメリカの大統領選挙にまで「情報機関」を使って介在し、ついには第二次トランプ政権まで成立させたこと。これこそがまさに「世界を変えたスパイたち」という意味なのだ。

ジャーナリスティックな見解としては誠に面白く、またいろいろな情報から精密に後付けがされていると思う。

しかし、どこか腑に落ちない、というよりも「プーチン―トランプ」のラインをあまりにも強調されすぎているのではないか、という点がなんとも気がかりである。

この本全体の論調も、当然ながらこの基本視座から論じられ、この結論へと導かれていく。

その結果前任者の、クリントン、ブッシュ(ジュニア)、オバマ、バイデンの扱いが粗雑な感じを受ける。例えば、「しかしバラク・オバマ大統領は対外軍事力行使に慎重だった。2013年、オバマはシリアの化学兵器使用を『レッドライン』としながら報復しなかったことが『転換点』になった、と米中央情報局(CIA)長官と国防長官を歴任したレオン・パネッタは言う。」とある。

この「転換点」がプーチンを増長させて、米国大統領選挙への介入となったと読めると同時に、オバマは平和主義者だったかの印象をも与えかねない。だが、彼らはトランプの先行者である。次の事実にも注目すべきだろう。

「リベラル派の中には『オルタナチブ・ファクト』が容認されているとして、労働者階級のトランプ支持者は『だまされやすい』と決めつける向きもある。だが、オバマ前大統領の支持者の大部分は、オバマ政権が入念に作り上げたシンボルの数々―同性婚を認める最高裁の判決を祝して虹色にライトアップされたホワイトハウス、礼儀正しく学識ある語り口への転換、8年間大きなスキャンダルとは無縁だった飛び切り魅力的な大統領一家の姿―を喜んで受け入れた。ところがその同じ支持者たちも、米軍のドローン攻撃で多くの民間人が巻き添えになっていることや、オバマ政権下で約250万人の不法移民が国外追放されたこと、グアンタナモ収容所の閉鎖やジョージ・W・ブッシュ政権下で作られた大量監視システムの停止という約束を果たさなかったことについては、往々にして見て見ぬフリをしてきたのだ。また、オバマは自ら気候変動問題の英雄のようなスタンスを取りながら、米政府は『地球一周分を超える新たな石油と天然ガスのパイプラインを建設した』と自慢げに語ったこともある。」ナオミ・クライン著『Noでは足りない トランプ・ショックに対処する方法』(岩波書店2018)

もちろん、「プーチン―トランプ」問題に関して、専門的な知識を持つ著者に対して、評者=私などが、軽々に評ずることは慎まねばならないと思うし、次の個所もさすがにすごいニュースを物していると感心するところだ。

「ロバート・ミュラー特別検察官が2019年3月に公表した『2016年大統領選挙へのロシアの干渉に対する捜査報告書』にIRA(ロシアの工作機関『インターネット・リサーチ・エージェンシー』)が行った米国のSNSに対する秘密工作の経緯が明記されている。IRAとはプリゴジンが創設(職員600人以上、年間予算1000万ドル)し、『トロール』(虚偽の陰謀説などをSNSに書き込んで、大量に拡散させる工作の拠点)と呼ばれる工作を展開。実際にはプーチンのプロパガンダ工作も一翼を担った『民間情報機関』と言えるだろう。」

そこで、素人のつたない意見は極力控え、次善の策として、同じ専門家からの引用に頼りながら、あくまでも読者への問題提起という形で、この小論を締めくくりたいと思う。

まず、ロシアが専門の下斗米伸夫(法政大学名誉教授)への『ダイヤモンド』編集部のインタビューから…。

「…米中対立のなか、米国とロシアによる、グローバルな核管理や欧州安全保障を含めた国際秩序の作り直しが始まった(ように思える)。

「クリントン大統領は96年秋再選を狙うなかで、米国内の1000万人いるポーランド系の人たちを取り込もうとして、ジョージ・ケナンなど外交官やロシア問題専門家の意見を無視してNATO拡大を推進した。

97年にNATOがポーランドやハンガリーの加盟を決めて以降、他の旧東欧諸国やバルト3国などが相次いでNATOに加盟することになった。プーチンが本気でNATO拡大を阻止しようとしたのは、2008年に旧ソ連のジョージア、ウクライナという正教国まで独仏の反対も無視して拡大させようとしたからだ。

ただ米国内や民主党内、バイデン政権の中でも意見が分かれている。NATO拡大は「やり過ぎた」という声もあり、ウクライナ問題への介入についても、元ロシア大使でCIAのバーンズ長官らは回想録で書いているように『内心しまった』と慎重派だ。

一方で東欧ディアスポラ出身のブリンケン国務長官、ヌーランド次官らネオコン系は東方拡大の広告塔のような存在だし、バイデン大統領自身もアフガニスタン撤退で批判を受けたから弱腰の姿勢は見せられないということがある。」

もう一人、先に引用したナオミ・クラインの同書の中から引用する。

「(マスコミが)トランプを有利にした最大の要因は放送時間の長さではなく、選挙を娯楽情報として扱ったことにある。メディアは延々と候補者同士の人間関係のあれこれにスポットをあてるばかりで、政策の内容を掘り下げたり、医療制度改革や規制緩和といった問題についての各候補者の公約が有権者の生活にどんな影響をもたらすかを解説するといった、ジャーナリズムが本来果たすべき役割をほとんど放棄してしまったのである。」

ここには今日のメディアの在り方への批判が含まれる。そして、同じことが日本のTVでも行われている。しかもそれが今や当たり前のこととして広く人口に膾炙している。「幼稚化」とか「白痴化」とかさまざまに悪口を言われながらも、メディアによる大衆操作(企画者、出演者、そして観衆によって構成される)が行われる。これは、やはり「ソフトなファシズム化」と見るべきなのか。

プーチン、トランプ、など偉そうにふんぞり返るエリートたちを思い浮かべながら、ふとラブレーの次のセリフを思い出した。

「熟々惟(つらつらおもん)みるに、現在この世で皇帝王者王公貴族教皇の位にある者でも、源を探ねれば、勧進坊主や葡萄取り入れ時の籠担ぎどもの後胤である場合がいくらもあるのだし、これとは逆に、貧民救済院行きの赤貧洗うがごとき憐れな浮浪人と成り果てた者どもが、権勢並びなき王者帝王の血統家系の流れを汲んでいることもあるのであり、これは諸々の王位及び帝国の感歎すべき移り変わりの結果であって、…(『第一之書 ガルガンチュワ物語』ラブレー作 渡辺一夫訳 岩波文庫1974)

評者の能力不足から「プーチン―トランプ」ラインにうまく触れることができなかったうえ、「オレンジ革命」「マイダン革命」という重大事件を完全にスルーしてしまった。この責めはいずれ果たしたいと思っている。二つだけ付け加えさせていただく。一つは、先ごろ知ったことだが、トランプとプーチンによる「ウクライナ問題」をめぐる交渉の背後に、中国の習近平の影があるらしいという米国の「ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)」やイギリスの「ロイター通信」などからのニュースである。大いにありうるように思う。また、本書の著者、春名幹男氏のキャリアについては、前にやはりちきゅう座に掲載された小論「国家(国民)を食いものにして肥え太る企業とその背後をうろつく「巨悪」」で書かせていただいた。興味のある方は以下の記事の閲覧を請いたい。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/ 〔opinion14148 : 250316〕

  

2025.3.11 了