「精神的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ!」(森瀧市郎)

2012.5.1  5月5日に北海道電力泊原発3号機が停止すると、日本は「原発ゼロ」状態になります。しかし野田内閣は、なおも関西電力大飯原発3・4号機を突破口に再稼働を狙っており、安心はできません。この1週間も大きな地震が続き、日本原子力発電敦賀原発の直下に活断層が見つかりました。地震学者からは、大飯原発ほか多くの原発のそばに連動活断層の疑いが指摘されています。世界一の地震大国日本が、いつ脱原発に踏み切れるのかを、世界が注目しています。前回更新で、原発再稼働を決めた関係4閣僚会議の完全議事録公開を求めたら、なんと議事録を作っていないという驚きの答えを、官房長官が涼しげに語っていました。まったくあきれた「先進国」です。あのソビエト・ロシアでさえ、政治局やクレムリン頂点の政策決定の記録を残していました。今日から見れば荒唐無稽な、えん罪での政治犯粛清裁判や強制収容所の労働記録も、生真面目に記録され、保存してありました。日本の戦時記録の多くが敗戦時に焼却されたり私蔵され拡散されたことにより、日本の現代史研究者は、世界の公文書館・資料館に、残された記録を、探しに行かねばなりません。それがまた、第2の敗戦ともいうべき2011年3月11日についても、繰り返されそうです。権力を私物化する指導者たちの責任逃れ、「無責任の体系」のなせるわざです。もっとも原発再稼働への実質的決定は、4相会議メンバーの枝野・細野氏に、仙谷政調会長代行・古川元久国家戦略相、斉藤勁官房副長官を加えた「チーム仙谷」5人組にあったようですから、そちらの記録・議事録も、公開してほしいものです。内閣支持率はついに20%台前半に、再稼働反対世論は6−7割、それでも野田内閣の大飯原発正面突破姿勢は、変わっていません。まだまだ要注意です。 

 4月28日、野田首相が、労働組合「連合」の中央メーデーに招待され、消費税増税を「何としても実現」する決意を述べたそうです。奇妙な光景です。主催者発表3万5千人参加の働く人々の祭典に、働く人々の生活を直撃する増税を首相が堂々と語りかけ、すでに大きな被害・失業と不安・不信をもたらしている福島原発事故と焦眉の再稼働問題には、触れないのですから。そういえば、民主党内で野田首相の消費税増税に反対する小沢一郎元代表からも、法的無罪をかちとり政治的復権を狙っているのに、東北岩手が出身選挙区なのに、震災復興・原発についての政策提言は、聞こえてきません。日本政治の倒錯です。もともとメーデーは、世界的に5月1日に行われてきた労働者の統一行動日。古代ローマの五月祭にまで遡ることもできますが、1886年にシカゴの労働者が8時間労働要求のストライキを打ち、1889年の第2インターナショナル創立大会で世界の労働者の国際連帯の日に決定しました。20世紀の世界では、産業労働者階級が主人公になる、社会主義・共産主義の示威の日ともなりました。日本でも、1905年以降、さまざまな示威が試みられますが、本格的始まりは1920年、8時間労働日を求めた友愛会の上野公園集会で、1万人が集ったといいます。労働組合が合法化された1946年以降に大きくなり、46年は東京皇居前広場に50万人、全国100万人が参加しました。今年の4月28日の連合中央メーデーに3万5千人、5月1日の全労連メーデーに2万人のほか、全労協も別集会と分裂している今日からみると、隔世の感です。日本の戦後民主主義の息吹は、戦闘的労働組合運動と一体でした。

 

 1952年のメーデーが、朝鮮戦争のさなか、デモ隊と警察の衝突するいわゆる「血のメーデー」になったことは、よく知られています。法政大学大原社会問題研究所HPの『日本労働年鑑』で調べると、翌1953年も「再軍備反対、中立堅持、朝鮮戦争を止めろ」「日本のファッショ化反対、平和憲法と民主主義を守れ」「統一闘争で最低8000円を闘いとれ」を掲げて、第24回中央メーデー(神宮外苑)50万人、全国200万人以上の参加で、すぐに復活しています。54年第25回も「MSA再軍備反対、平和憲法を守れ」「ファッショ勢力の排除、自由と民主主義を守れ」「賃金引上げ、重税反対、最低賃金制を守れ」の統一スローガンで、神宮外苑50万人です。55年第26回の東京は雨でしたが、やはり神宮外苑40万人、「労働者の団結で自由と平和・生活と権利を守れ」「失業・低賃金・重税反対、社会保障と最低賃金の獲得」「平和憲法擁護、すべての国の原水爆反対、民族の完全独立を闘いとれ」「労働戦線の団結強化、社会党の合同促進」と意気盛んです。当時のメーデーは、日本労働組合総評議会(総評)が指導し、全国的求心力を持っていました。

 

 実は、そのメーデーの第27回、1956年1月神宮外苑50万人の中央集会のスローガンに、「全労働者の団結で賃金引上げ、最低賃金法の制定、労働時間を短縮しよう」「憲法改悪阻止、お手盛り小選挙区粉砕、すべての国の原水爆反対、原子力の平和利用の促進」「社会保険の改悪阻止、首切り重税反対、労働基本権を守れ」と、「原子力の平和利用」が初めてかかげられました。ただし昨年来本HPで掲げてきたように、1945年8月の広島・長崎原爆直後から、日本では原子力の威力への恐怖と畏敬のアンビバレント(両義的)な心性があり、仁科芳雄・武谷三男ら科学者たちの解説も、新聞・雑誌の論調でも、「原子力の平和利用」が語られていました。占領下の原子力イメージで述べた詳細は、加藤「占領下日本の情報宇宙と『原爆』『原子力』――プランゲ文庫のもうひとつの読み方」という論文として、20世紀メディア研究所の雑誌『インテリジェンス』第12号に掲載されました。労働組合や日本共産党も、特に1949年のソ連の原爆実験成功以降、「社会主義のもとでの原子力の平和利用」の夢を語ってきたことは、昨年末同時代史学会報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのかで述べました。これらの延長で、来る5月26日(土)午後1時30分−5時、明治大学リバティータワー1101号室で開かれる、社会運動史研究会・現代史研究会主催、ちきゅう座後援「全ての原発の終焉をめざして」で、「反原爆と反原発の間ーー日本マルクス主義からなぜ高木仁三郎、小出裕章は生まれなかったのか」という講演を行うため、その準備の過程で、56年メーデー・スローガン「原子力の平和利用」を見つけました。 

 

 この1956年総評のメーデー・スローガンは、前年「六全協」で朝鮮戦争期の分裂・非合法活動から立ち直り、再建されたばかりの、日本共産党をとらえました。もともと占領期の共産党は、武谷三男の「原子力時代」論の影響下に、「原子力の平和利用」の急先鋒でした。徳田球一書記長は、1949年末に「なぜ資本主義社会では原子力を平和的につかえないか、なぜソ同盟では平和的に使えるのか」と明快に述べていました。徳田書記長の北京での客死後も、宮本顕治・野坂参三らの指導部は、ソ連の原水爆実験と原子力発電を「社会主義・平和勢力の勝利」「帝国主義への抑止力」と誇ることこそあれ、批判することはありませんでした。1954年のビキニ水爆実験・第5福竜丸被曝で放射能の恐ろしさが再認識され、原水爆禁止運動が国民的盛り上がりを見せると、そこに食い入ろうとしました。中曽根康弘らの原子力予算が国会で通過し、正力松太郎らのAtoms for Peace キャンペーンを背景に「自主・民主・公開」をうたった原子力基本法ができると、当初は保守勢力主導の法案と早期の商業化に反対していたのに、「平和利用」の合唱に加わります。同党機関誌『前衛』1956年7月号の永田博「原子力問題について」という(筆名の)論文がそれで、労働者がメーデーで「原子力の平和利用」をとりあげたのは「ソ同盟における原子力の平和利用の飛躍的発展」を背景とした「国際的たたかいの成果」であり、労働者階級の「積極的意志」だから、「頭から拒否、反対の態度だけをとる」ことは「国民の力の軽視」になる、とさとしました。「原子兵器禁止を要求する国民の力こそ、本来原子力平和利用を保証する力」と、「軍事利用」と「平和利用」を対置します。 

 

 ちょうど広島では、前年米国からの広島原子力発電所建設案は断ったものの、5−6月に原爆資料館で「原子力平和利用博覧会」が開かれたばかりでした。8月6日の平和記念式典で、渡辺広島市長は「原子力の解放が一方において人類に無限に豊かな生活を約束する反面、その恐るべき破壊力は人類の存続を根本からおびやかしている」と述べ、同時に開かれた第2回原水爆禁止世界大会には「原子力の平和利用」分科会が設けられ、大会決議にも盛り込まれます。その直後、1956年8月10日に、長く国内でも差別を受け、十分な治療からも国家補償からも見放されてきた広島・長崎の被爆者たちが、ようやく一つになって、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成されました。その結成宣言には、「私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」とうたわれ、「私たちは、遂に集まることができた今日のこの集まりの熱力の中で、何か『復活』ともいうべき気持ちを感じています。私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から『生きていてよかった』とよろこぶことができるでしょう」と宣言されます。この宣言の起草者こそ、後に「核と人類は共存できない」という見地から、反原爆ばかりでなく反原発の先頭に立つ、被爆者森瀧市郎でした。後に、「草案を書いたのは私自身だった」「あれだけ悲惨な体験をした私たち広島、長崎の被爆生存者さえも、あれほど恐るべき力が、もし平和的に利用されるとしたら、どんなにすばらしい未来が開かれることだろうかと、いまから思えば穴にはいりたいほど恥ずかしい空想を抱いていた」と告白します(「核絶対否定への歩み」)。 

 

 

 日本の反核運動は、「反原爆」の平和運動が「原子力の平和利用」=原子力発電の増殖と平行して進み、「反原発」の方は、当初は立地候補地の農漁民運動・裁判闘争として、後に反公害・環境保護の市民運動として展開し、交わることは稀でした。そのごく稀な接点で、1970年代以降、警告を発し続けたのが、もともと英国倫理学の哲学者であった、故森瀧市郎でした。その遺著『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ40年―ー森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)、追悼集『人類は生きねばならぬーー森瀧市郎の歩み』(刊行会)などは、3・11を経ても何らふるくはなく、いや、福島原発の悲劇を経た今こそ、強く胸を打ちます。ガンジーから学んだ「祈りと抗議の座りこみ」という森瀧市郎の抵抗の方法は、いま経済産業省前テントひろば等で、多くの人々に受け継がれています。バートランド・ラッセルをはじめとした世界の反核活動家、ヒバクシャと結んでいた森瀧市郎は、「座りこみ」の有効性についてのある少女の問いに答えて、その決意を、日本語と英語の言葉にしました。「精神的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ Chain reaction of spiritual atoms must overcome Chain reaction of material atoms」ーーいま日本の政治に必要とされているのは、3・11を忘れず、脱原発に踏み込む、心と声と行動の連鎖です。  

「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1932:120502〕