「自由」は反マルクス主義であり反革命である

――八ヶ岳山麓から(228)――

ほとんどの中国人は、中国に劉曉波という人物がいて、08憲章なるものを起草して民主化を要求し、そのために投獄され、獄中でノーベル平和賞を受賞したことを知らない。その死は伝えられることはない。
そうした中国の統治者である中国共産党中央が、先に紹介した。「自由があってこそ創造があるのだ」という北京大学教授張維迎氏の主張を放置するはずはなく、同主張はネットに登場してから12時間足らずで消去され、かわって当局の意向を忖度した反論がただちに登場した。
ここでは「張維迎の類が北京大学を利用して『墓堀人』を養成するのを絶対に許さない」という論文(以下「反論」)を検討してみる。
https://finance.sina.cn/china/cjpl/2017-07-11/detail-ifyhwefp0577990.d.html?vt=4&pos=108

「反論」の要点
張維迎論文の中心は、「中国の過去500年の(イノベーションの)空白は自由が制限されていたからだ。思想の自由がなければ、行動の自由もない。自由があってはじめて中国人の企業家精神と独創力を十分に発揮でき、中国を新しい国家に変えることができる」という点に尽きる。張氏は中国経済の高度成長をそれなりに評価しているのだが、さらにその先の段階へ進むためには徹底した市場化をやるほかないと主張してきた人物である。
したがって、張維迎への批判は、自由がなくても科学技術は発展するとか、中共施政下でも独創的技術が生まれたとかいうことでなければならない。ところがこの「反論」では欧米日の中国侵略の歴史や、鄧小平農政の自作農創設や、中共治政下の経済の高速発展が偉大なものであったことをことさらに強調し、さらには習近平主席が毛沢東に心酔していることを受けて、毛沢東が文化大革命中に青年を農村に「下放」したことを肯定し、現在の中共中央指導部に「下放」経験者が数多くいることを誇らしげに記している。
この「反論」が技術開発にまともに触れた部分は、わずかに屠yaoyao(yaoは口ヘンに幼)女史が新薬の開発でノーベル生理学医学賞を受けた事実と、中国「雑交水稲」の父袁隆平氏のハイブリッド水稲技術、さらに中国の特許申請件数が世界一の多さに達したことしかない。
科学技術分野でのノーベル賞受賞者が屠女史たった一人、めざましい業績が袁隆平氏一人という事実は、むしろ張維迎氏の「自由がないところには独創がない」という主張を裏付けるものだ。特許に至っては、洗濯機のごみ取りからips細胞周辺までそのレベルは千差万別だから、特許申請件数が多いことがただちに中共支配下で独自の技術開発が数多くあることの証明にはならない。

「反論」氏が本当に反論したかったこと
「反論」の著者もこうした「反論」がいかにも愚かで、まかり間違えば張維迎論文を肯定することになりかねないことはわかっているかもしれない。では「反論」氏が本当にいいたいことは何か。
答えは簡単で、張氏が「自由がなければ、独創も科学技術の発展もない」といったことがいけないのである。「反論」氏にとっては、これこそマルクス主義に反し、共産党の指導を否定する資本主義の道を歩ませることになる。そこでこんなふうに口を極めて張維迎氏を非難するのである。
「学んでは人の師、行なっては世の模範であるべきなのに(張維迎は)『自由と責任』のスローガンを打ち立て、ほらを吹き、極めて険悪な了見で、新中国で生まれた天地をひっくり返すような変化を根本的に無視し、改革開放以来の目を見張る成果を否定し、共産党の指導を否定し、我々の路線と理論、制度、文化についての自信を破壊している」
「突き詰めたところ共産党の指導を覆し、英米モデルによって中国を徹底改造し、資本主義の道を歩ませようとしている。これは学術問題でもなんでもない。重大な原則問題・政治問題である」

なぜ自由を求めるものが生れるか
劉曉波氏にしたように、中国憲法の民主的条項の完全実施や司法の独立を要求するものをただちに投獄したとしても、中国には思い出したように、自由だの民主主義だのを求める張維迎氏のような人物が現れる。
そこで「反論」氏は「現在(張維迎のような)社会上のあれこれの反党・反軍・反政府などのマイナス感情がなぜ盛んになったのか」と問い、自ら答える。
「わが国改革の全面深化・全方位対外開放・中外の交流は頻繁になり、英語・ロシア語・日本語・ドイツ語・フランス語など外語使用の人はだんだん多くなった。我々は外語を使用すると同時に、自覚するか否かにかかわらず一種の価値観念・思惟方式・言語体系を受取り押し広めている。こうした状況の中では、人によっては、『ヨーロッパは強く自分は弱い』という言語構造の中で定見をうしない、ヨーロッパ理論と価値観の『伝声管』になり、実質的には『魂を失う』ものが出てくる」
つまり、経済のグローバル化や文化の多元化が中国インテリの思考を「西側化」し、反マルクス主義的にしているというのである。ならばいくら警戒しても「定見」を失い「墓堀人」の卵となるインテリは、いくらでも生まれることになる。そうだとすればこれは力で抑えつける以外にない。
私が知るかぎり、力づくではない方法もある。中国で生活していたとき、私が接した学生のほとんどはマルクス主義の初歩の教条を知らなかった。「中学高校でいやになるほど暗記させられたから、もうマルクスはいやだ」というのがその答えだった。
若者がマルクスを忘却の彼方の追いやることは、中共指導者にとってはたいへんに都合のよいことである。中国の現状をマルクス経済学の教条に照らして、「中国では資本による労働の搾取があるのか」とか、「中国富裕層のあの巨万の富はどこから来たか」などと若者に言いだされては困るのである。

プロレタリアート叛乱への恐怖
まじめな話だが、中国では一党独裁を非難したり、資本の利益制限を主張したりするものは反マルクス主義的であり反革命である。権力と富とが特定階層に集中する現体制を正当化し、国家独占資本主義のゆがんだ市場経済を擁護するイデオロギーこそがマルクス主義である。マルクス先生、エンゲルス先生がご存命であればどんなに驚かれることであろう!
そして張維迎氏のように徹底した市場化を主張する体制側イデオローグでも、自由を掲げて現状を批判すれば打倒の対象になる。それは市民・労働者の反権力的組織的抵抗を導く恐れがあるからである。中共中央が恐れるのは、1989年の民主化運動の再現である。市民・労働者が組織され、民主主義への体制変革とか、資本の利益制限とか、社会福祉などを要求しだすことである。
中共は中央から地方の末端まで権力の網をしっかり張ってはいるが、その支配を正当化するイデオロギーは、現実との乖離がはなはだしく、現体制によって利益を得ている数百万の富裕層をのぞけば、十数億人民大衆に対しては説得力はほとんどない。
そこで中国政府はこの6月はじめ、イデオロギー規制を強化する「ネット安全法」を施行した。当局は遠慮なくネット情報をコントロールできるし、ネット運営者は利用者の個人情報などを提供しなければならない。反政府運動が起きないのはこのように人民大衆がバラバラにされ、横の連携を絶たれているからである。こうして張維迎氏へのばかばかしい「反論」には、体制側イデオロギーの深刻な危機感が反映されていることがわかるのである。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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