今年も例年のように、こともなく34回目の「6・4」」が過ぎた。「6・4」とは1989年6月4日、中国の民主化を求めて、この年の4月以来、北京はもとより全国から天安門広場に集まっていた大学生らを軍隊が発砲をともなう実力で排除した事件で、政府の公式発表でも319人の死者が出たとされる。おそらくもっと多いはずだが、死者の実数は今もって分からない。
「例年のように」というのは、事件以来、毎年この日に内外のニュース・メディアは「事件以来、何年が過ぎた」と人々の記憶を呼び起こし、また中國の警察は事件が昨日のことだったごとくに厳しい警戒態勢をとり、各地で何人(おおむね小数)が拘束されたといった小さな「ニュース」がおまけにつく、という形で終わることを意味する。
しかし、その「例年のように」が30年以上も続いたとなると、それはそれでいくつかの「?」を生む。
まず、とくに事件も起こらないのになぜ「小」なりとはいえ、「6・4」がニュースになるのか?その答えは、何と言っても軍隊が自国の無抵抗の若者に対して銃口を開いたという事件の特異性だろう。勿論、3桁の死者というのも尋常でない。政治の民主化というきわめて当たり前の要求に権力側が不釣り合いに過酷な懲罰を加えたという点が特異性を増幅する。
ただこの事件を忘れがたくしているより大きな理由は、「当たり前の要求に不釣り合いな懲罰」を加えたにもかかわらず、権力側はその後も反省するどころか、「当たり前の要求」をより一層強く足で踏みつけにしたまま、素知らぬ顔をしているところにある。
歴史上のさまざまな出来事のうち、過酷な犠牲を強いられても、結局、正当な要求が貫けたとすれば、当事者も見るものも納得して、その事柄は歴史の中に収められるだろうが、不釣り合いに過酷な処分がまかり通ったまま、事態が変わらないとすれば、当事者も見るものも、憤懣を収めようがない。「6・4」がいつまでも「6・4」であり続けるのはそのためだと私は思っている。
では、「6・4」はなぜ歴史を前進させる力になりえなかったのか。
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私は昔、テレビ局でニュース記者をしていた。そして1977年~80年の間、北京に駐在した。それもあって「6・4」につながる民主化運動が始まった時、北京支局の応援に出かけた。
最近の中国を見ていると、中華人民共和國には当初から言論の自由がなかったと考える人も多いと思うが、そんなことはない。むしろ共産党批判がこの国の歴史を動かして来たと言ってもいいくらいなのだ。
詳しい話は省略するが、建国して10年もたたない1950年代後半、当時の最高指導者、毛沢東は国民に共産党批判を呼びかけた。「百花斉放、百家争鳴」の掛け声のもと、国民に言いたいことを言わせようとした。なぜそうしたかは、この際ひとまず措いて、その結果はあまりに権力批判が盛り上がったために、途中から手の平返しで弾圧に転じ、大きな悲劇を生んでしまった。逆効果に終わった試みだったが、言論をはじめから抑えつけていたわけではない。
60年代中頃からの文化大革命も、「実権派」批判という言わば言論解放から世直しを始めた。これもその行き過ぎから混乱を生んだのだが、北京が「大字報」という手書きの壁新聞に埋まった光景をご記憶の方もいるはずだ。
中国の憲法35条に現存している「言論、報道の自由」はだてではない。1970年代後半、文化大革命が過ぎて、失脚から復活した鄧小平が実権を握って、まず国民に呼びかけたのは、「国の現実をありのままに見よう」であった。実体を目の前にさらけだしてそこから国造りを再開しようという方針であった。
そして1978年の秋から北京市内には壁新聞が氾濫した。中國人の心のうちを知ることが出来る絶好のチャンスであった。しかし、昼間は人が多くてメモも取れないから、面白そうな文章の見当をつけておいて、夜、懐中電灯をもって書き写しに行ったものだ。北京の秋の夜は冷える。ボールペンも万年筆もインクが凍って使えないから、なるべく柔らかい芯の鉛筆が頼りだった。
残念ながらこの壁新聞ブームも長続きはしなかった。翌79年春、ベトナムが中国系の住民を中国に追放したことに怒った鄧小平がベトナム制裁戦争を始めた。すると、壁新聞で秘密のはずの戦況の実体や司令官の名前などが暴露されたため、壁新聞は姿を消した。
しかし、この時の活発な言論活動は壁新聞ブームの後に言論の奔流を生んだ。80年代に入ると、中國社会の現実に目を向けた小説(「新写実主義」と呼ばれた)やルポルタージュが新聞や雑誌に続々と登場し、文革批判の映画は数知れず、となった。そしてそれがまた学生運動に火をつけるといった形で、民主化運動が広まる素地が形成されていった。
「6・4」につながる民主化運動は、86年から翌87年にかけて全国的に学生運動が広がったことの責任を問われて総書記の地位から外された胡耀邦が89年4月に亡くなり、学生たちがその死を悼んだところから始まった。やがて各地から上京した学生たちは天安門広場にテントをはって泊まり込み、その数が増える一方で、収拾がつかなくなったために、強制排除に踏み切ったというのが「6・4」弾圧を強行した政府側の言い分である。
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ここで私の見聞を話したい。私は4月半ばに北京へ行ったから、滞在もかなり長くなった5月の下旬に「もう帰って来い」という命令が来た。命令に従わないわけにはいかないが、なんとか終結まで粘れないかと5月の末のある日、天安門広場の中を歩いてみた。勿論、所狭しとテントが張られ、学生の姿もそれなりに多かったが、運動も一か月を過ぎたとあって、多くは北京の各大学のキャンパスに移っていて、広場には留守番が残っているという程度だった。それは当然で天安門広場は広いけれど、水もトイレもないのだから、大勢がいつまでも留まることはできない。運動の始まりのころの緊迫感はさすがに姿を消していた。
一方、学生たちの運動が盛りのころ、当局側も地方から実力行使用の軍隊を北京に集めていた。どこそこの部隊がどこそこに着いた(大勢だから北京駅に着くとは限らなかった)という噂がひろがると、多くの北京市民がそこへかけつけ、出てきた兵隊の列の両側に密着して、口々に学生たちをつかまえないでくれと懇願する。あるいは「ご苦労さん」と隊列の前に立ちはだかって、水や飴玉を手渡そうとするなど、とにかく兵隊たちを広場に行かせまいとする市民の活動もひろがっていた。軍隊も十重二十重の市民の囲みを突き破って広場へ突入することはとても無理と見えた。
しかし、5月も末となると、そうした軍隊もどこかに姿を消して、市内は平静を取り戻していた。私はさすがの民主化運動もどうやら下火、どういう形かは別にして終局も近いと判断して、命令に従って帰国することにした。
私は記者生活の中でいくつも判断ミスを犯したが、この時の判断は中でも最高のミスであった。帰国して1週間ほど、北京から電話が来た。「今夜、軍隊が出て広場から学生を排除するらしい。学生は今、続々と広場へ集まっている。市内は極度に緊張している」。6月3日であった。
拳骨で自分の頭を叩いてもどうにもならない。あとは北京から伝送されてくる画面を見るしかない。
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なんでこんな自分の失敗談を聞いていただいたかというと、この6月3日夜から翌日にかけての中国人民解放軍の行動は、広場から学生を排除するために必要不可欠であったわけではない、と言いたいからだ。つまり事態は自然な形で終結に向かっており、軍隊を動員し、まして発砲までも許して行動させなければならないような深刻な段階はすでに終わっていたのだ。だらしがないともいえるが、自然発生的に大規模化した運動に最後まで規律保持を求めることはそもそも無理な話である。
しかし、中國共産党という組織はそれでは腹の虫がおさまらないのだ。国の象徴である天安門広場を長期間占拠されて、その責任を追及しないまま、終わらせることはできないのだ。その結果が何百もの若い命が政府によって絶たれたのである。無駄な死ではすまない権力による殺人としか言いようがない。
なぜこんなむごいことをしたのか、だれが決めたのか、長いこと分からなかったが、当時の総書記で5月19日未明には広場でハンストをしていた学生に会いに出かけた趙紫陽の回顧録を読んで、ようやくその疑問がある程度は解けた。
『趙紫陽極秘回想録』(2010年・光文社刊)によると、当時、戒厳令を布くことは党の最高指導部である常務委員会の一致した結論ではなかったという。まさに趙紫陽が未明に広場でハンスト中の学生のテントを訪ねた5月19日の午後、戒厳令布告のための中央政治局の会議を行うという通知が届いたのだが、総書記たる趙自身はその決定を知らされていなかったとある。そしてその会議に趙自身は欠席したという。
趙はこう書いている。「そのとき、天安門広場でのハンストを支持するデモ参加者の数は、かなり少なくなっていた。ハンストは中止され、座り込みに変わっていた。北京の大学の学生の多くはすでに大学に戻っていた。広場に残っていたのは大半が他の都市から来た学生たちだった。」(同書79頁)
趙紫陽によれば、戒厳令を支持し、強行策を推進したのは、この後、首相に就任する李鵬や軍長老の楊尚昆らであると、その名前を挙げている。そして、戒厳令が必要な理由としてこうした人々は当時の民主化運動を「計画的陰謀」と言い、党内に「黒幕」がいるなどと言っていたが、結局、そんな「真相」は出て来なかったではないかと強硬策の非を鳴らしている。(81頁)
やはり強行策は必要ではなかったのである。しかし、学生たちにやりたい放題をやられて、そのまま退場を認めたのでは権力の面子が立たない、あるいはシメ氏がつかないから強行策に及んだのである。
それにしても中国の民主化運動はこれ以降、ほとんど表面化しなくなった。ということは社会的運動としては姿を消してしまった。鄧小平が復活して、78年秋に始まった壁新聞から「6・4」までのほぼ10年、断続的にもせよ様々な分野で続いた民主を求める動きが、この後、ぱったり姿を消してしまった。「6・4」の過酷な懲罰への恐怖は確かにあったであろうが、それゆえと割り切ってすむのだろうか。この34年に何があったのだろうか。次回はそのことを考えてみたい。(230605)
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