*この小論は、ある研究会での報告のために準備したレジュメを基にしたものです。レジュメそのものではあまりに味気ないと思い、多少資料などを引用して肉付けしました。今回の研究会で私に与えられた時間の制限もあり、ここではヘーゲルの「市民社会論」のほんのさわり程度しか触れえていません。私自身の課題(予定)としては、これに続いて「フランス革命のヘーゲルへの影響」を通して、彼の「国家論」の視座確立過程を追認し、『法哲学』の第3部「人倫」を軸にこれらを総括的に検討したいと考えていますが、果たしてそこまでたどり着けるかどうか不安です。
「市民社会」と「国家」の関係をめぐるヘーゲルの思索をごく大まかに表示するなら…、
「欲求と労働」に基づく市民社会と国家(悟性国家)の関係を明確に打ち出したのはヘーゲルをもって嚆矢とするといわれる。しかし、ヘーゲルの思想は、単にその関係を明示したというにとどまらない。市民社会がその内部に孕む矛盾は必然的に拡大せざるをえず、その結果、貧富の格差が極端に大きくなり、社会不安は増大する。国家は様々な政策(福祉政策、植民地政策、コルポラチオン)によってこれを慰撫しようと努めるが、結局のところ市民社会の止揚へと行きつかざるを得ない。つまり「理性国家」の確立が求められる。かかる展開の内的な必然性を対自化することが、ヘーゲルの終生の課題であった。ヘーゲルの市民社会論のベースにはジェームズ・ステュアートとアダム・スミスなどからの経済学研究があるといわれる。彼はそれらをどのように解読し、かつ自分の思想へと形成していったか(展開したのか)、その点に注目したい。
A.ヘーゲルの「市民社会論」
1.ヘーゲルの時代のイギリス資本主義
最初に、ヘーゲル(1770-1831)が『法哲学』などで扱っている当時の市民社会について、手元の歴史書などを基に概観してみたい、まず、工業都市の代表的な例として、イギリス・ランカシャー地方のマンチェスターを取り上げ、どの程度の規模の都市だったかを見てみる。
「この都市は、18世紀の初期には人口はまだ8千位、18世紀中期には、おそらく2万を超え、末期には5万、1801年9万5千、30年14万、44年44万、この工業都市はとめどなく発展し、世界第一の綿工業都市になった。…1830年には50本の煙突が空にそびえていた」。(『ブルジョワの世紀』井上幸治編著「世界の歴史12」中公文庫)
ニュー・ハーモニーを建設した「空想的社会主義者」として知られるロバート・オーウェン(1771-1856)は、この様なイギリスの産業の興隆に関して、次のような興味深い言葉を残している。「機械によって作り出された、この新しい富がなかったならば、ナポレオンを倒し、貴族的な社会原則を守るための戦争はやり遂げられなかったに違いない。」
ここで序ながら、幾人かヘーゲルの同時代人たちを参考のためランダムに列挙してみる。
アダム・スミス1723-1790、ジェームズ・ステュアート1712-1780、リカード1772-1823、カント1724-1804、ルソー1712-1778、ナポレオン1769-1821、ベートーヴェン1770-1827、ゲーテ1749-1832、シラー1759-1805、レッシング1729-1781
それではイギリスはいかにして、これほどの産業大国になりえたのか、その点について、米倉誠一郎の『経営革命の構造』(岩波新書1999)がよく整理されているので、少々長いが引用する。
「17世紀末、イギリスでは綿工業に先駆けて絹織物工業が始まった。もともと絹工業の世界的中心はイタリアで、イタリアは桑の栽培と養蚕に適した気候を持ち、またそこではすでに繭を生糸に撚り込んでいく生糸撚糸機が発明されていた」。
「1716年、イギリスのジョン・ロムがイタリアに渡り、生糸撚糸機の秘密を盗みだし帰国。撚糸生産の機械制工業を設立(イギリス最初の近代工場)…(ロム兄弟の)この工場は、長さ約150メートル、高さは5,6階建、側面に460の窓を付けた巨大な建物で、300人の労働者を雇用していた」。
「ランカシャーで始まったイギリス綿工業は18世紀初頭から拡大し、商人たちは原料の麻糸や原綿を購入し、それを農民や専業労働者に転化しつつあった織布工に貸し付けることによって商業生産を行った(問屋制家内工業)。マンチェスターがその中心」。
「ジョン・ケイが1740年ごろに織機を改良」
更に、1774年にジェームズ・ワットが蒸気機関の改良に成功した。
このことに関しては、マルクスが『資本論』第一巻第13章「機械と大工業」でも触れているが、ジェームズ・ワット(1736~1819)は、優秀な科学者(技術者)ではあっても、経営者ではなかったため、彼の発明が産業に結びつくためには、経営能力を持ったパートナーが必要であった。つまり、画期的な発明を受け入れるための社会的な地盤も醸成されてきていた、ということであろう。
「ワットの実験に多大なる関心を示したのは、キャロン製鉄所を創立経営していたジョン・ロウバックである。しかし、ロウバックは破産し、その後をマシュー・ボウルトンが継ぐ。…1774年、ボウルトン&ワット社を設立…鉄鋼王ウィルキンソンも彼のブラッドリー工場の動力として、ワットの発明を装備した」。(米倉:前掲書)
柴田三千雄によれば、「産業革命は各国において同時並行的に進行したのではな」く、ヨーロッパ主要国でもかなりの違いがあったようだ。イギリスは1760年から1840年、フランスは1810年以降、特に1830年から1860年、ドイツはなんと1840年から1870年となるという。
このことを前提にして、米倉の同書からイギリスにおける工業発展についてみてみたい。その際、留意すべき点は、1831年にコレラで急死したヘーゲルが知っていたと思われる最新の情報はこの頃のイギリス資本主義に限定されているということである。つまり、後にみるヘーゲルの慧眼は、この現状を基にしての考察(推論Schluss)から導出されているのである。眼前の現状をただ漫然と見つめるだけでなく、その必然性を思考することの大切さを思い知らされる。
「ジェームズ・マコウネルとジョン・ケネディは、1810年代に従業員1000人以上を擁し、79000錘を持つ大紡績工場を経営していたイギリスを代表する紡績事業家である」。
「マコウネル&ケネディ社の競争力を決定づけたのは、当時やっと市場にあらわれた全く新しいイノベーションである蒸気機関を積極的に導入したことにあった。マコウネル&ケネディ社は1793年には自家用の試作品を完成し、97年にはすでに蒸気機関と接続する紡績機械を一般顧客に販売している。ワットの蒸気機関が回転機関として初めて本格的に導入されたのは1786年、テムズ河畔のアルビヨン製粉工場においてであり、ボウルトン&ワット社がビジネスとして恒常的に黒字化するのが1798年ごろであったといわれるから、マコウネル&ケネディ社の蒸気機関への対応はきわめて速いものであった」。
「マコウネル&ケネディ社は機械製作を行う一方で、あちこちの紡績場を賃借りしながら事業展開を進めていたが、1797年には6000ポンドを投入して、後にオールド・ファクトリーと呼ばれる工場を自ら建設している。この工場は大きさという点では、それまでとは一線を画する大工場であったが、鉄骨仕様というわけではなく、最新鋭とはいえなかった。・・・1802年にはオールド・ファクトリーの隣接地に新工場を建設し、工場制機械工業を本格化した。この段階で、マコウネル&ケネディ社は従業員300人、工場の紡錘数約27000の規模にまで成長し、1810年には約8万錘にまで拡大する。彼らが見抜いた産業革命の本質とは、「規模の経済性」であった」。
「…1830年ごろのマンチェスターでは、1000人以上の労働者を雇用する紡績業はマコウネル&ケネディ社を含めて7社であり、残りは平均して300~400人規模の工場だった。・・・当時の企業が大きくなるというのは、現代のような組織化の過程というよりは、水平的に工場の数をくっつけていくといったものだったようである」。(米倉:前掲書)
ヘーゲルが当時の事情に精通していたのは、おそらくこういう情報を丁寧に調べ、それらを彼独自の視点で関連づけたからであろう。彼が若いころから時事問題(新聞や情報雑誌)に大いに関心を持っていたということは、例えばフランスの哲学者ジャック・ドントなども書いている。
この『経営革命の構造』の中で、著者は次のような実に興味深いことを指摘している。
「もし、こうした先駆的なイノベーターたちを駆り立てる社会的なインセンティブ(それは具体的には富や名声であるが、その基本は「精神の自由」である)や、失敗に対する社会的寛容がなければ、経済の新たな次元は生まれない」。
まさにこの「精神の自由」という社会意識のゲシュタルト変換こそが、ヘーゲルの、またその時代の思想に受け継がれている。そしてその社会的変化を掻き立てた最大の要因はやはり「産業革命」と「フランス大革命」であったろう。またこの時代は、「ギルド共同体」の様々な規制(制約)からの解放(=ギルドの解体)への動きが盛んになり、商売(営業)の自由な発展が求められるようになったが、これもこういう事情に連関したこととみることができる。
- ヘーゲルはこの状況をどうとらえていたのか
それではヘーゲルはこの時代状況をどのように認識(概念把握)していたのか、このことの検討に移りたい。
ヘーゲルは『法哲学』の第3部「人倫Die Sittlichkeit」を三つの章(「家族」「市民社会」「国家」)に分けて論じている。そしてその冒頭で「人倫」について次のように述べる。「人倫とは、生き生きと活動する善(das lebendige Gute)としての自由の理念である」。
これはどういう意味であろうか。「善=自由の理念」は、単なる抽象的概念(悟性規定)にとどまっているのではない、それは家族、市民社会、国家という人倫的組織として現実を形成していて、現に生動している。つまり、それはある特定の静止的状態(理想など)を指すのではなく、あくまで生きた現実である。「人倫」という共同体の精神(関係態)の契機として、これら三つを抽出したのであり、それらは区別されながらも統一されている。私見では、マルクスが以下のように述べる時、そこには同じ精神が働いているのかもしれない。
「共産主義とは、何ら創り出されるべき一つの状態、現実が見習うべき一つの理想ではない。それは現在の状態を廃棄する現実的な運動である」(『ドイツイデオロギー』)
なぜここでマルクスを引いたのかと言えば、この一文の中の「それは現在の状態を廃棄する現実的な運動である」という部分がずっと気になっていたからだ。この「現実的な運動」と、例えば『資本論』などのマルクスのいわゆる理論書との関係をどう考えるべきなのか、この点がどうしてもうまく結びつかなかったのだ。「現実の運動」とは即自的なものであり、確かにその中にはコムニスムスの萌芽が含まれているということはできるかもしれない。しかしそれはマルクスの目を通して初めてわかることで、それ自体としては、ただ様々な形での不満の爆発があるというに過ぎないのではないだろうか。つまりそこに潜在的、原初的なコムニスムスの萌芽をつかみ取るためには、予めそれらを全体との関連の中で概念としてとらえていなけらばならないはずである。マルクスのこの思考は現象学的な手法であり、für uns(われわれにとって)という現象学者の視点を前提にして初めて理解できるものだと思う。その上で闘争の展開過程を対自化、形式化して、歴史的な段階としての資本主義を位置付けたのが『資本論』ではないだろうか。
余談であるが、この『法哲学』の中で「宗教」がなぜ主題的に扱われていないのか、という点も当初から気にかかっている。ご存知のように、この本は大きく3部に分かたれている。第1部は「抽象法Das abstrakte Recht」、第2部「道徳Das Moralität」、そして第3部が「人倫」である。「宗教Die Religion」が入っていない。しかも、第2部にも第3部にもそういう項目はないのだ。これに対しては別個改めて考えたいと思う。
ヘーゲル哲学の根本は「自由」にあるといわれる。実際に彼はほとんどの講義録や著書の中で、「自由」の大切さ、またそれが人間にとって本質的なものであることを説いている。例えば、『歴史哲学』(確か『大論理学』でも同じ譬えを書いていたように思う)でこのようにいう。「物質の実体が重量であるのに対して、精神の実体、精神の本質は自由である」。
ところで、自由とは、個人が私的欲望(欲求)を満足させることにあるのだろうか。
ヘーゲルは『精神現象学』の自己意識論で、「主と奴隷」という有名な一節を書いている。つまり、両者の立場が「弁証法的に転倒」される様を見事に活写して、マルクスやサルトルたちを感心させた個所である。この節は1804年のハイチ島における黒人奴隷の反乱から世界最初の黒人共和国実現に至るニュースに刺激されて書いたものともいわれる。つまり先ほど触れたように、ヘーゲルの時事問題への関心の高さがわかる。ここではこの節の問題に限り、簡単に触れておきたい。
ここでのヘーゲルのテーマは、「われわれなるわれ」と「われなるわれわれ」の統一の論証、つまり、個人(私人)は他人(他=多者)を離れて存在し得るだろうか、という問いに対して、個は他なしには存在しえないし、また逆もそうだということを論ずることにある。
論の初めで、両者の相違(不等性)―つまり、私を活〈生〉かすためには他人を否定する必要があること―が扱われる。この相違(不等性)は両者間の闘争(競争)を呼び起こす。その結果、一方の勝者は「主」に、敗者は「奴隷」の地位に置かれる。主は奴隷に自己への奉仕(尊敬)を強制する。奴隷は自分の命が惜しいためにそれに従うが、その内心はそうではない。外面的には主人の意識が「本質的な」もの(自分自身の意に即したもの)で、奴隷の意識は「非本質的なもの」(他人に属したもの)である。しかし果たしてそうか。主は奴隷が反抗しないように、絶えず監視していなければならない。なぜなら主は奴隷の労働に依拠して生存しているに過ぎないからであり、非本質的存在である。それ故に、奴隷こそがこの「立場=両者の関係」の主役(本質的なもの)であることになる。例えば、資本家と労働者の関係もそうだが、そこには相互に依拠しあうことで形作られた相互依存の関係がある。それではヘーゲルは、「ひとりの自由、万人の自由」という主張を、キリスト教が説くように「神の下の平等」から導出しているのだろうか。この「主と奴隷」の弁証法的転倒の議論は、1804年のハイチ島(サン・ドミンゴ島)における世界史上初の黒人奴隷による政権樹立(ナポレオン軍により鎮圧されたが)をモデルにしたともいわれていて、ヘーゲルの時事問題への関心の高さがわかるところでもある。ヘーゲルは一貫して奴隷制度に反対し続けている(「奴隷制は不法がまだ法である世界に属する」『法哲学』)。しかし、同じく『法哲学』の中で彼は、またこうも言っている。(奴隷制度は)抑圧する人間たちが不法であるだけでなく、被抑圧者たち自身の不法でもある、と。つまり彼は、闘争の必要性に言及している。彼の考えは「相互承認」を得るための戦いこそが歴史であるという点にあるのではないだろうか。
「人間は単独で生きることはできない、…しかも人間はつねに孤独である。…時代は人間を内的世界へ追いやったが、この人間の状態は、もし彼が内的世界に止まろうとすれば、絶えざる死があるのみであり、あるいはもし自然が人間を生へ駆り立てるとすれば、現存する世界の否定的なものを廃棄し、その世界のうちに自己を見出し、自己を享楽し、また生きんとする努力であるほかないのである」(ヘーゲル『ドイツ憲法論』1802)
ここでこの『ドイツ憲法論』について少し触れておきたい。権左武志は『ヘーゲルとその時代』(岩波新書2013)の中で、これを書いたヘーゲルの立場は「帝国愛国主義」だという。しかし、この時代状況と当時のヘーゲルの問題関心を考えてみたとき、このレッテルは素直には受け取れない。私が興味を持つのは次の点だ。まずこの草稿での彼の問題関心が、「変転する現実そのものの中に現実を改革していく普遍性の立場を見出すべきこと」という点にあったこと(これは先ほど、マルクスに関連させながら述べた点に重なる)、しかもそれまでの諸侯の自由に基づく封建的な帝国議会を、国民の自由の原理に立つ国民代議制度に改革することにより、ドイツ帝国を再生すべきこと(オーストリア皇帝=神聖ローマ帝国皇帝を中心に帝国権力を確立する)という立憲君主制という現実主義も併せて持っていたこと。また、この論考の書かれたのが1798年~1802年にかけてと言われること、この頃彼はジェームズ・ステュアートをノートしながら研究したといわれるし、また、ナポレオンのブリュメールのクーデターが1799年、翌1800年の5月にはアルプスを越えてオーストリアを攻め、6月のマレンゴの戦いでこれを撃破した事件が起きている。これらの情勢は当然考慮されるべきだろう。(最終的には、1805年12月、アウステルリッツでナポレオンに敗れ、翌年神聖ローマ帝国は崩壊)。
さて本題の「ヘーゲルの時代状況認識」に戻って以下考えてみる。
上記の『ドイツ憲法論』を書き上げた後の1805~6年に書かれたのが『イエナ実在哲学』(講義録)と言われるものである。その中で彼はベルン時代から続けてきた経済学(ジェームズ・ステュアートやアダム・スミス、J.B.セーなど)の研究と当時のイギリスの産業社会とを総括的に論じているのであるが、特に彼は、資本主義の社会的分業、それによる生産力の高度の発展が、同時に多数の民衆を必然的に貧困へと追いやらざるを得ないことに注目する。また生産の機械化が、同時に労働者の非人間化、歯車の一部分への没落にあることを描き出す。
以下ではまるでチャールズ・チャップリンの映画「モダン・タイムズ」を彷彿させ、それを先取りしているように機械化による人間性の疎外(物象化)が見事に洞察されている。
「だが同様に、民衆は労働の抽象化によって一層機械的になり、一層無感動になり、一層気力を失う。精神的なもの、この充実した自己意識的な生が空虚な行為になる。自己の力とは豊かな包容力にあるわけだが、これが失われてゆくのである。彼は若干の労働を機械に任せることはできるが、それだけ彼自身の行為はますます形式的になってゆく。彼の無感動な労働が彼を一点に縛り付け、労働は一面的であればあるほど、ますます完全なものになってゆく…。同様に労働を単純化し、ほかの機械を発明するといった努力が絶え間なく行われる。—個々人の技量が彼の生存の維持の可能性なのであるが、この可能性は全体の偶然の全うき錯綜にゆだねられることになる。こうして民衆は、まったく無感動で、不健康で危険な、それに技量を限定してゆくような大工場労働、マニュファクチュア労働、鉱山労働等々の憂き目にあわされ、膨大な人間たちを養ってきた産業諸部門が、流行だとか外国の発明による価格の低下などによって、突然干上がってしまったりして、この民衆全体がどうにもならない貧困の犠牲になってしまうのである。巨大な富と膨大な貧困—財産を作ることなど到底不可能な貧困—との対立が生じてくるのである」「大工場やマニュファクチュアはまさしく一階級の悲惨(Elend)を土台にして存立しているのである」(『実在哲学』)
上にみるように、ヘーゲルのすごさは、人間が労働手段として機械を用い始めた段階から、彼の労働は単純な「部分労働」(歯車の一部)へと変化し、労働の成果全体をみることができなくなることをいち早く洞見したにとどまらない。更に恐るべきは、こうした環境の中で、「人間の精神」も歪で卑小な「奴隷根性」へと貶められていかざるを得ないということまで透見していた点にある。その上で彼は、自分たちの時代を「歴史の転換期にある」(つまり革命の時代)と捉えたのである。以下は『精神現象学』の「序文」の中で、彼がそのことを高らかに宣言した有名な個所である。
「さて、われわれの時代が新たな誕生の時代、移行の時代であるということを理解するのは難しいことではない。精神は定在や表象といったこれまでの世界と関係を断ち、それを過去の中へ沈め、その変革の仕事をしようとしている。なるほど精神は決して安らぐことはなく、絶えず前進する運動を続けている。しかし胎児の時の、(母体での)長く静かな栄養補給ののち、最初の呼吸(産声)で、それまでの嵩を増すだけの漸進を突然中止する-質的飛躍(ein qualitativer Sprung)-そして今、子供は生まれる、それと同じように新しい形態に向かって自己を形成する精神はゆっくりと静かに熟して行き、先行する世界の建築物の小部分を次々に解体するが、この世界の揺らぎは、専ら僅かの兆候によってほのめかされているだけである。現存するものの内にはびこる軽薄さや単調さ、未知のものの漠とした予感は何か別のものが接近していることの前触れである。全体の相貌を変化させない、このゆっくりとした崩壊は日の出によって中断される。一筋の閃光が新しい世界の形象を据えるのである。」
この小論の最初に述べたように、ヘーゲルは市民社会に内在する矛盾を的確に捉えている。そして時代が必然的に変転せざるを得ないという。この若きヘーゲルの思想にいち早く着目したのはルカーチであったが、そのルカーチも著書『若きヘーゲル』の中で次のようにその洞察力に驚嘆している。
「この運動のうちに抽象的必然性をだけではなく、人間の進歩の必然的運動をも見ている。が、他方彼は、資本主義的分業なり、機械装置の発達なりが人間の労働や人間生活に必然的に及ぼす破壊的影響にも目を閉じようとしない」。
別の論者、例えばイリング・フェッチャーによれば、ヘーゲルは『世界史の哲学』講義の中の「歴史における理性」において「実に明瞭に政治的国家を、より多くの身分-今日の言葉でいうならば、さまざまな階級と極端な財産の違い-が存在する結果」だと理解しているという。つまり「…ヨーロッパの発展したブルジョア諸国家の特質が、階級の存在と、相争う階級利害の存在とに負っているという事実を、すでにヘーゲルが…意識していた…ということは、全く明らか(である)…。これは言葉を換えれば、近代の産業的な市場経済と近代国家とが非常に緊密に連関し結合された現象であるという事実である。…ヘーゲルは『法哲学』の中で、同時代のプロイセンやヴュルテンベルクやバイエルンの状態の後進性ばかりではなく、当時のイギリスやフランスの社会の未発達な側面すらも度外視した。彼はブルジョア的経済秩序の発展した特質を、すでに与えられたものとして考慮に入れ、そこから議論を始めたのである。その際彼は、イギリスやフランスの社会の「もっとも進歩した諸要素」を自明のものとして利用し、それらを典型的なものとみなしたのである」。(『ヘーゲル』フェッチャー著 座小田豊・加藤尚武訳 理想社1978)
フェッチャーは、ヘーゲルの『イエナ実在哲学』から次の該当個所を引用して上記に述べた自説の裏付けとしている。
「(ブルジョア法の)普遍的な必然性Notwendigkeit(強制)によって…大衆は無教養へと追いやられ、労働と貧困の中で感覚が麻痺させられる。これによって富の集中が図られ、大衆から富を収奪することができるようになる。(金持ちは)重税が課されても、それを喜んで支払うことができるのは、そこに富の不平等があるからである。こうしたこと(=金持ちに重税を課すこと)が(庶民の)羨望の念を減じ、貧窮や搾取に対する恐れを他方へそらす(カムフラージュする)のである」(『イエナ実在哲学』)
同じことをルカーチは、彼の『若きヘーゲル』の中でさらに踏み込んで次のように言う。
「ヘーゲルの見解によると、ローマおよびローマ世界全体において新たな宗教への欲求―それはやがてキリスト教によって満たされたのであるが―を呼び起こした本質的な点は、共和主義的公共性と生の自由が終わったこと、あらゆる人間的生の表現の私人化である。この社会的雰囲気の中で近代的意味での個人主義が生ずるのである。…それは自らを社会の孤立せる「アトム」と感ずる。その社会的活動と言えば、巨大な機構の中の小さな車輪のそれでしかありえず、個人は社会の全体、目的及び目標を見通すことはできないし、またそうしようとも思わないのである。近代の個人主義はそれ故、ヘーゲルによれば、同時に社会的分業の所産である。このような社会において、私的宗教、私的生活の宗教への欲求が生ずる」。
ダメ押しとして次の「歯車国家論」を紹介したい。ここでは国家(ブルジョア国家)そのものが否定される。
『ドイツ観念論最古の体系プログラム』と呼ばれる1797年頃の断片があり、その中で彼は「歯車国家論」と言われる一文を書いている。ヘーゲルは一方で、「ドイツには今だ「国家」と呼べるものがない」、つまりドイツの後進性を嘆きながらも、既存の国家(おそらく、イギリスやフランスの先進国家をイメージしていると思われる)をある種の「機械装置Mechanisches」と呼び、「機械Maschine」に理念がないのと同様に「国家の理念」などない、と断じている。その際の彼の立場は、「理念と呼びうるものは、自由の対象たるものだけだ」「全ての国家は自由な人間を歯車装置(Räderwerk)として扱うに違いない」「それゆえ、われわれは国家を超える必要がある!」「いかなる力も抑圧されることがなく、精神の普遍的自由と平等が支配する!」。
先ほどから見てきたように、若き日のヘーゲルは時代の変転の必要性を、また人間の自由の大切さを高らかに宣言しているのである。
そこでよく問題にされるのは、このようなヘーゲルが、ベルリン大学の学長に就任した後、あの有名な『法哲学』の「序文Vorrede」の中で、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的であるWas vernünftig ist, das ist wirklich; und was wirklich ist, das ist vernünftig.」と、あたかも現実肯定のような言葉を書いているということである。これは明らかに彼が「プロイセンの御用学者」へと変節(転向)したことの証左ではないだろうか?こういう非難はこれまでも繰り返し言われてきたし、それに対する反論も同じ数だけある。日本でもある時期には、ヘーゲルは「反動」であり、読むべきでないとさかんに言われていた。やっと1960年代中ごろから、ヘーゲルは決して変節漢(転向者)ではなかったという事の本格的な裏付け結果が世間に知れるようになったのである。
しかし、ここではほんの幾つかを例示する程度しかできない。先ほども名前の出た、ジャック・ドントによれば、フランス・ジャコバン派の流れをくむ報道機関誌「ミネルヴァ」や、アダム・スミスなどの経済学書(当然、ドイツでは発刊禁止されていた)を、ベルン時代のヘーゲルが愛読していたこと、またベルリン滞在中のヘーゲル(ベルリン大学教授時代)は、プロイセン警察に二重にマークされていたという。その結果なのかどうか不明だが、彼によれば、「ヘーゲル暗殺説」まであるというのだから驚く。へーゲルの死後、ブルーノ・バウアー(ヘーゲルの助手として「宗教哲学講義」をまとめた当人)が『無神論者にして反キリスト者であるヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』を書いてへーゲル哲学を「無神論と革命と共和主義」の哲学だと匿名で告発したことは周知のことであろう。私=筆者にとって、もっと決定的なのは、『法哲学』の最終節(§360)にこう書かれていることだ。「(熾烈な闘争の末に)真の宥和が客体的となっているのであって、この宥和が、国家を理性の似姿および理性の現実性へと展開するのである。」(藤野渉訳)
参考としてこの節の拙訳を以下に貼付してみる。
§360 相異なるものの間の、これらの熾烈な主権(dieser)争いによって、差異はここに己にとっての絶対的な対立を得るのであるが、それは同時に、統一と理念の中に根を下ろした(wurzeln)主権としてでもある、精神的なものは、その天上の存在(die Existenz seines Himmels)を現実の中で、また、表象の中で、世俗的な(irdisch)現世(Diesseits)や俗事一般(gemainen Weltlichkeit)に降下させる(degradieren)、世俗的なもの(das Weltliche)は、その反対に(dagegen)に、その抽象的な対自存在を、思想や理性的存在や知の原理へと、権利(正義)や法律の合理性へと、高めていく(hinaufbildern)。矛盾対立は、それ自体、次第に力のない支配力に弱められていく(schwinden)。即ち、現実(の社会)は野蛮と不法な(理不尽な)恣意をそぎ落とされ、真相=理念(Wahrheit)は、彼岸をそぎ落とされ、また偶然的な暴力をそぎ落とされる(abstreifen)、こうして、国家を具現化し、理性の現実化へと展開する真の和解が対象化されるのである。その中では、自己意識は、有機的な展開において自己の実体的な知と意志の実現を見出し、同じように宗教においては、観念的な本性を自己の真理とする宗教的な心情や表象を見出す、学問においては、この真理の自由で概念化された認識を、同様に(einer und derselben)、国家においては、自然(現象)界と精神的世界の補い合った表現をそこに見出すのである。
この最終節のところはやはりかなり興味深い。ヘーゲルの結論は決して「千年王国」=天国とはなっていない。むしろ理性の実現を目指す永続的な人類の営為の歴史ということになっているように思う。いかにもヘーゲル的なところは、理念的なものと世俗的なものの対立(素直に読めば、理論と実践の対立と解しうる)が極限にまで達した後、両者の和解がもたらされることになる点である。和解はどちらかの勝利、どちらかの敗北によってもたらされるのではない。対立の極において、相互媒介が始まるのである。理念的なものは自己を世俗化させるために下降し、世俗的なものは自己を理念化させようと努める。
ヘーゲルにとって、抽象的な概念や理念はまだ大した意味を持たない。それらが具体化され、現実に展開されて初めて意味を持つのである。現に存在する国家(悟性国家)は、様々な問題(矛盾)を抱えている。彼は「善」のみしか存在しない社会など全く考えていない。なぜなら、「悪」(否定)のない肯定は、肯定でもないからだ。メフィストフェレスを主要な契機として初めて神も存在し得るのである。両者は多にして一、一にして多の関係にある。現に存在する理性も同様である。そこにこそ歴史の展開(Entwicklung)がある。
これらのイエナ草稿の中には、後の『法哲学』の§183などで彼が実在的な市民社会と呼んだ「外的、強制的、悟性国家」の不十分性が既に指摘されている。「それ故、彼が早くから個人が市民として現実と宥和するとみなされる「理性的国家」というより高次な領域を目指していたことが明らかになる。イギリスにおける初期資本制社会の惨状を大まかに素描することに続いて、人間的充足の適切な対象として「国家一般」が現れる」。…「市民社会において、貨幣はすべての人にとって万人共同の生産力の対象化として現象し、すべての人は貨幣の内に自己を「認め」、貨幣において自分自身の価値を測るが、しかし、貨幣は死せるもの、疎外された物質なのであるから、「普遍的自我」、「共同存在」という、他のもっとふさわしい形態が見出されなければならない。それが国家なのである」。(フェッチャー:前掲書)
「市民社会の中で様々に苦しんでいる個人に、国家において与えられる「解放」は、「精神としての解放」、「理性的市民」としての解放である。宗教がこの解放を天上の彼岸において初めて実現することを約束するのに対し、ヘーゲルはここですでに国家がそれを保証するという」。(フェッチャー:同上書)
「まさしく天国の現実態こそが国家である」…しかしヘーゲルは、「永遠なるもの、天国そのものを地上に持ち込もうとする狂信、すなわち、国家の現実に反して、水の中で火を保持しようとする―教会の狂信」(『イエナ実在哲学』)を批判している。
ここの個所はどのように解されるべきであろうか。先ほども述べたように、ヘーゲルは「天国」を、そこでは一切の波風もない、ただの平板な「千年王国}などとは考えていない。彼が言う「天国」とは「理性の支配する王国」である。それの現実態は、まぎれもなく「理性国家」(廣松渉流に解すれば、「国家が止揚された共産主義社会」)に他ならないのである。そして、そのような「理性国家」の原理を、いきなり現実世界(市民社会の現実態としての「悟性国家」)に適用することを「宗教的な狂信(教会の狂信)」と呼んで愚かしいものとしているのだ。この個所は、ロベスピエールの「理性宗教」への批判のように思う。つまり、「理性」や「自由」の名のもとに行われた革命が、狂信的なテロリズムへと変わったことへの痛烈な反省がそこにあった(このような「テロリズム」との真剣な対峙は、いわゆる「初期神学論文」のころからある)と考えることができる。
今回はここでひとまず擱筆したい。これに続いて、以下の順序で書くつもりでいるが、このところ身辺多忙で、いつになるか、…。
- ヘーゲルの「国家論」 3.「フランス大革命」とヘーゲルの「国家」論形成
- 『法哲学』
2025.4.12記
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〔opinion14197:250415〕