『セブンイヤーズ・イン・チベット』の裏側で

――八ヶ岳山麓から(438)――

 毎回楽しみにしている横田喬氏の「世界のノンフィクション秀作を読む」シリーズがハインリヒ・ハーラ―の『チベットの七年』を取り上げてくださったので、チベット人地域で暮したものとしては大いに愉快だった。
 以下はハーラーの著作には表れなかった当時のラサの裏側だが、あれこれのできごとについては、「終活」のため資料を始末したのでうろおぼえのままである。

 ハーラーはオーストリア人だが、当時はドイツ人としてアウフシュタイナーとともにヒマラヤのナンガパルバット登山ルートを探すためにインドにいたため、第二次世界大戦の開戦とともに、イギリスの捕虜となった。しかし二人は収容所を脱出し、ヒマラヤの峠を越え、冬の4000メートルのチャンタン高原を踏破するとラサに入った。それからはダライ・ラマ14世の家庭教師になるなどほぼラサで生活していた。
 これとほとんど時を同じくして、日本人が2人チベットにいた。木村肥佐生と西川一三の両氏である。二人は旧制中学卒業後、1940、41年に日本の情報要員養成機関である綏遠(現在の内モンゴル・フフホト市)の興亜義塾に入学した。のちに満洲国(日本軍部)の諜報機関から西北方面の連合国の対中国援助ルート探索を命じられたが、新疆入りは果たせず、青海省からべつべつにチベットに向かった。

 清帝国時代、チベットは清朝理藩院のもとにラサに駐蔵大臣が置かれるなど清朝の従属状態にあった。辛亥革命後も国民政府の代表が駐在したとはいえ、中国本土の政権が弱体だったのでチベットは独立傾向を強めた。だが、中共は歴史的経過からして、台湾同様自国領と見なしている。
 当時のチベット政府の支配地域は、ほぼ現在のチベット自治区の範囲で、その東のカムとアムドのチベット人地域は漢回軍閥の支配下にあった。またチベット政府は200家族ほどの貴族とガンデン・セラ・デプンの3大僧院上層の連合体で、ダライ・ラマ14世が幼なかったので、ダクダ活仏が摂政として政権を牛耳っていた。
 ダクダ活仏らは第二次大戦の日本勝利を疑わず、連合国の中国援助ルート開設を拒否し、戦後も中国の国共内戦に適切に対処できず、内政でも農牧民の貧困を救う気などまったくない政権であった。

 ところがラサには、日本敗戦は必至、チベットが今のままでは中国かイギリスの植民地になるという危機感を持った若者の集団があった。彼らはチベット共産党を組織し、完全独立のチベットを目指して武装蜂起をたくらむ一方で、貴族らに働きかけてチベット軍の増強、圧政ゆえに無気力な農牧民の負担軽減などを政府に要請していた。中心人物はプンツォク・ワンギェル(プンワン)である。

 プンワンは、チベット共産党の政治綱領を作ろうとしたが、その際、民衆の崇拝するダライ・ラマとチベット仏教の存在をどうするかが悩みの種であった。またチベット政府支配地域と、軍閥支配のカムとアムドをどう統一するかも大問題だった。
 ところがプンワンがラサで知り合ったダワ・サンボーと名乗る小柄のモンゴル人がこの問題解決のヒントを与えた。ダワ・サンボーはモンゴル人に身をやつした木村肥佐生氏である。
 彼は明治維新後の天皇の地位をダライ・ラマに置き換え、廃藩置県をモデルに貴族・寺院の領地接収をしてはどうかと提案した。プンワンはこれをもとにダライ・ラマを頂点とする立憲君主制、世襲貴族や上級ラマからなる上院と、選挙された代表からなる下院の2院制度を構想した。木村氏はプンワンらに協力して、チベット政府に改革を求める請願にも加わったことがある。

 わたしは、プンワンに当時ハーラーやアウフシュタイナーと交流があったか聞いたことがある。彼は「名前は知っていたが、彼らは貴族社会の中にいたので、地下活動が表に出ることを恐れて意識的に避けていた」といった。
 木村氏については、「ずっとモンゴル人だとばかり思っていたから、日本人と分かったときは大変驚いた」と語った。
 文化大革命のとき、中国共産党当局に木村氏が日本人だと知られていたらプンワンは日本のスパイとして殺されていただろう。彼ら二人は文化大革命後北京で再会している。木村氏は著書の中でハーラーの存在を知っていたとしているが、深い付合いはなかったようだ。

 さて映画『セブンイヤーズ・イン・チベット』だが、これはハインリヒ・ハーラ―の著書『チベットの七年』をもとにした、ブラッド・ピット主演、1997年制作のアメリカ映画である。ハーラーの著作とも当時の実態ともかけ離れた内容で重要な点で史実とはいえない。

 たとえば、チャムド(昌都)戦役である。その実際は、おおむね以下のようだった。
 中共は内戦に勝利すると、大急ぎで人民解放軍をラサに向かわせた。国際的干渉を警戒したのである。解放軍とチベット軍が衝突をしたのはチャムドである。
 戦闘は1950年10月6日に始まり24日に終わった。司令官ガポ・アワンジグメに率いられたチベット軍は最初の衝突ののち、劉伯承・鄧小平部隊に金沙江(長江上流)を強行渡河されると、わずか2日余で150キロも後退し、解放軍はこれを追撃してチャムド城下に迫った。
 ガポ・アワンジグメは弾薬庫を爆破し西に退いたが、西方の隘路は解放軍陰法唐部隊に抑えられていたため進退窮まって降伏した。このときチベット政府に雇われたイギリス人の無線技士フォードも捕虜になった。解放軍は、チベット軍の下級兵士は釈放したものの、将校連中は祝勝大会に引っ張り出してつるし上げた。
 解放軍の勝利は、国共内戦で鍛えられていたこと、金沙江東岸のカムパ農牧民の支持があったことによる。カムパは解放軍のために何百頭というヤクとそれ以上の人員を動員して兵站を担った。これには、チベット共産党を解党して中共に参加したプンワンらカムパ青年による農牧民動員工作が大いに役立った。かれらは道案内をし、通訳をやり、チベット軍と戦う兵士にもなったのである。
 これにひきかえチベット軍は、将校は貴族身分のものだったが、戦意は低く、兵士らもろくな戦闘訓練を受けていなかった。むしろ彼らは女性や金品を強奪するなど、地元住民の恨みを買っていた。この様子は西川一三氏の著作に詳細に書かれているが、ガポ・アワンジグメ自身も自軍将兵の堕落と戦意の低さを嘆いていた。
 というわけで、映画の方は、ハーラーの著作とは別の作品だと考えるのが妥当だと思う。

 1951年ハーラーらは解放軍のラサ進駐が近づくとシッキムのカーリンポンに退去し、のちに帰国した。彼はナチス党員・親衛隊員だったが、それを咎められることなく、名声赫々たる一生を終った。
 木村・西川両氏は1950年帰国し、アメリカの情報機関から長期にわたる調査を受け、のち木村氏はアメリカ大使館勤務・亜細亜大学教授、西川氏は盛岡市で理美容材卸業を営んだ。
 プンワンは51年解放軍のラサ進駐とともに中共チベット工作委員となり、ダライ・ラマ14世と親交を結んだがそれが祟り、1958年以後の叛乱を機にチベット民族主義者とされて投獄、18年の獄中生活を経て文化大革命終息後釈放され、人民代表大会民族委員会の副主任になった。
 チベット軍司令官ガポ・アワンジグメは、解放軍のラサ進駐後、形だけとはいえチベット政府と中央機関の要職に就いたが、彼の息子はアメリカ留学中にチベット民族運動に加わった。
 イギリス人フォードは、根拠なしに解放軍を支持した高僧ゲダ・ラマ暗殺の犯人とされ、生きたイギリス帝国主義として集会のたび吊し上げを受けた。のちにイギリスに帰国できたと記憶する。                              (2023・08・14)

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