なぜ考えようとしないのか。著者、辺見庸氏は、個をなくし世間に埋没して生きる私たちの日常の怠惰を、激しくたたいてくる。個がないところに愛はありえないと言う。
著者は、脳障害で入院中に愛と痛みについて思いをめぐらし、無価値なものによりそう気持ちが自分にあるか、問うた。山谷に通っていたころは、からだの不自由な人のために働くことは可能か、自問した。そしていま、有用でないとされている存在と痛みを架橋しあうことができるようになってきた、そこから死刑について考えてみたというのである。
私たちの日常には、自覚的な言語がない。言葉にされることのないまま全体を方向づけていく、不気味なものが、日常を支配している。たとえば、君が代斉唱をこばむ教員の根津公子さんがたたかっている相手は、この日本的な日常、すなわち世間なのだ。著者は具体例を示しながら、日常を支配する実態の世間というものを詳細にあぶりだしてくる。
死刑を支えているのは、その世間なのだ。私たち世間の諧調を先導するのが、マスコミである、とも。主体を明かさない国家による殺人を、私たちはもっと考えなくてはならない。死刑と戦争は通底するということについても。
低く生きることが、私たちには大事だ。個を主体的に発信していくこと。そこから愛は見えてくるのではないか、と著者は言う。「なぜ」だ、「どうして」だと、その訴えかけは、つよい。断定しないで、「ではないか」と、読者の停滞する思考をかきたててくるそのゆさぶりも、ふかい。
しかし著者の説明は、わかりやすい。いくつかの現実の事例をとおして、さらに説得してくる。ろくに調べもしないで書くマスコミの怠惰にふれて、金子光晴の戦中の行為をあばいた個所は、どきりとさせる。
刑務官、医官など15人による死刑執行の情景は、想像すれば、残酷で恐ろしい。著者の簡勁な文体は、しかも透明だと、わたしには思える。それだけに、著者の怒りがまっすぐにひびいてくる。読者に、しばらく立ちどまり自省をうながしてもくるだろう。
本書は、抽象的な専門書ではない。人たちがどのように生きたらよいか、どの分野の人にも無関心にはできない、切実な課題を、真剣に提出している。
(「信濃毎日新聞」2009年2月8日付より転載)
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