ここ20年の間に、日本の文芸がどんな動きを示し、著者加藤典洋氏がどんな観察を行なってきたか。諸作品と真摯に付きあいつつ書かれた時評と評論は、文学の面白さをたっぷり気づかせてくれる。とりわけ「関係の原的負荷」という、親殺しの文学を論じた文章が感動的だ。
今の日本社会は、親と子の関係が変容している。そのことが新しい小説の出現を促したと、著者は言う。沢木耕太郎の「血の味」、村上春樹の「海辺のカフカ」の親殺しの話は、2004年以降に多発する親殺しの事件に先行する作品である。文学に現れた親と子の関係からは、原的負荷が析出される。父は子を抑圧せず、子は父に反抗しない。この関係から自らを救済するには、子は父を殺すしかない。
なぜ、このようなことになっているのか。著者は、なぜと問いかけては解答を導いていく。その言及がひろがり、深まっていくダイナミックな展開は、加藤氏にして可能なものにちがいない。親が自分を犠牲にしても子を育てようとするのは生物としての本能のためだが、今、親の期待などは子にとって負い目に変わっている。それは子の身体に埋めこまれコントロールできないものになっているとも、著者は説くのである。
原的負荷を抱えた主人公がどこへ向かうか。内側から作者の手により救済を模索するのが、文学の核心だ、と言う。「血の味」はその問いを差しむけてはいても、自己救済の物語にはなっていない。しかし「海辺のカフカ」は、少年の負荷からの自己回復の劇が展開されていると、著者は評価する。
文章を読むにつれ、わたしは、村上作品に魅力を感じたものだ。文芸時評のなかに書かれた大江健三郎の、社会性がないとの村上批判は的を射ていない、と断言する著者のその指摘の正しさは、村上のこのたびのエルサレム賞受賞のスピーチが、よく証明していよう。
「『プー』する小説」の評論も、富岡多恵子の「フェミニズムの自己更新」や「吉本ばななの虚構」などの時評も、新鮮だ。自分はなにを書きたいか。著者にそれだけの明確な姿勢があって、評価の地図は塗りかえられるのだと思う。著者の気の利いた比喩が親しみやすい。文学は知的階層だけのものではない。本書はアプローチしやすい文学書である。
(「信濃毎日新聞」2009年4月19日付より転載)
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