『深沢七郎外伝―淋しいって痛快なんだ』新海均・著 潮出版社・刊

「楢山節考」で作家デビューした深沢七郎といえば、嶋中事件を思いうかべる読者もいるだろう。1960年12月の「中央公論」に掲載された、深沢の「風流夢譚」が右翼を刺激し、発行元の社長宅が襲われお手伝いが殺されたのである。深沢の衝撃はふかく、著者の新海均氏によれば、2年も逃亡の旅がつづいたという。
 孤立無援の深沢をサポートした年下の男たちと埼玉県下に農場を開いたのは、深沢51歳のとき。百姓仕事をしながら地元の老人たちと交流する。ギターを弾いては小説を書く。深沢が事件を乗りこえた後の、生活と文学へ、丁寧に、著者はスポットをあてている。知識人とはちがう発想で、自分に高みを課しつつこつこつと書きつづけた、孤高の作家にたいする著者の評価は、とても熱い。深沢の自然のサイクルに沿った生きかたは、危機の叫ばれる時代にあって傲慢な人間存在への警鐘になるとも、著者は指摘する。
 深沢の担当編集者だった著者は、佐久のリンゴ農家の次男だそうだ。深沢は佐久の風土を愛し、当地をよく訪ねている。そのときの関係者を、著者は取材して歩く。病院の院長秘書、深沢の主治医など。米穀店の夫婦も登場する。ここには深沢の書簡が保存されていた。彼らの証言によっても、深沢の人物像はあざやかだが、詩人の白石かずこが要約するとおり、深沢七郎とは、物語を感じさせる作家にちがいない。
 さらに心打たれたのは、1980年、「みちのくの人形たち」が川端康成文学賞の候補になったけれど辞退したその姿勢の背後にあるものだ。深沢は辞退の理由を語らなかったが、6年後の、深沢没後に発表された新聞の匿名記事を、著者は引用する。深沢は、東京都知事選で米軍のベトナム侵略を支持した候補を応援した川端が嫌いだった、というのだ。戦争あるいはその責任への恨みを深沢は抱きつづけていた。その厭戦思想は深沢文学に底流すると、著者は考察するのである。
「楢山節考」は山梨県境川村を舞台に、死にゆく実母をモデルにして描いたという見解にも注目された。
 著者のこうした愛情と検証によって、深沢文学は死なずに今後も生きつづけるのだと
思う。     
(「信濃毎日新聞」2012年3月11日付より転載)     

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