『評伝 野上彌生子―迷路を抜けて森へ』岩橋邦枝・著 新潮社・刊
野上彌生子は70余年にわたり小説、評論、随筆を書きつづけた。著者の岩橋邦枝氏は、彼女の遺作「森」を読んで、この豊穣な傑作を百歳ちかい人が書いたのかと驚き、そのたくましさに怪物性さえ感じた。が、彼女の文学と人生をたどれば、勤勉努力の人との思いを強くしたという。
著者は『野上彌生子全集』に収録される長年の日記から、初恋の体験と老年の大恋愛に着眼した。彼女が永久に秘密にした彼は作家の中勘助だと明かし、その恋心を半生ずっと留めつづけた情熱と執着力は、彼女の創作活動のねばりづよさに通いあうものだと認める。さらに、その初恋は結婚後のことだと。
ならば浮気になろう。勉強をつづけたくて結婚した夫は家庭教師みたいな存在で、恋情はない。その不満が初恋を招いたのだろうか?「ほんのあれだけの触れあひを超えなかつた事」は幸運で、文学も放棄されずにすんだと、彌生子は回想する。文学を守るべく初恋の発展を踏みとどめた彼女は、著者が指摘するとおり、理性的で忍耐の人にちがいない。著者の、明快な人間分析と作品解説と、丹念な日記解読をとおして、わたしは、彌生子は不倫への罪悪感にも半生を苦しんでいたのではないかと思った。異性との出会いをムダにしていないことにも注目された。夏目漱石から文学をまなび作家デビューのきっかけをつかむ。文学者として年をとれ、という漱石のことばを、彼女は生涯のお守りにする。夫の野上豊一郎には仕事のマネージメントを任せる。そして、田辺元からは哲学を教わっている。
とりわけ、68歳からスタートした田辺との大恋愛がもたらした収穫が豊かだった。北軽井沢の山荘で彼の個人講義を受けたり、書簡を交換したりする。彼女は詩の世界に導かれ、人間を多面的にとらえることも習得する。その成果は晩年の三部作「迷路」「秀吉と利休」「森」にあらわれ、それまでの面白味の乏しかった作品世界に情感やのびやかさが加わったと、著者の評価は高い。
フィクションによる本格小説をめざし、実現させた彌生子の作家人生と格闘した著者も、タフな書き手にちがいない。魅力的な、新しい野上彌生子に接した思いがする。
(「信濃毎日新聞」2012年1月22日付より転載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0067:140615〕