『陽子の一日』南木佳士・著 文藝春秋・刊  

 主人公の「陽子」は、信州の総合病院に勤めて30年になる。男をあてにせず未婚をとおして育てあげた男子は保健師になり、独立した。現在、陽子は独り暮らしだ。病院では外来と人間ドックの診療に専念する。還暦をむかえ自身の周りに築いてきたタブーを解いてしまいたい。いまたしかに生きて在るこのからだの実在感を味わいつくしたいと願う。
 その日、院内メールで添付ファイルが元研修医からとどく。ファイルに記された肺結核、過敏性腸症候群など7つの病歴をもつ患者は、元同僚の医師「黒田」である。その病歴要約とともに、彼が語ったという、自身の成育歴や生活環境。そして元研修医としての考察を、陽子は読んでいく。
 医師でもある、著者の南木佳士氏は、陽子の過去について、男子の父親についても織りこんで描いているが、60代の黒田の半生記は、地味なドラマを読むようで感銘ふかい。彼のからだ深くに刻まれた見識と医療行為は、注目に値する。幼少時に妹をなくし、人間を支えるからだの頼りなさを、彼は実感する。目に見え、指で触れられ、数でかぞえられる実感こそ、生きるための確固たる足場だ、と言いきるのにも、説得力がある。
 陽子もまた、現場で、なまの患者と誠実にむきあう。元同僚の考えには共感したはずだ。
 証拠にばかり重きをおくことに異をとなえる黒田の主張は、医療の世界にかぎったことではなかろう。現代人は不安をかかえて生きている。からだを満たすことをしない日常生活にも、教育現場にも通用する、重要な課題ではないか。
 陽子は夕方5時を過ぎると、スイミングクラブへ行き、からだを水に投げだす。800メートルを泳ぎきる。帰宅すれば台所で、豆腐とネギと牛肉を煮て、よく噛んで食べる。夜11時過ぎには就寝。こうして陽子の一日は終わるのだった。
 もう1人ぴちぴちした女医がこの長編小説には登場するが、人物はみな、輪郭があざやかで魅力的だ。1人1人に会ってみたくなるような衝動に、読者は駆られる。著者の生ざまがそこには投影されているのだと思う。その裏打ちがあって読者の胸をじんとさせるのだ。
さらに、著者の風景描写を見逃してはならない。目と耳にひびき、こころに染み入ってくるのである。
(「信濃毎日新聞」2013年4月14日付より転載)       

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