――八ヶ岳山麓から(255)――
むずかしいことや怒りたくなることをやさしく、深刻な問題をおもしろく書いた本である。舞台は上海、爆買いとも反日とも無縁な出稼ぎ中国人の生活記録。
副題は「3億人の中国農民工」(日経BP 2017)である。著者は山田泰司氏、1965年生れのノンフィクションライターである。
ひとくちで出稼ぎ農民といっても、農地を他人に託して大都会にまるごと移住するのと、主な生活基盤を大都会においたとしても農繁期には帰郷して農作業をやるのと、生活の基盤が村にあり農閑期だけ出稼ぎするのとでは、だいぶ生活状況が異なる。
山田氏はおもな登場人物を10人挙げて、それぞれの農民工になった経緯と現状を紹介している。たとえばこんなふうに。
ゼンカイさんは、2015年路上生活者に転落した。その年春節を田舎で過ごしてから廃品回収の仕事に復帰してみると、ペットボトル、古紙、鉄くず、板切れなどの価格が過去一年の3分の1に暴落しており、ついに5月、月1700元(3万2000円)のワンルームアパートの家賃が払えなくなったたためだ。このとき奥さんは麦刈りのため、いなかへ帰っていた。
「ゼンカイさんは、河南省に帰れば自宅と畑がある。ただ、河南にいても仕事がなく家族を食わせることができない。畑では年の半年で小麦、残りの半年でトウモロコシを作るが、収入は両方で年五千元(九万七千円)にしかならない。だからゼンカイさんは、二十年前に結婚してからずっと、出稼ぎをして妻と子供二人の家族を支えてきた。」
私(阿部)が中国ではじめて出稼ぎ農民に行きあったのは、人民公社が解散したばかりの1980年代はじめ、甘粛省蘭州市の駅でのことだった。布団を担いだ数十人の集団が同じコースをこまねずみのようにぐるぐる回っていた。知人が「見ろ。先頭の奴がどこへ行ったらいいかわからないんだ。まさしく『盲流』だ」といった。
都会人は、「仕事があるかないかわからないまま、田舎から都会へ流れてきた連中」という意味で、彼らを「盲流」と呼んでいたのである。
出稼ぎの初期は道路工事と建築が主だった。ビル建築の足場はいまでこそ鉄骨になったが、1980年代90年代はまだ竹竿を組み合わせたものだった。足場からの転落事故はしょっちゅうあった。死亡事故の補償金は、私の知っている限りでは都市住民の1ヶ月の賃金ほどだった。
やがて中国が世界の工場といわれるようになったとき、これらの人々の呼び方は「盲流」から「民工潮」となり、「農民工」とか「外来工」になった。呼び方が変わっても、バカにされていることに変りはない。農民工は、工場や建築現場だけではなく、廃品回収、家政婦、レストランのウェイトレスなどを含めて、きつい・危険・汚いという3K仕事の、それも最底辺のところを受け持ち、最低の収入に甘んじ、ゼンカイさんのようにいつ収入を失うかわからない生活をしている。
山田氏は、「2015年の秋あたりから、上海では農民工が多く住む郊外の家賃が高騰し始めた。賃金は中国経済の減速を背景に、よくて頭打ち、スマートフォンやパソコン市場の世界的な飽和から、これらをつくる中国の工場では残業が極端に減り、ライン工の給料は物価上昇分を差し引くと、ピーク時だった2014年あたりに比べ、実質半分程度に落ち込んだケースも少なくない」と書く。
耐えられなくなった彼らが故郷に帰る現象が2015年末から翌年の年頭にかけて続出した。ところが故郷で職にありつけないものが、また上海に逆戻りする。
山田氏が知り合いのもとからの上海人に、「上海もこの頃は暮らし向きが大変になってきた……」と話をむけると、「え?大変って、何がですか?誰が大変なの?」と、ほんとうに意外なことを聞いた、というようにきょとんとした顔でそう問い返された。どこかよその国で起きていることを聞くような反応を示して終りだったという。
「前の週まで数十軒の食堂が並び、B級グルメを求める人でごった返していたレストラン街が、翌週訪れてみると、店舗がブルドーザーで根こそぎ地面から引きはがされ、跡形もなくなるという事態が起きた」
取壊しの理由は違法建築だというが、上海通のタクシー運転手は、「違法建築の一掃が目的?そんなことを信じているのか。おめでたいな」といい、ほんとうの理由は農民工を上海から追い出すためさと語ったという。
これの大規模なものが去年11月北京であった。違法建築アパートから出火した大火災の現場周辺が市当局によって取り壊され、住民が強制退去させられたのである。
田畑光永氏はこの事件を本ブログでこう書いた。
「塀の内側全部の建物が取り壊され、瓦礫がそのまま積み上げられていた……少なくとも1キロ四方くらいはある広大なものであった。……報道によれば、先月18日の火事の後、北京市のトップ、蔡奇・共産党北京市委書記から違法建築に対する『大調査、大整頓、大整理』という号令が発せられ、住民は数日のうちに立ち退くよう命じられたという」(新・管見中国34)。
中国の為政者にとって農民工という存在が邪魔になって来たのだ。
さて農民工のふるさとだが、1990年代半ば、著者山田氏が友人の村を訪ねたとき、その兄の家で出た食事は、朝食がトウモロコシのお粥、昼はトウモロコシの汁うどん、夕食もトウモロコシの焼うどん、副食はダイコンのからいつけものだけ。肉は全然出なかった。
著者は「それでも、この食事がとれるのなら、餓死するようなことはない」「農民工のたくましさと寛容さを支えるすさまじいばかりの源の一端を見たような気がした」という。
この食生活は敗戦後4、5年までの私の村に似ている。そして私が知るかぎり、日中戦争さなかの山東省の農民の食生活と同じである。餓死はしないとしてもコメや大豆の良質の蛋白質が不足している。この食生活が例外と断言できないところが中国の泣きどころだ。どこの途上国だって戦争といった大災害がないかぎり、10年20年経てば以前よりは多少はましになっている。
著者によると、2016年末で出稼ぎ農民は2億8171万人である。中国人口の5人に1人が農民工だという(国家統計局公表)。労働人口にしたら3人に1人程度になるだろう。
党中央から末端までの官僚・研究者・都市住民のなかに、農民工を中国経済の原始的蓄積を担い、20年にわたる高度成長を支えた、なくてはならぬ存在だったと考えるものがはたしているだろうか。
中国の農民は生きるか死ぬかのところへ追い込まれても反抗しない。農民工もおなじこと。どんな理不尽のしうちにも耐えられるだけ耐える。これがこのルポルタージュを通して著者が語りたかったことではなかろうか。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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