――八ヶ岳山麓から(265)――
7月26日付朝日新聞朝刊に、元中国総局長藤原秀人氏の「”礎”失い、迷走続く日中」と題する論評が掲載された。中国の大国主義を指摘し、民主化の課題と日中関係改善の困難を論じたものである。私は、この主旨におおむね納得した。欲をいえば、日中米の軍事的関係にも言及してほしかった。
ところが、浅井基文氏が自身のブログで、藤原秀人氏の見方を厳しく批判し、習近平政権に対する絶大な支持を表明した。
私はあまり浅井氏を知らないが、一時期は中国問題の専門家として泰斗と称えられたかたである。ウィキペディアによると、外務省ではアジア局中国課長などを歴任し、東大教授もやり、現在でも護憲・民主主義の立場から積極的に発言されるかたでもある。
その氏が習外交を一方的に持上げる理由はなにか。ここには、きっと私などの知らない事実と認識の仕方があるに違いないと思った。
浅井氏は、習近平外交の本質は、その最大のポイントが脱パワー・ポリティックスを目指すことにある。国際社会における大国は、中小国にはない、国際社会を社会として成り立たせる制度としての役割を担う存在だ。中国はそういう制度としての「大国」が国際社会・関係において担う役割を明確に認識し、責任ある大国として外交を行うことを鮮明にしているという見解をお持ちである。
同じことを別な言葉で、習近平外交はゼロ・サムの権力政治を排し、ウィン・ウィンの脱権力政治を志向することに特徴がある。そのキー・ワードは人類運命共同体構築、一帯一路建設推進、合作共贏(ウィン・ウィンの意味か?)、グローバル・パートナーシップ、そしてグローバル・ガバナンス・システム改革の5つであるという。だから中国を「大国主義」などという批判は当たらない。中国は「大国」を自ら認識しているが、「大国主義」ではないというのである。
だが、自分で「我々は大国主義でゆく」などという政権はないから、中国の公式発言から「大国主義ではない」と断定することは誰もやらない。実際から判断するのが通例であろう。そういう目で見ると、最近浅井氏の認識を裏切るできごとがいくつかあった。
この8月20日中国を公式訪問したマレーシアのマハティール首相は、李克強首相に前政権が中国政府系企業と契約した「東海岸鉄道」の工事の中止を通告した。そのうえで首脳会談後の共同記者会見で、「われわれは新たな植民地主義が生じる状況を望んでいない」と発言したのである。
中国にとっては、「東海岸鉄道」は「一帯一路」構想実現のための重要事業であったが、マレーシアにしてみれば、事業費が約200億ドル(2兆2000億円)と巨額のうえに、中国政府系銀行による融資の金利の高いことが問題だった。一部メディアは、マハティールの決断は中国が高い経済力を背景にインフラ投資などの「経済援助」を通して他国への影響力拡大を図るのを牽制したものという。
旧聞かもしれないが、2017年中国はスリランカのハンバントタ港を租借地とした。中国はスリランカに高利で港湾整備費を貸し付け、スリランカが財政困難ゆえに返済ができなくなると、同港を「99年租借」することにした。インドの手前、中国は軍事利用はしないとされているが、程度の差こそあれ租借国は租借地の管理統治権をもつのが通例である。
「99年租借」は、1898年イギリスが弱体化しつつあった清朝を脅して香港北部の九龍半島を租借したのと同じ長さである。帝国主義にやられたことを「大国主義」でないはずの大国中国がやっているのだが、浅井氏はどうお考えか。
さらに朝日の藤原氏は、王毅外相の「日本側がこの現実を率直に受けとめないと、中日関係を発展させるのは難しい」ということばを引いているが、この意味するところは「日本は中国の目下の位置にあることを認識せよ」ということである。到底ウィン・ウィンの関係を結ぼうという意志とは思えない。
中国国内の民主化要求に対しては、浅井氏はこういう。
「いわゆる『体制批判』の知識人や言論人さらには人権派活動家が共通して主張するのは、中国においても政治的自由が認められるべきであるということであり、要すれば欧米的モノサシでいう人権を無条件かつ即時に中国社会で実現すべきであるということです」
だから、浅井氏が人権派を支持するかと思うとそうではない。中国に関しては生存権も政治的自由もという要求を排除する。
「中国は鋭意絶対的貧困の解消に取り組んできたが、今日なお5500万人の絶対的貧困層を2020年までに貧困から抜け出させることを国策として取り組んでいる現実もある。このような国にあって、個々人の政治的市民的権利の無条件な実現を要求することには無理があることを認める必要がある」というのである。
中国はいま生存権実現のために奮闘努力しているのだから、絶対的貧困層が救済されるまでは政治的市民的権利は時期尚早、それよりも生存権だというのである。ここは中国政府の人権報告書とまるで同じ主張である。
では、中国で生存権がほぼ実現したとして、その時人々はどんな政治的市民的権利をもちうるか。不思議なことに浅井氏は「欧米的モノサシ」ではない、中国に適合した政治的自由や人権についてはひとことも語らない。これでは1989年の民主化運動(天安門事件)の犠牲者は犬死である。
だが、中国より貧困なモンゴルなどいくつかの旧ソ連圏国家、インドやネパール、ギリシャなどをご覧なさい。完全ではないにしても、「欧米的モノサシ」でいうところの政治的市民的権利と普通選挙が実現しているじゃないか。
さらに浅井氏は、自分のことについては「正直言って、私のような者は中国社会では生きていけないだろう。なぜならば、私のような発想・考え方のものが中国社会で自らを貫ける自信はないからだ」という。
えっ、なぜだ?実に奇奇怪怪!
この疑問への浅井氏の回答は、「今日の日本を前提とするとき、市民的政治的権利も経済的社会的文化的人権もすべての国民に保障されるべきであると確信するものであり、したがって、(浅井氏は)中国における『体制批判』者と同列・同質であるから、中国社会では生きていけない、という判断を述べたものです」というものだ。
――精一杯善意に解釈しようとしたが、私にはどうしてもこの理屈がわからなかった。日本人には自由権も社会権も保証されてしかるべきだが、中国人にはそのようなものは必要ないといいたいようだ。
浅井氏の議論が中国の医療制度の向上、貧困人口の著しい減少などを高く評価したくだりに至って、私にもようやくわかった。氏は中国民衆の現実生活をまるで知らないまま、民主だとか人権について発言しているのだ。改革開放以来すでに40年近い。どんな国だって毛沢東流のでたらめな政権でなければ、40年もたてば民衆の生活は多少は向上するものだ。
浅井氏の議論の仕方には遠い昔の記憶があった。50年前文化大革命を熱狂的に支持した日本文化人、マスメディアの論理である。曰く、盲従。浅井氏は私よりも数年若いらしいが、こういうかたがまだいるのだ。
(2018・08・31)
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